2023.6.18-21 呼吸哲学学会参加報告

 第5班のメンバー池野絢子は、2023年6月18日から21日にかけてスロベニアのポルトロシュで開かれた国際学会Respiratory Philosophy: A Paradigm Shift in Philosophyに参加しました。

 私たちの生にとって根本的なものであると同時に、あまりにも身近な現象である呼吸は、これまで西洋哲学の領域で中心的なテーマになってきませんでした。しかしリュス・イリガライやペーター・スローターダイクを先駆として、近年では哲学の分野でも研究が進んでいます。本学会はスロベニアのZRS Koperと神戸大学のKOIAS(神戸雰囲気学研究所)の共催によって開催され、非西洋圏の空気や雰囲気をめぐる議論をも広く参照しながら、従来の哲学のありかたを問い直すことを目指したものです。

 池野はKOIASのメンバーの一人として本学会に参加し、Figures of Breathing in Contemporary Art: The Artist as a Bricoleurと題した研究発表を行いました。20世紀以降の芸術家たちが空気や呼吸という、形のないものをどのように表現してきたか、そしてとくに1960年代の芸術家たちが呼吸のテーマにいかなる意味を見出そうとしたかを検討する内容です。空気、特に空気の動き(風)をいかに表現するかは芸術家たちが幾世紀にもわたって取り組んできた課題ですが、本プロジェクトとの関連で考えると、人新世時代の芸術における空気や大気の表象についても考えることができるように思いました。第五班の主催した岡田温司氏によるセミナー(2023年2月18日)はまさにそうした内容でしたが、本学会とちょうど同時期にヴェネツィアのプラダ財団でも人新世時代の気候変動と芸術をテーマにした展覧会Everybody Talks about the Weatherが開催されており、芸術の領域における関心の高まりが伺えます。他方で、呼吸は決して人間だけの営みではないので、それを人間以外の生物と人間との関わり(政治)のなかで考えてみる必要性を、本学会を通じて感じました。今回得られた知見は、第五班が2024年3月にローマで開催を予定している国際シンポジウムに向けて深めていきたいと考えています。

 4日間にわたる学会では、参加者の研究発表のみならず、呼吸を感じるワークショップやコンサートも開催され、終始リラックスした雰囲気のなかで進められました。なお、本学会での研究発表は、JSPS科研費19K13014の助成による成果であることを付け加えておきます。(文責:池野絢子)

2023年度文学部・人文学研究科秋季サロン
「ハイブリッド人文学」ーースキルとツールの共進化−」

企画概要:文献解読において、人間側にスキルの上達があり、他方にテクノロジーが提供するツールの向上があり、両者が相互的に創発し合い、共進化する中で人文学が展開している。このような研究の最前線をアピールする。

日時:2023年10月21日(土)13:00~14:30

場所:名古屋大学東山キャンパス 文学部棟2階237

2023.9.28 第4回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

🌟発表題目:『恋するアダム』を読む—情動に関する描写を中心に

(1)発表内容のまとめ

 2023年9月29日に行った発表では、イアン・マキューアンのSF小説『恋するアダム』を取り上げました。舞台設定は架空の1980年代、イギリス・ロンドン。フォークランド紛争でイギリスが敗北していたり、科学者のアラン・チューリングが生きていたりと、現実とは異なるもうひとつの世界が描かれています。主人公のチャーリーは遺産をはたいて人間そっくりのアンドロイドであるアダムを購入します。チャーリーの恋人であるミランダにアダムは恋をして、三角関係が生じます。

 政治、技術、人間という存在、ヒューマノイドロボットとの共存、愛や恋の感情、命とは、など議論の幅の広い本作ですが、今回の発表では特に「情動」に着眼して発表しました。これは発表者の個人的興味によるもので、人間とヒューマノイドの間にあるはずの根本的な差は、「情動の有無」ではないか、と現在は考えているからです。そこで、小説のなかでマキューアンがどのようにチャーリーおよびアダムの情動(あるいは情動のように見えるもの)を描いているのか、具体例を引きながら考えてみました。

 人間と同等かそれ以上の知能を備えているとされるアダムには、すぐれた言語能力や情報処理能力だけでなく、人間であるかのような質感が備わっています。たとえば肌はあたたかく、触ると奥に筋肉の感触があります。喋るときには呼気と舌と歯と口蓋を使って声を出します。体からはかすかにオイルの匂いが漂い、特に息には温かいテレビの裏側のような匂いがするそうで、それは人間との差を強調してしまう部分かもしれません。

 このように、人間とは何かが違うけれど、高精度で人間を模倣しているアダムによって、チャーリーは様々な感覚を喚起させられています。発表者にとって印象的だったのは、アダムの初期充電が終わったときの描写です。

