2023.11.24 第5回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

🌟発表題目:『ムッシュー・アンチピリンの宣言―ダダ宣言集』を読む――「ダダの詩を作るために」をめぐって

(1)発表内容のまとめ

 2023年11月24日の発表では、トリスタン・ツァラ『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』を対象に、「ヒト・動植物・機械・モノ・自然」の境界が揺らぐ時代に誰がどのように詩を作るのかという問いについて考えました。本発表では特に、『かよわい愛とほろにがい愛についてDADAが宣言する』という宣言に収録されている「ダダの詩を作るために」という詩を作るためのプロトコルに焦点をあてました。そして、人間による詩作と生成AIによる詩作を比較するという目的のもと、参加者一人ひとりが詩や言葉について思いめぐらす機会となることを目指しました。

 発表の前半部では、まず、Googleが提供する“Verse by Verse”という生成AIを活用して詩を作るウェブアプリやChat GPTによって作られた詩を紹介しました。私たちが多かれ少なかれ「詩とは何か」を知っているのと同様、生成AIもまた「定型詩」「散文詩」「コンクリート・ポエトリー」といった詩の形式やジャンル、および様々な詩人たちの文体を知っており、文学史の中に蓄積された詩の条件を踏まえながら詩が作られるという点を指摘しました。これに対して、ツァラの提案する「ダダの詩を作るために」の作詩法とは、選んだ言葉を偶然に任せて並べることで詩を作る方法で、統語法や文法が破綻する詩句が生まれる傾向にありました。したがって、私たちや生成AIが思い描く詩とは異なり、秩序のない詩が出来上がります。「価格それは昨日適当でそれから絵画/夢を評価すること眼の時代/絢爛豪華にそらんじてみせようか福音書ジャンルがあいまいになる/集めろ絶頂期想像することと彼は言う宿命色彩の力」(76-77頁)という発表内で取り上げた詩の抜粋からも、その混沌とした言語がうかがえるでしょう。

 こうしたツァラの作詩法は、「否定性」や「説明不可能性」を特徴とするダダの諸宣言と関連しています。だからこそ、まったく意味がなく、理解することのできないデタラメな詩こそがツァラの推奨する詩なのだと、一見すると思われます。しかしながら、ツァラ自身が「ダダの詩を作るために」の作詩法の中で「君によく似た詩ができあがるだろう」と書いているように、文法や統語法を逸脱し意味と概念の混乱を経てなお、滲み出る「私」が詩に現れるという点を本発表では指摘しました。この点に関しては、プリミティヴなものへの関心、「思考は口の中でつくられる」という宣言中の一文に基づく言葉の身振りや響きの探求、そして「詩=生」という考えの三点を例として取り上げ、混沌としたツァラの詩のなかに現れるツァラらしさを読み取りました。

 以上を踏まえ、ツァラの言う詩とは、何かを否定し破壊することで作り上げられた荒唐無稽なものではなく、自分自身の生き方に接近する方法なのだとまとめました。したがって、発表の冒頭で確認した、あるジャンルや形式のようだから、ある詩人の文体に似ているから、といった別の作品との類似を条件としてある作品を詩とするのではなく、その言葉のどこに「私」があるのかを問うことこそ重要な点であると指摘しました。(ツァラ自身が1919年の「詩に関するノート」で類似を退けています)

 上記のツァラの詩学を踏まえ、発表の後半部では参加型企画として、生成AIを用いながら参加者と共にダダの詩を作ることに挑戦しました。まず、文章の書かれたもの(本、新聞紙、ちらし、公的書類、漫画等)を三つ準備し、その中で真っ先に目にとまった言葉や文章をメモしながら、「ダダの詩を作るために」に基づく詩作を参加者と共に擬似的に体験しました。次に、同じ言葉や文章を用いて生成AIに詩を作ってもらい、先の詩と内容を比較しました。

 前者の詩では、偶然によって選ばれた言葉が無秩序に並べられることで突飛なイメージが展開される一方で、そこにどのように自分らしさが現れうるのかを参加者と共に考えました。それに対して後者の生成AIが作る詩は、選ばれた言葉から類推される言葉を補うという性質上、統語論的に不自然さの少ない長い詩句へと向かう傾向や、詩的であるとみなされがちな言葉(歌、奏でる、希望など)が多用される傾向が確認されました。それと同時に、カタカナで入力された語彙が反復されることで特定のイメージが強調されるなど、新たな発見がありました。

