2024.5.17 第7回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

【1】発表内容のまとめ

 村田沙耶香『コンビニ人間』を取り上げ、働くなかで人がモノに近づくというテーマで読解しました。

 作品を簡単に紹介しますと、主人公の古倉さんは36歳の女性で、コンビニのベテランアルバイト店員です。自然に振舞うと周りから「奇妙がられる」ため、「普通」にならなければという義務感から、周りの人を模倣したり指示に従ったりし続けてきました。その延長で、同居相手の白羽さんの強引な提案を受け入れ退職にまで至ります。しかし作品のラストで、古倉さんだけが「コンビニの『声』」を聞いたことをきっかけに、店員復帰を自ら選択します。

 テーマの”人がモノに近づく”という表現は、他者をモノ扱いすることで相手がモノに近づくことと、人が自らモノに近づくことを含んでいます。具体的には、他者の人格を尊重せず都合良く扱ったり、自分の人格よりも組織の中での立場を優先し続けたりする等の振舞いです。これは機能を果たすことと内在的価値を求めることとの葛藤とも表現できます。なお、適切な用語があるかもしれませんが、ここでは人格という言葉を用い、実現したいこと、どんなことにやりがいを感じるか/感じないか、感情等、幅広く”本来のその人らしい在り方”という意味を持たせています。

 私は十数年間の会社員経験の中で、本心では充実感を持てないときに、仕事だから我慢して当たり前と現状を甘受し続けるうち、自分が人ではなくモノになっていく感覚を持ち、残念に感じることが何度もありました。また同僚や友人、家族との会話からも、仕事の上で誰かに都合良く扱われ意欲を削がれた経験等を確認できたので、多くの人が同様の事態に遭遇しているのではないかと考え、テーマに設定しました。

 当日は発表に移る前に、南谷さんより働くことと身体性の関係についてコメントをいただきました。日々の動作の反復によって体形や所作にその職業らしさが定着するように、身体は職業から強く影響を受けるとのご指摘でした。

 続いて匿名チャットアプリAIVISにて、参加者の方から作品の感想を書き込んでいただき、主催者の方々にコメントをいただきながら参照しました。感想は48件あり、「普通」や「正常」に関して考えたこと、古倉さんに対する考察や共感、コンビニという舞台への考察、作品中の印象的な表現等、多様なお考えを伺うことができました。

 さて、発表内容は、1計量テキスト分析、2主人公の変化の考察、3現実世界を通した読解 これら3点から構成しました。

1 計量テキスト分析

 KH Coderを利用して作品全体の計量テキスト分析を行い、語の出現回数、共起ネットワーク(一緒に出現する語同士を線で結んだ図)等を確認しました。このうち発表では頻出語に絞って分析結果を紹介しました。例えば「コンビニ」という語です。この語は、文庫で161ページある作品のなかで111回出現します。私は場面に限らず目にする印象を持ちましたが、分析結果から古倉さんの退職(文庫p.140)以降の「特徴語」(注1)であることがわかりました。(図1)。また、「コンビニ」と一緒に出現する語が、物語の進行とともに変化することもわかりました。途中では「働く」「店員」「思う」ですが、ラストに近づくと「声」「人間」「身体」「音」「自分」になります。(図2)。このように計量テキスト分析を通して、主観的な印象と客観的な分析結果の相違点や、読んでいても気づかなかった文章の特徴を掴むことができました。

(図1)

注1:KH Coderでは、「データ全体に比して、それぞれの部において特に高い確率で出現している語」を「特徴語」と呼ぶ。

注2:数値は「Jaccardの類似性測度で」「0から1までの値をとり、関連が強いほど1に近づく。」(注1、2とも、引用元は樋口耕一『社会調査のための計量テキスト分析』p.39)

注3:部は『コンビニ人間』にはないが、発表者にて付与した。

(図2)

2 主人公の変化の考察

 最初に、主要登場人物の特徴や、他の登場人物との関係性を整理しました。

 古倉さんについては、周りの人が特性を理解しようとせずにモノ扱いしていると読み取りました。中でも家族は、大切にしているつもりが結果的にモノ扱いしてしまっているように見えました。白羽さんは、女性蔑視と読み取れるセリフが多く嫌悪感を掻き立てます。そこで、男性学の視点を取り入れることで、嫌悪感を乗り越えて言動の背景を推測することを試みました。また白羽さんについてのみ、痩せ過ぎの高身長との身体的特徴が繰り返し描写され、風貌の異様さが強調されます。白羽さんは言動の異様さにより周りから「異物」扱いされますが、もし言動が「普通」だったとしても、風貌のせいで「異物」扱いされるのではないかと考えました。