(前略)そばに近づいてみると、呼吸はしていなかったが、うれしいことに、左胸のあたりが規則的に脈打っていた。(略)彼には体内に送り出す血液があるわけではないが、このシミュレーションには効果があった。わたしの疑念がちょっぴり薄れたのである。ばかげているのはわかっていたが、アダムを保護してやりたいような気分になった。(略)生命兆候は信じやすかった。(略)裸の男のかたわらに立って、頭で理解しているものと実際に感じるものとの乖離に戸惑っているというのは気味が悪かった

(16ページより・強調は発表者による)

心臓を持たないアダムが、鼓動があるかのように見せかけている理由は一体何なのでしょう。チャーリーは、この生理現象のモノマネに、すっかり騙されてしまいます。なぜなら「生命兆候は信じやす」いからです。生命兆候は、人間の情動の一種です。

人間そっくりに脈打ちはじめている裸のアダムを前に、チャーリーの感情は揺れています。「うれしく」なったあと、まるで子どもを見ているような気持ちになって「保護してやりたく」なります。しかしその一方で、アダムには心臓を動かす必要が一切ないことも理解しているため、「実際に感じるものとの乖離に戸惑」い、さらにその状態を「気味悪い」と感じています。

 アダムが人間の生理現象を忠実に再現するのは、彼と対峙する人間に共感を芽生えさせるためでしょう。チャーリーがいかに理性では「気味悪い」と思おうと、チャーリーの感覚は自動的にといってもいいほど反射的に、アダムを自分と同じく生きているものとして捉え、「うれしい」「保護してやりたい」という気持ちにさせるのです。

 発表では、情動を軸に、アダムとミランダのセックスや、その後の三角関係などについても考察しました。

 反省点として、最初にもう少し詳しく情動論について紹介すべきでした。

(2)フィードバックについての省察

 参加者のフィードバックからたくさんの気づきを得ました。本当にありがとうございます。すべてにお答えしたいところなのですが、以下2点にコメントします。

①アダムには特に物理的側面における特異性(例えば触れるとか)があると改めて気づきました。

 チャットGPTを始めとする生成AIは、人間の形をしている必要がありません。二次元的なやりとりで済ませられるからです。しかし、それだけでは飽き足らず、人間のかたちをした人間そっくりのロボットを作りたいという欲望は多くの人々に共有されており、実現させるための研究も数多く行われています。それにしても、なぜ人間そっくりである必要があるのでしょうか?発表者も常々疑問に思っていました。

 この疑問に対して、コメンテーターを務めてくださったロボット工学者の宮澤和貴さんから、「人間とそっくりに作れば、すでに人間のために作られているこの社会におけるさまざまな道具を共有できるというメリットがあります」とのアドバイスをいただきました。なるほど、と膝を打つご回答でした。

②アダムになぜ性器がついているのか、必要なのかというトピックにおいて様々な意見がありましたが、私は、『聖なるズー』における動物性愛者たちの思考を借りて考えてみました。アンドロイドであるアダムの性器は、アダムが一瞬でも人間と対等な立場で存在することができるようにと付けられたのではないでしょうか。人間に近づけるため、視覚的な意味で取り付けたという面もあるでしょうが、アダムが人間らしさを学ぶのは肉体構造だけでなく、あくまで人間との共同生活の中(その過程)にあります。共同生活の一部としてのセックスが可能となるよう、そして人間と対等であると思えるように、そういった人間らしい精神を得るための性器であり、セックスであるような気がします。

 参考資料として挙げてくださった『聖なるズー』は発表者の単著で、人間と動物の性を含む関係についての学術調査をもとにしたノンフィクションです。私自身、気づかなかったことをご指摘くださいました。本当にありがとうございます。確かにその通りです。

 アダムは性器を使用して、セックスそのものの感覚のみならず、誰かを狂おしく求めることや、さらには屈辱的なかたちでのマスターベーションまで経験します。それらの実践を通して、アダムは恋を自覚し、だからこそ、死にたいと一瞬でも思わなかったのだと自己を考察しています。さらに、マスターベーションは嫌な思い出となってしまったようで、そうであれば、自己を大切にするとはどのようなことかを学んだのではないでしょうか。

ご指摘を頂いて、目からウロコが落ちる思いでした。ありがとうございました!