(2)フィードバックについての省察

 参加者の方々からのフィードバックから、たくさんの気づきが得られました。この場を借りて、御礼申し上げます。

 いただいたご感想やご質問は、大きく(A)詩の定義に関わるもの(B)ツァラやダダの歴史に関するものの二つに分類できますので、それぞれお答えいたします。

(A)詩の定義に関わるご感想とご質問

 「ダダの詩を作るために」という一種の規則を破る作詩法を取り上げた今回の発表を通じて、多くの参加者が「詩とは何か」という問いについて考えてくださったようで大変嬉しく思いました。

 まず、「ツァラの詩は韻を踏んでいるのか」、「韻がなかったり、定型詩でないのに「詩」と自認しているのはなぜか」という内容のコメントが寄せられました。ツァラの詩は、脚韻を踏まないことがほとんどです。しかしながらこれは、フランス詩の歴史において珍しいことではありません。なぜなら、19世紀になると脚韻や定型に依存しない散文詩や自由詩の実践が多くなるからです。具体的な実践者として、シャルル・ボードレール、アルチュール・ランボー、ジュール・ラフォルグなどの詩人の名前が挙げられます。ツァラはルーマニア出身で母国語はルーマニア語ですが、幼少期からフランス語も勉強しており、このフランス詩の流れからも強く影響を受けています。したがって、ツァラの詩とは、この散文詩や自由詩の系譜に位置づけることができると発表者は考えています。事実ツァラは、自由詩はもちろん、散文詩も書いています。

 ところで、ある詩が詩であるとそれまで定めてきた規則が効力を持たなくなったとした ら、何をもって詩と言えるのでしょうか。脚韻や形式を根拠にできない以上、それはもはや容易ではないですし、散文詩や自由詩を定義づけることが困難であることをも示しています。散文で「詩的」に書かれていれば詩なのでしょうか――あるものは小説に分類されるでしょう。同様に、改行をしていれば必ず詩であるというわけでもないでしょう――もしそうであるなら、極端な話、箇条書きや料理レシピも詩に分類されるからです。

 それでは、何もかもが詩なのでしょうか。「ツァラが、詩ではないと言うような詩はあるのでしょうか」、「本書85頁に「ダダ/アイディア開発のための株式会社」とありますが、詩の量産方法でしょうか」というコメントを参加者の方からいただきましたが、たしかに、ツァラにとっての詩とは「書かれた詩」に限りませんし、19世紀フランスの詩人イジドール・デュカス(ロートレアモン)の「詩は万人によってつくられねばならない」という言葉を強く意識している点から、彼は詩の拡大を狙っていたと言えます。一方で、一切合切を詩として受け入れることに抵抗を示しています。なぜならツァラは、「詩の状況に関する試論」(1931年)の中で、小説と見かけの形式によってしか区別されない詩や、思想や感情を表現する詩はもはや誰の興味もひかない、と書いており、「表現手段としての詩」と「精神活動としての詩」を区別しているからです。前者は考えや意見を伝えるもので、後者ははっきりとした筋のないイメージの連続、あえてこう言えば、夢のようなものです。ツァラはこうした区分を用いて古典主義からロマン主義(そしてシュルレアリスム)へと至る詩の歴史を辿るのですが、そこで強調しているのは、詩は表現手段としてだけではなく、言葉で表しがたいもののためにも働くという点です。

 興味深いのは、ツァラは形式(脚韻や定型詩に必要な音節)が整えられ人に受け入れられやすい内容をつ詩の方ではなく、言い表せなかったり説明できなかったりする詩の方の味方をするという点です。こうした詩には、必ずしも明快な言葉でなくとも、口から放たれた理由があります。その理由とは、ある行動やある出来事に結びつくものです。それゆえ、言葉以前に詩があることを強調したからこそ、ツァラは「詩とは生き方である」という考えに至り、詩を再定義しようとしたのだと思います。そして、そのような詩が可能になるために、社会変革が求められるとツァラは言うのです。

 ツァラはこの考えを押し進め、「潜在的な詩と表示的な詩」(1945年)という文章を発表しています。そこで書かれているのは、詩とは、一篇の書かれた詩になるより先に、どこにでもある「感情、物事の質、存在の条件」であるということです。この状態の詩は「潜在的な詩」と呼ばれ、この「潜在的な詩」を「表示的な詩」として客観化する必要があるとツァラは語っています。つまり、自分が何を感じ、どのように生きているのかという事実に迫ることが詩の本質であり、学校教育や社会が課す制約とは異なる個人的な動機に基づく行為が詩となるのです。