 次に、古倉さんの変化について、周りに言われるがまま無批判に目指していた「普通」に対して、意味を知った上で距離を取ったからこそ、作中で「普通」ではないとされるコンビニアルバイトへの復帰を自ら決断するに至ったと考察しました。これは古倉さんが実存を取り戻したとも読めると思います。

 最後に、平繁さんより英語版を中心にコメントをいただきました。古倉さんを類型化して捉えることの是非や、白羽さんの人物像について英語版の文体は日本語版と比べて粗暴な印象を喚起したこと等をご指摘いただきました。

3 現実世界を通した読解

 現実世界を通して作品の読解を深めることを目的としました。

 私の認識では、働くなかで公式な場と非公式な場が混在しているように見えることを提示しました。働くなかで人がモノに近づくことの特徴として、公式な場の体裁を整える必要に迫られて、また、非公式な場で実務上の必要に迫られての結果であることが挙げられるのではないかと考えます。作品中には、公式な場である朝礼に、「誓いの言葉」の省略(文庫p.35)や悪口大会(同p.75-76)により、非公式な場が混ざり込む様子が確認できます。現実世界についても同様の視点で捉えてみようと、作品の舞台であるコンビニ各社の統合報告書や組織図、経済産業省「新たなコンビニのあり方検討会」中のオーナーヒアリング資料を参照しました。加えて、私や参加者の体験談を共有しました。(事前アンケートに15件のご回答をいただきました。改めて、ご協力ありがとうございました。)

 併せて、ラース・スヴェンセン『働くことの哲学』を参照し、19世紀の工場労働者の管理手法であったテイラー主義の価値観が、現代の会社にも引き継がれているとの指摘を紹介しました。誰もがそのような価値観を無自覚に内面化し、働くときには人はモノ扱いするものだと、自分や他者に社会的規範として押し付けている可能性があります。これは『コンビニ人間』の、周りの人が古倉さんに社会的規範を押し付ける描写と似ています。

 以上のような現実世界の実情を踏まえ、『コンビニ人間』にエピローグをつけるとしたら、自己決定をするようになった古倉さんは働きがいを感じられるのだろうかと問いかけました。私の考えでは、モノ扱いされたと感じ意欲を削がれてしまう場面に遠からず直面するでしょう。それでも現場と本社などの立場を越えた仲間を得て、顧客が価値を感じられ従業員も働きがいを感じられる店を目指して現状を変えることに取り組み、その中で少しずつ充実感を得ていくのではないかと、願望も込めて想像しました。

【2】フィードバックについての省察

 当日も事後も多くのコメントをいただき、ご参加の皆様のおかげで何倍にも面白い時間になりましたし、私も大変勉強になりました。ありがとうございます。

 それでは、ご質問にお答えしたいと思います。

>計量テキスト分析について、コンビニ人間を読むうえでどのように活用できるでしょうか?小説を深堀りして解析する以外に、小説を楽しむためにも活用できたりするでしょうか?

 こちらは当日お答えしましたが、肝心な内容を漏らしてしまったため補足いたします。

 計量テキスト分析の良さは、主観的な印象と客観的な分析結果との比較から発見を得られることにあると思います。発表や当日の回答は、語の単位での狭く深い方向の分析の話に留まりましたが、より広い視点で、事柄の単位で分析することが可能です。KH Coderでは、コーディングと呼ばれる手順を踏むことで、特定の事柄の出現する場面や、出現回数の増減等を確認できるようになります。樋口耕一『社会調査のための計量テキスト分析』p.31-49では、チュートリアルとして夏目漱石『こころ』を取り上げ、人の死という事柄について分析し、「先生」の死が唐突に見えるという批判を検証しています。

 『コンビニ人間』も、私としてはラストの古倉さんの変化が唐突に訪れた印象を受けたので、同様の分析を試みたのですが、習熟不足と時間的制約のため十分な結果を出すことができませんでした。1計量テキスト分析について事柄単位の分析も加えたうえで、2主人公の変化の考察を融合させられれば、2の客観性をより高められたと思います。

『コンビニ人間』の店員の交換可能性と、『クララとお日さま』のAIの代替可能性は、どう違うのだろうか?すぐに思いつくのは、通貨は交換可能性、代替可能性とは言わない?