みなさんとまた、様々な本について語り合うのを楽しみにしております。

(文責:大阪公立大学UCRC研究員/ノンフィクション作家 濱野ちひろ)

2023.9.18 第3班特別会議

 2023年9月18日に大阪大学にて、第3班特別会議が開催されました。本会議では、大阪大学長井研究室のロボット研究環境および実際に動作するロボットの見学が行われました。

 ロットの温度、動き、サイズ、対面時の印象などを確認し、参者同士で議論を行いました。その中で、ロボットの故障や廃棄に関する話題も上がりました。このようなロボットが持つ脆弱性に関する議論は、第3班のテーマである”個人の主体化における脆弱性の意義の追求”に関連して、ロボットがどのように利用可能かについての考察に繋がり有意義でした。また、ロボットの言語獲得モデルに関する研究について宮澤が説明しました。知能ロボットを作ることで人間を知るという構成論的アプローチや、ロボットの言語獲得モデルの具体的な計算モデルについて、参加者の間で理解を深めました。加えて、長井研究室修士2年の日紫喜氏からは大規模言語モデルを用いたロボットの行動理由の説明に関する研究紹介があり、山本哲也氏からは2023年9月15日〜17日に行われた日本心理学会第87回大会での発表について、ChatGPTを用いた研究を中心に紹介が行われました。本会議を通して、第3班の研究におけるロボットや言語モデルの利用方法について、大変有益な洞察を得ることができました。(文責:宮澤和貴)

[第4回案内]

🌟開催日時:2023 年 9 月 29 日(金)20:00〜22:00(~22:30 アフタートーク)
🌟講師:濱野ちひろ(大阪公立大学 UCRC 研究員/ノンフィクション作家)
🌟コメンテーター:宮澤和貴(大阪大学 大学院基礎工学研究科 助教)
🌟テキスト:イアン・マキューアン『恋するアダム』(村松潔訳, 新潮社, 2021)


[第3回案内]

🌟開催日時:2023 年 7 月 28 日(金)20:00〜22:00(~22:30 アフタートーク)
🌟講師:八木悠介(ロレーヌ大学博士後期課程・東京都立大学研究員)
🌟コメンテーター:西村真悟(京都大学大学院文学研究科博士後期課程)
🌟テキスト:ミシェル・ウェルベック『ある島の可能性』(中村佳子訳, 河出文庫 2016)

[第2回案内]

🌟開催日時:2023年4月21 日(金)20:00〜22:00(~22:30 アフタートーク)
🌟講師:肖軼群(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程)
🌟テキスト:カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋政雄訳(ハヤカワ epi 文庫 2008 年)

[第1回案内]

🌟開催日時:2023年2月24日(金)20:00〜23:00
🌟講師:南谷奉良(京都大学 文学研究科英語学英米文学専修 准教授)
🌟ゲスト:佐次田哲(システムエンジニア)
🌟テキスト:カズオ・イシグロ『クララとお日さま』土屋政雄訳(早川書房 2021 年)

2023.8.16 『悪口ってなんだろう』(和泉悠著)合評会

 8月16日京都大学にて、研究会メンバーのひとりである和泉悠の新刊『悪口って何だろう』の合評会(表題「悪口と社会的痛み」)が開催されました。

新刊『悪口って何だろう』(ちくまプリマー新書)の概要

 本書は、研究会メンバーでもある著者和泉悠が行っている、言語のダークサイド研究を一般向けに解説したもので、特に「悪口」と日常的に呼ばれるものに焦点を当てています。「悪口はどうして悪いのか」「どこからどこまでが悪口なのか」「悪口はどうして面白いのか」という3つの問いに答えながら、悪口はヴァーチャルな劣位化(ランク付け)である、という主張を展開して擁護しています。

合評会での議論

 合評会では、参加者の全員から非常に有益なフィードバックを受け取りました。参加者全員が、英文学や発達心理学やロボット工学といった自身のフィールドをそれぞれ有しているため、哲学・言語学を研究背景とする和泉にとってとても新鮮なコメント・意見・批判が提示されました。本書では検討しきれなかったテーマや具体例などが数多く示され、それをきっかけとして活発な議論が行われました。

 ハイライトを紹介します。本研究会のテーマの一つと関連して、会話AI、自動掃除機やスマートスピーカーなど身近に存在するロボット、今後普及するかもしれない人間型のヒューマノイドが取り上げられました。そうした機械・人工物に向けられる悪口、そしてそれらが使う言語の特徴について議論が行われました。重要な観察として、『クララとおひさま』において、そうした機械がどのように記述されているのかという例が参照され、和泉による悪口の「ランキング/劣位化説」の観点からそれらの例がうまく理解できることが指摘されました。

 他にも、マイクロアグレッション、ヴァージニア・ウルフの女性差別批判、太宰治の自虐、類人猿や子どものランキング理解、ドーパミン回路と悪口の依存性といったテーマで活発な議論が交わされました。今後さまざまな媒体でこうした議論の成果を発表していく予定です。