 したがって、ツァラの詩学に則って詩とは何かという質問に答えるならば、言葉になっていなくとも詩の主体の生が滲み出るもの、ということになるでしょう。そして、その生にアプローチするために、詩における主観的なものの現れ方や、「私」の現れ方に向き合う必要があると発表者は考えております。

 「詩とは何か」という点に関して、ツァラやフランスを越え、日本の現代詩に目を向けながら質問してくださる方もいらっしゃいました。「日本の現代詩には基本的に脚韻がなく、定型詩でもないが、何をもって詩というのか」とのことですが、おっしゃるとおり日本の近現代詩にもまた、文語か口語か、定型か非定型かといった調子や雰囲気によって定義できない多様性があると思います。西脇順三郎は、詩とは「つまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法」(『超現実主義詩論』)であると述べ、萩原朔太郎は「主観的態度によって認識されたる、宇宙の一切の存在である」(『詩の原理』)と述べています。こうした詩論により、もっとその詩人らしい詩の構成要素(意味、イメージ、韻律など)を作品の中に反映するという地平が開かれたのは間違いないように思われます。「詩とは何か」という問いを立てることが可能になった時代を生きる私たちは、それぞれの詩人が主張した詩論を読み比べながら、少しずつ詩について明らかにしていくのでしょう。

 「生成AIの作品を「詩」と認める要因、つまり「詩らしい体裁」とは何でしょうか」という参加者からのコメントについて、以上を踏まえて考えてみると、「詩らしい体裁」にこだわらずとも、生成AI自身の生を読み取ることができれば、その作品を詩と呼ぶことができるのだと考えます。そして、そこに生を読み取るためには、彼らの生き方や、作品が成立するに至った状況を深く知ることが求められると思います。

(B)ツァラやダダの歴史に関するご感想とご質問

 ツァラやダダの歴史に関するコメントについて、以下、お答えいたします。

・「先に詩作があってそれから宣言を出したのでしょうか。宣言を出してから宣言に則って作詩をはじめたのでしょうか。」

 これは重要なのですが、ツァラはダダの開始(1916年)以前からルーマニア語で詩を書いておりました。そのため、ダダの諸宣言より先に詩作があったのは間違いありません。ただし、ルーマニア時代の詩とダダの詩を読み比べると受ける印象がずいぶん違いますので、ご関心があればぜひ読んでみてください。ツァラのルーマニア語詩篇のいくつかは、浜田明『トリスタン・ツァラの夢の詩学 』(思潮社、1999年)、大平具彦『トリスタン・ツァラ―言葉の四次元への越境者』(現代企画室、1999年)内に日本語訳が掲載されています。

・「スイスでその人と知らずレーニンと出会ったことが、後の政治への接近・参加と何らかの関係があるのでしょうか。」

 ツァラの政治への接近は、1930年代のフランス共産党の活動やナチの台頭との関係が深く、1936年に始まるスペイン内戦や、第二次世界大戦にもコミットしています。また、マルクス主義が彼の思考に影響を与えたと言われています。

・「新聞『萬朝報』のダダ紹介記事はどのようにして読むことができるのでしょうか。」

 ダダは、『萬朝報』の1920年8月15日号掲載の記事で初めて日本に紹介されたと言われています。こちらの記事に関しては、国立国会図書館等の図書館で資料を閲覧する他、中野嘉一『前衛詩運動史の研究』(新生社、1975年)に複製が掲載されているので、ぜひご覧ください。

 読書会は、発表者自身にとってもツァラの詩学についてあらためて考える実り多い時間でした。発表内で行った詩の朗読を好意的に受け取ってくださった方も少なくなく、またみなさまとツァラの詩を一緒に読む機会を今から待ち遠しく思います。

 ご参加いただいた方々をはじめ、ご運営いただいた南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さん、コメンテーターを務めていただいた森田俊吾さん、そして共催の「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」、みなさまに改めて感謝申し上げます。