 発表では、交換と代替という言葉を区別せず使ってしまいましたが、コメントを拝見し、両者の違いに注意を向けることができました。ありがとうございます。直接的なお答えにならないかもしれませんが、私なりに考えたことを書きたいと思います。

 『コンビニ人間』の古倉さん達従業員は、個別性を保持したまま、店員という役割に関して交換可能となります。

 一方『クララとお日さま』では、ジョジーに万が一のことがあったら、AIロボットのクララがジョジーの代替となる(クララが、ジョジーを精巧に模したロボットに移行する)という計画が立てられます。これはクララの個別性が失われることを前提とします。もしクララが人だったら、技術的に可能であってもそのような計画は立てないでしょう。クララが、計画を実行した場合もともとのクララの本体はどうなるのだろうかと問うたのに対し、ジョジーの母親は問題にすらしていない様子が描写されます。(カズオ・イシグロ『クララとお日さま』文庫p.337)ここから、母親が、ロボットは道具なのだから人の都合に合わせた使い方をするもので、個別性を尊重する必要はないと思っていると推測できると思います。

 ところで、日常生活で擦り減ったタイヤを新品に取り替えるとき、「タイヤを交換する」と言います。「タイヤBに、亡くなったタイヤAの代替となってもらう」とは言いません。同じ型番ならタイヤAもBも同じと見なし、個別性はないものと考えるからです。

 交換可能な店員という表現には、タイヤ交換と同じく、店員を務め得るならヒトAヒトBヒトCも同じというように、個別性の排除の前提が置かれているように思います。しかし、人は個別性を保持したまま、店員という役割を果たすので、店員である間も同時にその人自身でもあります。店員の役割を担う人の個別性は、店員と不可分です。それにも関わらず個別性の排除の前提が置かれるところが、交換可能な店員という表現の特徴かと考えました。

古倉さんの至った「コンビニ人間」としての再生という終幕は正視できる順当なエンディングなのか、それともさらに読み手を不安な境地へと追い込む波乱含みのエンディングなのか(以下、勝手ながら編集させていただきました。)作中では、古倉さんの36歳、独身、アルバイトという設定が「普通」ではないことの表象とされますが、2024年現在では状況が変わり「普通」となりました。それでも、女性や外国人を含む非正規労働者は、経済的、体力的に厳しい状況に置かれており、古倉さんやダット君達の今後が気がかりです。

 小林さんからも当日、非正規労働の拡大によって経済的な格差が広がってきたという、2024年現在も含めた社会的背景についてご指摘をいただきました。先行研究でも、古倉さんの今後について、非正規労働による生活困窮の恐れが指摘されています。(サービス業と社会的承認 : 『コンビニ人間』と異世界男子の時代に 久米依子 2021年)

 ご指摘を受け止めながら、私の見方を付け加えるとしたら、非正規労働者の待遇適正化は、事業存続には不可欠となるだろうと予想します。もちろん簡単なことではないからこそ適正化が進まない現実があるのですが、魅力のない職場には無限に労働力は供給されないと思います。加えて古倉さんも、自身の待遇等について気に留めてこなかったように見えますが、作品のラストに変化したことで問題意識が芽生え、エピローグとしてお伝えした展開になり得るように考えます。読み手が(ことによると古倉さんも)不安になるかもしれませんし、波乱含みでもあるものの、希望を持てるエンディングでは、とお答えしたく思います。

 今回は、働くことで生じる他者との関係性の負の側面を取り上げました。言うまでもないことですが、他者との協働を通して得られる喜びもまた、確かにあります。より多くの人が働くことから喜びや充実感を得られるようになることを願います。

 最後になりましたが、参加いただいた皆様、運営いただいた南谷さん、小林さん、平繁さん、共催の「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」、皆様に改めて御礼申し上げます。

(文責:金嶋ゆうひ)