2023.7.28 第3回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

🌟発表題目:『ある島の可能性』、あるいはミシェル・ウエルベックの読み難さ

(1) 発表内容のまとめ 

 2023年7月28日の発表では、フランスの現代作家ミシェル・ウエルベックによる長編小説『ある島の可能性』について、その作品制作上の文脈、作品の構造、登場人物の(とりわけ性的な)言説、翻訳では現れにくいフランス語の修辞といった各要素に関して、読者が直面する読み難さに焦点を当てました。

 上記発表内容を選択した理由は、『ある島の可能性』のみならず、ウエルベックという作家があまりに単純化された形──たとえば、現代社会への悪辣な批判者、禁忌を厭わない口さがのない作家、などといった定型──で消費され過ぎているのではないかという発表者自身の当惑と、実際に当作品を読了した方々からの感想を踏まえてのことです。たしかに本作は露悪的で俗悪な言説が目につきますが、丁寧な読解を試みるならば、また違った位相が浮かび上がる作品として描かれています。その最たる特徴として、たとえばこの小説の冒頭と末尾が、同作家の詩作品で頻繁に用いられるフランス詩法で描かれている点などが挙げられるでしょう。読むことに抵抗感を感じるほどの文章と、ほとんど美学的と言ってよい詩的探求を目指す文章が混在する『ある島の可能性』という作品は、非文学性と文学性が緻密な駆け引きを繰り広げる作品とみなしえます。

 もちろん、この観点から存命作家であるウエルベックが文学的であるか否かを議論することは時期尚早に違いありません。とはいえ、一般的に言っても、戦略的に書かれた作品をその文学的側面を無視して消費することは、あきらかに愚かなことです。このことは、おそらく作品自体が訴えていることでもあります。というのもこの小説の本筋は、先人が書き残した文章を、その人物のクローンたちが世代を重ねながら熟読し注釈を加えていくという物語だからです。本作で描かれる彼らクローン人間たちによる、その薄弱な生を賭した読書行為は、真剣になにかを読むという行為について考えさせられます。つまり、ある種の読書という行為は、単なる消費活動ではないのだと切実に訴えかけているように思われるのです。

 「終わらない読書会」という場に合わせたかのような結論となりましたが、これはいくつかの先行研究と、作家自身による本作発表後のインタビューや、刊行された往復書簡を傍証に辿り着く形になりました。見方を変えれば本発表は、一作品だけを読んでも理解し難い部分が多く残るというこの作家の特徴を浮き彫りにした形になったと思います。

(2) フィードバックについての省察―文学研究と読書会との狭間で

 発表者と同じくウエルベックを研究する西村真悟さん、主催者であるStephensの南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんらから、大変鋭いコメントを頂戴しました。ここにそれらを再掲することは、各人のコメントの豊かさと、文字数の問題から残念ながら叶いませんが、当日応答しきれなかった南谷さんからの「触覚・痛みの感覚」「島という主題と植民地主義」についての指摘はあえてここに記させていただきます。この指摘は、作品分析に腐心しがちな発表者にとって、作品を開放的に語る視座の重要性を改めて開いてくれるものだからです。

 開放的議論という観点から言えば、今回の発表での最大の収穫は、多くの参加者の方々からのコメントを頂戴したことです。「終わらない読書会」第二回にならい、発表の一週間ほど前に読書ガイド代わりのトピックリストを作成・配布し、読書会の序盤にそれを踏まえたコメントを、さらに発表後に改めて発表に対するコメントをと、二段構えで多くのご意見を頂戴しました。読書会という双方向的な場とはいえ、質疑応答が活気づいたのは、作品の強さと、参加者の方々の熱意、そして会の運営方法に大きく依存していると思います。この場を借りてみなさまに感謝申し上げます。また、当日、発表後の鋭い質問にはどうにか応答できましたが、会序盤のコメントについては時間の都合上ほとんど返答ができませんでした。すべてに返答申し上げることは難しいですが、そのうちのいくつかにお応え致します。