2023.9.28 第4回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

🌟発表題目:『恋するアダム』を読む—情動に関する描写を中心に

(1)発表内容のまとめ

 2023年9月29日に行った発表では、イアン・マキューアンのSF小説『恋するアダム』を取り上げました。舞台設定は架空の1980年代、イギリス・ロンドン。フォークランド紛争でイギリスが敗北していたり、科学者のアラン・チューリングが生きていたりと、現実とは異なるもうひとつの世界が描かれています。主人公のチャーリーは遺産をはたいて人間そっくりのアンドロイドであるアダムを購入します。チャーリーの恋人であるミランダにアダムは恋をして、三角関係が生じます。

 政治、技術、人間という存在、ヒューマノイドロボットとの共存、愛や恋の感情、命とは、など議論の幅の広い本作ですが、今回の発表では特に「情動」に着眼して発表しました。これは発表者の個人的興味によるもので、人間とヒューマノイドの間にあるはずの根本的な差は、「情動の有無」ではないか、と現在は考えているからです。そこで、小説のなかでマキューアンがどのようにチャーリーおよびアダムの情動(あるいは情動のように見えるもの)を描いているのか、具体例を引きながら考えてみました。

 人間と同等かそれ以上の知能を備えているとされるアダムには、すぐれた言語能力や情報処理能力だけでなく、人間であるかのような質感が備わっています。たとえば肌はあたたかく、触ると奥に筋肉の感触があります。喋るときには呼気と舌と歯と口蓋を使って声を出します。体からはかすかにオイルの匂いが漂い、特に息には温かいテレビの裏側のような匂いがするそうで、それは人間との差を強調してしまう部分かもしれません。

 このように、人間とは何かが違うけれど、高精度で人間を模倣しているアダムによって、チャーリーは様々な感覚を喚起させられています。発表者にとって印象的だったのは、アダムの初期充電が終わったときの描写です。

(前略)そばに近づいてみると、呼吸はしていなかったが、うれしいことに、左胸のあたりが規則的に脈打っていた。(略)彼には体内に送り出す血液があるわけではないが、このシミュレーションには効果があった。わたしの疑念がちょっぴり薄れたのである。ばかげているのはわかっていたが、アダムを保護してやりたいような気分になった。(略)生命兆候は信じやすかった。(略)裸の男のかたわらに立って、頭で理解しているものと実際に感じるものとの乖離に戸惑っているというのは気味が悪かった

(16ページより・強調は発表者による)

心臓を持たないアダムが、鼓動があるかのように見せかけている理由は一体何なのでしょう。チャーリーは、この生理現象のモノマネに、すっかり騙されてしまいます。なぜなら「生命兆候は信じやす」いからです。生命兆候は、人間の情動の一種です。

人間そっくりに脈打ちはじめている裸のアダムを前に、チャーリーの感情は揺れています。「うれしく」なったあと、まるで子どもを見ているような気持ちになって「保護してやりたく」なります。しかしその一方で、アダムには心臓を動かす必要が一切ないことも理解しているため、「実際に感じるものとの乖離に戸惑」い、さらにその状態を「気味悪い」と感じています。

 アダムが人間の生理現象を忠実に再現するのは、彼と対峙する人間に共感を芽生えさせるためでしょう。チャーリーがいかに理性では「気味悪い」と思おうと、チャーリーの感覚は自動的にといってもいいほど反射的に、アダムを自分と同じく生きているものとして捉え、「うれしい」「保護してやりたい」という気持ちにさせるのです。

 発表では、情動を軸に、アダムとミランダのセックスや、その後の三角関係などについても考察しました。

 反省点として、最初にもう少し詳しく情動論について紹介すべきでした。

(2)フィードバックについての省察

 参加者のフィードバックからたくさんの気づきを得ました。本当にありがとうございます。すべてにお答えしたいところなのですが、以下2点にコメントします。

①アダムには特に物理的側面における特異性(例えば触れるとか)があると改めて気づきました。

 チャットGPTを始めとする生成AIは、人間の形をしている必要がありません。二次元的なやりとりで済ませられるからです。しかし、それだけでは飽き足らず、人間のかたちをした人間そっくりのロボットを作りたいという欲望は多くの人々に共有されており、実現させるための研究も数多く行われています。それにしても、なぜ人間そっくりである必要があるのでしょうか?発表者も常々疑問に思っていました。

 この疑問に対して、コメンテーターを務めてくださったロボット工学者の宮澤和貴さんから、「人間とそっくりに作れば、すでに人間のために作られているこの社会におけるさまざまな道具を共有できるというメリットがあります」とのアドバイスをいただきました。なるほど、と膝を打つご回答でした。

②アダムになぜ性器がついているのか、必要なのかというトピックにおいて様々な意見がありましたが、私は、『聖なるズー』における動物性愛者たちの思考を借りて考えてみました。アンドロイドであるアダムの性器は、アダムが一瞬でも人間と対等な立場で存在することができるようにと付けられたのではないでしょうか。人間に近づけるため、視覚的な意味で取り付けたという面もあるでしょうが、アダムが人間らしさを学ぶのは肉体構造だけでなく、あくまで人間との共同生活の中(その過程)にあります。共同生活の一部としてのセックスが可能となるよう、そして人間と対等であると思えるように、そういった人間らしい精神を得るための性器であり、セックスであるような気がします。

 参考資料として挙げてくださった『聖なるズー』は発表者の単著で、人間と動物の性を含む関係についての学術調査をもとにしたノンフィクションです。私自身、気づかなかったことをご指摘くださいました。本当にありがとうございます。確かにその通りです。

 アダムは性器を使用して、セックスそのものの感覚のみならず、誰かを狂おしく求めることや、さらには屈辱的なかたちでのマスターベーションまで経験します。それらの実践を通して、アダムは恋を自覚し、だからこそ、死にたいと一瞬でも思わなかったのだと自己を考察しています。さらに、マスターベーションは嫌な思い出となってしまったようで、そうであれば、自己を大切にするとはどのようなことかを学んだのではないでしょうか。

ご指摘を頂いて、目からウロコが落ちる思いでした。ありがとうございました!

みなさんとまた、様々な本について語り合うのを楽しみにしております。

(文責:大阪公立大学UCRC研究員/ノンフィクション作家 濱野ちひろ)

2023.7.28 第3回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

🌟発表題目:『ある島の可能性』、あるいはミシェル・ウエルベックの読み難さ

(1) 発表内容のまとめ 

 2023年7月28日の発表では、フランスの現代作家ミシェル・ウエルベックによる長編小説『ある島の可能性』について、その作品制作上の文脈、作品の構造、登場人物の(とりわけ性的な)言説、翻訳では現れにくいフランス語の修辞といった各要素に関して、読者が直面する読み難さに焦点を当てました。

 上記発表内容を選択した理由は、『ある島の可能性』のみならず、ウエルベックという作家があまりに単純化された形──たとえば、現代社会への悪辣な批判者、禁忌を厭わない口さがのない作家、などといった定型──で消費され過ぎているのではないかという発表者自身の当惑と、実際に当作品を読了した方々からの感想を踏まえてのことです。たしかに本作は露悪的で俗悪な言説が目につきますが、丁寧な読解を試みるならば、また違った位相が浮かび上がる作品として描かれています。その最たる特徴として、たとえばこの小説の冒頭と末尾が、同作家の詩作品で頻繁に用いられるフランス詩法で描かれている点などが挙げられるでしょう。読むことに抵抗感を感じるほどの文章と、ほとんど美学的と言ってよい詩的探求を目指す文章が混在する『ある島の可能性』という作品は、非文学性と文学性が緻密な駆け引きを繰り広げる作品とみなしえます。

 もちろん、この観点から存命作家であるウエルベックが文学的であるか否かを議論することは時期尚早に違いありません。とはいえ、一般的に言っても、戦略的に書かれた作品をその文学的側面を無視して消費することは、あきらかに愚かなことです。このことは、おそらく作品自体が訴えていることでもあります。というのもこの小説の本筋は、先人が書き残した文章を、その人物のクローンたちが世代を重ねながら熟読し注釈を加えていくという物語だからです。本作で描かれる彼らクローン人間たちによる、その薄弱な生を賭した読書行為は、真剣になにかを読むという行為について考えさせられます。つまり、ある種の読書という行為は、単なる消費活動ではないのだと切実に訴えかけているように思われるのです。

 「終わらない読書会」という場に合わせたかのような結論となりましたが、これはいくつかの先行研究と、作家自身による本作発表後のインタビューや、刊行された往復書簡を傍証に辿り着く形になりました。見方を変えれば本発表は、一作品だけを読んでも理解し難い部分が多く残るというこの作家の特徴を浮き彫りにした形になったと思います。