  • 「作家は映画化を目論んでいたのではないか」。ご指摘の通りで、本作は作家自身が監督して映画化するという構想がごく初期段階からあったようです。その制作資金獲得のために出版社を鞍替えしたという経緯もあります。
  • 「スキャンダラスに書くことは、リベラルに反感をもつサイレント・マジョリティへ売り込む戦略ではないか」。発表でも多少触れましたが、ウエルベックは自由(主義)に抵抗感を強くもっている作家であり、その創作意図には「スキャンダル」な真実を暴くというものが含まれているとみなせます。したがって、おそらくこの作家を読む上で、書き方が「スキャンダル」なのか、それとも彼の書いたものが「スキャンダル」なのかについて、慎重に距離を取って考えねばならないと思います。後半の販売戦略(のことでしょうか)については、出版社からの要請と、作家自身の創作哲学が絡み合っているでしょうから、作品読解からだけでは十分な議論は不可能に思われます(実証的研究が待たれます…)。
  • 「人間の描写が、分類に満ちている」。その通りで、この作家の小説では生物学的分類(昆虫描写には、馴染みのない生物学用語がしばしば用いられます)のレベルから、ときとして不愉快なほどの人種的・国籍的ステレオタイプ化のレベルまで、多くの分類的視線が現れます。とりわけこの作家の初期において、個人概念への疑念は顕著であり、その表出のひとつなのかもしれません。実際、人間は有限のタイプに分類可能だという作家自身の思想が小説作品の登場人物に適応されている、という指摘は多くなされています。

 またご指摘のなかには、「研究者の視点と一般読者の視点は異なるという印象があった」というコメントがありました。これは私の作成したトピックリストへの批判的感想と思われますが、重要なご指摘であるため、以下のように応答させていただきます。

 今回の発表を準備するにあたり、私が心掛けたのは単なる研究発表にはすまいということでした(ですので、ご指摘は痛烈な批判として受け止めております)。これは開放的な読書会において「研究者と一般読者を区分けしない」という意味ではなく、むしろ「研究者と一般読者はなにが違うのか」という問いを再考する機会でもありました。私の結論を先に申し上げれば、「研究者と一般読者の差は、読書体験においてはさほど生じない」というものです。これは理論的な省察ではなく、初心に立ち帰り、本作を読みながら疑問点や感想をとめどなく余白に書きつけ、そのメモ書きをリスト化していく段階での実感です。もちろん研究者である以上、専門分野である作品や作家への知識や、文学という学問領域での知識や知見は備えていなければなりません。しかし、ある文学作品を鑑賞するにあたって、そうした知識はさほど役に立つものではないと私は考えます。文学研究者の仕事とは、なにか真なる解釈や読解を提示することではなく、ウンベルト・エーコが述べていたように、作者が言い淀んだり書き忘れたりしたことを補填すること、すなわち『ある島の可能性』の登場人物のように註をつけること以上でも以下でもありません(つまり、研究職の職能とは、読書時の余白への書付をいかに客観的に活字にするかという点にかかっていると思います)。しかし、こうした註は作品を補強する一方で、目にはうるさいという運命を背負っています。

 オンライン読書会という限りなく開かれた場において、こうした註釈を延々とすることは、退屈である以上に、作品鑑賞において邪魔でしかないように思われます。もちろん、註釈自体がある種の知的好奇心を誘発することを否定しているわけではありません。とはいえ、個人的に何かを読み、疑問や感動を携えたとき、そうした註釈が必要かというとはなはだ疑問です。それが理由で、上述の方針を固め、私の研究上の所産というよりも、作品理解の補助線を引くことを心がけた発表をさせていただきました。

 『服従』という、『ある島の可能性』の二作後の作品では、まさに文学研究者である主人公が登場します。彼は専門であるユイスマンスについて全集版の序文を書くことになるのですが、その完成の過程で彼は次のような天啓を得ます。「ぼくは突然、完全にユイスマンスを理解した、それもユイスマンス自身よりもずっと完全に」。この妄想すれすれの確信が主人公に訪れるのは、ユイスマンス作品の読後でも、関連論文の読後でもなく、レストランでメニューの選択に頭を悩ませているときです。文学作品が生の所産でありうるのであれば、その理解は──妄想であれども──やはり知の領域ではなく、生の領域でなしうるのではないか。これは一種の仮説に過ぎませんが、少なくともウエルベックにおける読書の重要性のひとつには数えられる観点です。

 ウエルベックの諸作品で引用ないし言及された書物を丹念に読み、その意図や意味を追求する『ミシェル・ウエルベックの引き出し』の著者であるヴィアールは、「ウエルベックはまともに読まれていない」と発言したことで知られています。今回の発表ではまさにこの読むことについて深く再考する大変よい機会になりました。いただいた多くのご指摘や、ご感想を、今後の研究の活力にしていきたいと思います。ご参加いただいた方々、ご運営いただいたStephensの方々、共催の「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」、コメンテータ―を務めていただいた西村真悟さん、みなさまに改めて感謝申し上げます。(文責:ロレーヌ大学博士過程・東京都立大学客員研究員 八木悠允)