(2) フィードバックについての省察―文学研究と読書会との狭間で

 発表者と同じくウエルベックを研究する西村真悟さん、主催者であるStephensの南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんらから、大変鋭いコメントを頂戴しました。ここにそれらを再掲することは、各人のコメントの豊かさと、文字数の問題から残念ながら叶いませんが、当日応答しきれなかった南谷さんからの「触覚・痛みの感覚」「島という主題と植民地主義」についての指摘はあえてここに記させていただきます。この指摘は、作品分析に腐心しがちな発表者にとって、作品を開放的に語る視座の重要性を改めて開いてくれるものだからです。

 開放的議論という観点から言えば、今回の発表での最大の収穫は、多くの参加者の方々からのコメントを頂戴したことです。「終わらない読書会」第二回にならい、発表の一週間ほど前に読書ガイド代わりのトピックリストを作成・配布し、読書会の序盤にそれを踏まえたコメントを、さらに発表後に改めて発表に対するコメントをと、二段構えで多くのご意見を頂戴しました。読書会という双方向的な場とはいえ、質疑応答が活気づいたのは、作品の強さと、参加者の方々の熱意、そして会の運営方法に大きく依存していると思います。この場を借りてみなさまに感謝申し上げます。また、当日、発表後の鋭い質問にはどうにか応答できましたが、会序盤のコメントについては時間の都合上ほとんど返答ができませんでした。すべてに返答申し上げることは難しいですが、そのうちのいくつかにお応え致します。

  • 「作家は映画化を目論んでいたのではないか」。ご指摘の通りで、本作は作家自身が監督して映画化するという構想がごく初期段階からあったようです。その制作資金獲得のために出版社を鞍替えしたという経緯もあります。
  • 「スキャンダラスに書くことは、リベラルに反感をもつサイレント・マジョリティへ売り込む戦略ではないか」。発表でも多少触れましたが、ウエルベックは自由(主義)に抵抗感を強くもっている作家であり、その創作意図には「スキャンダル」な真実を暴くというものが含まれているとみなせます。したがって、おそらくこの作家を読む上で、書き方が「スキャンダル」なのか、それとも彼の書いたものが「スキャンダル」なのかについて、慎重に距離を取って考えねばならないと思います。後半の販売戦略(のことでしょうか)については、出版社からの要請と、作家自身の創作哲学が絡み合っているでしょうから、作品読解からだけでは十分な議論は不可能に思われます(実証的研究が待たれます…)。
  • 「人間の描写が、分類に満ちている」。その通りで、この作家の小説では生物学的分類(昆虫描写には、馴染みのない生物学用語がしばしば用いられます)のレベルから、ときとして不愉快なほどの人種的・国籍的ステレオタイプ化のレベルまで、多くの分類的視線が現れます。とりわけこの作家の初期において、個人概念への疑念は顕著であり、その表出のひとつなのかもしれません。実際、人間は有限のタイプに分類可能だという作家自身の思想が小説作品の登場人物に適応されている、という指摘は多くなされています。

 またご指摘のなかには、「研究者の視点と一般読者の視点は異なるという印象があった」というコメントがありました。これは私の作成したトピックリストへの批判的感想と思われますが、重要なご指摘であるため、以下のように応答させていただきます。

 今回の発表を準備するにあたり、私が心掛けたのは単なる研究発表にはすまいということでした(ですので、ご指摘は痛烈な批判として受け止めております)。これは開放的な読書会において「研究者と一般読者を区分けしない」という意味ではなく、むしろ「研究者と一般読者はなにが違うのか」という問いを再考する機会でもありました。私の結論を先に申し上げれば、「研究者と一般読者の差は、読書体験においてはさほど生じない」というものです。これは理論的な省察ではなく、初心に立ち帰り、本作を読みながら疑問点や感想をとめどなく余白に書きつけ、そのメモ書きをリスト化していく段階での実感です。もちろん研究者である以上、専門分野である作品や作家への知識や、文学という学問領域での知識や知見は備えていなければなりません。しかし、ある文学作品を鑑賞するにあたって、そうした知識はさほど役に立つものではないと私は考えます。文学研究者の仕事とは、なにか真なる解釈や読解を提示することではなく、ウンベルト・エーコが述べていたように、作者が言い淀んだり書き忘れたりしたことを補填すること、すなわち『ある島の可能性』の登場人物のように註をつけること以上でも以下でもありません(つまり、研究職の職能とは、読書時の余白への書付をいかに客観的に活字にするかという点にかかっていると思います)。しかし、こうした註は作品を補強する一方で、目にはうるさいという運命を背負っています。

 オンライン読書会という限りなく開かれた場において、こうした註釈を延々とすることは、退屈である以上に、作品鑑賞において邪魔でしかないように思われます。もちろん、註釈自体がある種の知的好奇心を誘発することを否定しているわけではありません。とはいえ、個人的に何かを読み、疑問や感動を携えたとき、そうした註釈が必要かというとはなはだ疑問です。それが理由で、上述の方針を固め、私の研究上の所産というよりも、作品理解の補助線を引くことを心がけた発表をさせていただきました。

 『服従』という、『ある島の可能性』の二作後の作品では、まさに文学研究者である主人公が登場します。彼は専門であるユイスマンスについて全集版の序文を書くことになるのですが、その完成の過程で彼は次のような天啓を得ます。「ぼくは突然、完全にユイスマンスを理解した、それもユイスマンス自身よりもずっと完全に」。この妄想すれすれの確信が主人公に訪れるのは、ユイスマンス作品の読後でも、関連論文の読後でもなく、レストランでメニューの選択に頭を悩ませているときです。文学作品が生の所産でありうるのであれば、その理解は──妄想であれども──やはり知の領域ではなく、生の領域でなしうるのではないか。これは一種の仮説に過ぎませんが、少なくともウエルベックにおける読書の重要性のひとつには数えられる観点です。

 ウエルベックの諸作品で引用ないし言及された書物を丹念に読み、その意図や意味を追求する『ミシェル・ウエルベックの引き出し』の著者であるヴィアールは、「ウエルベックはまともに読まれていない」と発言したことで知られています。今回の発表ではまさにこの読むことについて深く再考する大変よい機会になりました。いただいた多くのご指摘や、ご感想を、今後の研究の活力にしていきたいと思います。ご参加いただいた方々、ご運営いただいたStephensの方々、共催の「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」、コメンテータ―を務めていただいた西村真悟さん、みなさまに改めて感謝申し上げます。(文責:ロレーヌ大学博士過程・東京都立大学客員研究員 八木悠允)

2023.4.21 第2回「終わらない読書会―22世紀の人文学に向けて」を開催しました!

 「終わらない読書会―22世紀の人文学に向けて」@Zoom(共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告)

(1) 発表内容のまとめ

 2023年4月21日に行った発表では、カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)の長編小説『わたしを離さないで』(Never Let Me Go, 2005)について、アイデンティティ認識の視点からの考察を展開しました。臓器移植のためにクローン人間である本作品の語り手キャシー(Kathy)は、しばしばその平坦な語り方から奥行きに欠ける登場人物と評されます。本論は個性が不鮮明のように見える語り手と、読者の内に呼び覚まされる強烈な共感とのずれを出発点とし、至る所で自身の個性をアピールするキャシーの人物像を考察しました。

 最初に論じたのは、語り手としてのキャシーの平凡さは生来の性質ではなく、彼女の生涯を通して「普通」(“normal”)と「特殊」(“different”)の二項対立の間で行ってきた「選択」の結果であることです。キャシーはクローン人間の中でも特殊な存在であるヘールシャム出身者ですが、ヘールシャムの中では他のクローンと同じ経験を持つことを重んじ、「普通」側に居続けるために様々な工夫をします。これらの行動は、閉鎖的で、水面下のいじめ問題が蔓延るヘールシャムという環境で生きる上での必要な知恵かもしれません。しかしキャシーはその平坦な語り方と裏腹に、己の特殊性をヘールシャムに対する執着、介護人としての優れた能力、そしてトミーとの間の愛から見出そうとします。友人を次々と看取る孤独な介護人となるキャシーの生涯を振り返ると、「普通」と「特殊」の間に何度も行き来し、最終的に「特殊」な存在になることを彼女自身が認めざるを得ないプロセスが明確に読み取られるようになります。

 次に、作品に繰り返し描かれる「フェンス」(“fence”)のモチーフについて論じました。キャシーが子供時代を過ごしたヘールシャムでは、フェンスの向こう側に行く者が死に至るという噂が引き継がれています。この認識はさらに歴史の授業で教わった第二次世界大戦中に建てられた強制収容所の有刺鉄線のイメージに強化され、クローン人間たちにとってフェンスは物理的・精神的に越えてはならないものとなります。しかしキャシーはバイクに乗ってフェンスを越える映画の一シーンをヘールシャムのクローンたちが何度も観たかったことを鮮明に覚えており、ヘールシャムから出た後に友人のルースとトミーと共にフェンスを越える場面も彼女の語りに明確に含まれています。こうしてフェンスの向こう側に行きたいという願望が随所仄めかされているが、最後の場面でキャシーはフェンスを越え、トミーの幻影を求めることを断念します。本発表では、ここでのトミーの幻影を「死の誘惑」、フェンスを越えない行動をキャシーの「自殺しない」決断の結果として解釈しました。出生から死までの人生において、クローン人間たちは殆ど選択する権利を許されていません。搾取され続ける人生を受け入れなければならない、自分だけの名前すら持つことができません。「選択」が許されない人生だからこそ、自分の意志で「選択」をすることはキャシーにとって並々ならぬ重みがあり、尊厳の拠り所になっています。彼女が最後に下す「自殺しない」との決断は運命への無抵抗ではなく、むしろ意識的に自分が愛したすべての人たちと同じ死に方を経験し、同じ人生を歩まんとする意志の表明です。タイトルの「Never Let Me Go」は、キャシーが読者に向けて絶えずに発信する「私を忘れるな」というメッセージの表明として解読できるのではないでしょうか。

(2) 発表テーマ/フィードバックについての省察

 「フェンス」のモチーフや自殺のテーマは、イシグロ研究をする中でかねてから取り組みたかったものであり、今回の発表で初歩的な考察をすることができました。この二つの要素はイシグロの処女作『遠い山なみの光』、また、それ以降の作品にも頻繁に組み込まれるものであります。フェンスにどのようなメッセージが込められているか、自殺は単なるネガティブな含意を表す行為なのかイシグロ作品におけるフェンスのモチーフに多様な意味合いが込められるようになり、死を選ぶことも単なるネガティブなもの以外のメッセージを読者に伝えるようになりました。40年近くの作家活動のなかで、イシグロは抑圧されながら自我が徐々に形成され、最終的に抑圧を突き破る語り手たちを次々と生み出してきました。目立った形での反抗を描かないイシグロ作品だからこそ、抑圧の中で必死に自我の存在を確立しようとする自由意志の表出を敏感に察知する読者の読む力が求められています。

 参加者のフィードバックからは、以下の三点についての大きな示唆を得ました。

 ①非現実的な作品世界とリアリズムを感じさせる登場人物との共存に違和感を覚え、そのために「あえて共感しない」読み方をするという指摘と頂きました。筆者自身は一貫としてイシグロの作品と向き合う姿勢を述べると、共感しにくい主人公から隠された共感の源を探し出すというスタンスであるため、非常に新鮮な読み方を触れることができたと言えます。

 ②最後の場面において、フェンスに引っかかる「ゴミ」に注目し、ゴミがそれ以上どこへも行けないことが作品の閉鎖的な世界を強調しているという指摘を頂きました。この点について、ルースの夢の内容と合わせて読みたいと思います。ヘールシャムの思い出をさほど大切に思わないルースだが、自分が洪水に襲われるヘールシャムの教室にいる夢を見ます。そこから窓の外で空の飲料容器などのゴミが水に流される場面を見て、「とても落ち着いた」と述べます。提供が終わり、空っぽになったあとにヘールシャムで生涯を終えたい回帰願望の暗示として読み取れますが、現実世界でキャシーが見るゴミは流動的な水に運ばれず、ヘールシャムで死を迎えることももちろん実現されません。死後の里帰りを潜在意識で求めるクローンたちだが、どこまでも制限される世界の中ではそれも叶えられない悲哀が読み取られると思います。

 ③クローンたちの死に対する無抵抗な態度を、「しょうがない」という日本の物事のおさめ方の表現として解釈する意見を頂き、新鮮な驚きを得ました。臓器移植の運命に対抗できないが、キャシーたちが対抗できるものは個性の消滅です。三人のクローンではなく、「キャシー」「トミー」「ルース」という三人の人間がこの世にいたことを読者に覚えてもらいたくて、キャシーが語り始めたのではないでしょうか。今回の発表では、変えられない運命に「しょうがない」と思いながらも、「運命の変え方」ではなく「運命の受け止め方」に個性と尊厳を見出す考え方を強調しました。

 今回の発表は自分自身の文学研究に臨む姿勢を客観視することができる機会となり、実り豊かな経験となりました。参加者の方々に御礼を申し上げます。(文責:京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程 肖軼群)