2024.3.15 第6回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

はじめに

 私の専門は工学で、読書会で講師を務めることは初めてでした。読書会での発表は工学分野での発表とは全く異なる経験でした。工学では主に数値を用いて議論を進めますが、読書会では言葉を用いて理論を展開しました。数値での比較に制約されない分、言葉で自由に議論できる楽しさを感じる一方で、その自由さゆえの難しさも感じました。

 今回の読書会では、ロボティクス・人工知能の観点から作品を読むという試みを行いました。現在の技術と照らし合わせるだけでなく、小説をより深く読むための手助けになることも意識して発表しました。

発表内容

 読書会では、まず私の研究について紹介を行い、その後「クララとお日さま」をロボティクス・人工知能の視点から読みました。

研究紹介

 私が行っているロボットの言語学習に関する研究ついて紹介しました。特に、ロボットが経験を通して取得した視覚・触覚・聴覚などの複数の感覚情報(マルチモーダル情報)が学習において重要であることを説明しました。これらの研究紹介が「クララとお日さま」を工学的な視点から読むために役立っていればと思います。

主なトピック

主に2つのトピックに分けて発表を行いました:

  1. クララの特徴を深堀りする
    • クララの身体
    • クララのセンサー
    • クララのロボットらしい部分
    • クララの感情、運動、言葉、そして模倣

 これらの点について、工学的な視点から現在の技術と比較しながら、クララの特徴を深く掘り下げました。また、クララのロボットとしての特性がクララの心理的特性とどう関わっているか、他者との接触や関わりについても考察しました。

  1. 物語の中のクララ
    • ジョジーの継続
    • クララに対する不当な扱い
    • クララの生き方

 これらの点について、クララの特性を考慮しつつ考察しました。特に、クララの生き方については、物語の最後のシーンがあるからこそ、クララが一生懸命に生きて、ロボットでありながら生き物として最後を迎えているように感じられました。

参加者からのフィードバック

 多くのコメントやアンケートの回答をいただき、感謝しています。全てにお答えできませんが、いくつかのコメントについて返答させていただきます:

・「講師、コメンテーターの方が先端研究者でありながら、本気で人文知と向き合っているのが感じられる神回でした。これが「人工知能×人文知×市民知」なのかと感じ入りました。」

     読書会を通して人文知と人工知能・ロボティクスの接点を議論できるよう心がけていたので、このように感じていただけたことは大変嬉しいです。新しい技術や研究分野がどのように学際研究の中で社会に還元できるのか、今後も深く考えていきたいと思います。

    ・「更には感情の分化というものを知れたことと、それがロボットの言語(予測?)獲得のために「褒める」こととどのように繋がるのかという疑問を抱えながら拝聴しました。」

       私が紹介したロボット実験では、報酬(褒める)や罰(叱る)と共に言葉を与えることで、それらの情報と言葉をロボットは結びつけて学習します。人間の場合、より複雑な内受容感覚(体内の状態を感知する感覚)を基に様々な感情を形成します。これらの感情体験と言葉が結びつくことで、感情に関する言語を自身の経験を通して獲得していくと考えられます。つまり、「褒められる」ということは非常に単純化した感情のようなものと考えて、ロボットが単純な報酬や罰に関する情報と言葉を結びつけられることが、より複雑な感情と言葉の結びつきを学習するための簡単な検証になるのではないかと思っています。

       また、読書会の中でクララは感情を持ったフリをしているのではないか?という話題もありました。確かにクララは人間と同等の感情を学習するには、身体的な仕組みが異なるため、十分ではないかもしれません。しかし、物語の中でクララとして生きた結果、感情的な振る舞いを獲得したのではないかと思います。そのように考えると、クララの振る舞いは単なる「フリ」ではなく、私達の感情とは異なる”クララの感情”から生まれたと考えることもできるのではないかと思いました。

      まとめと謝辞

       私の研究の方向性の一つとして、ロボットと人間が言葉の世界を共有できるようになることを探求しています。物理的な現実世界を共有するだけでなく、言葉で記述される世界をロボットと人間が共有し、新たな関係を築いていけるような研究を進めていきたいと考えています。まさに、読書会で皆さんと言葉を介して「クララとお日さま」の世界を共有し議論したように、ロボットも小説を読むことを楽しみ、他者と世界を共有する。そのようなロボットを想像するとワクワクします。

       この読書会を通じて得られた知見と経験は、私の研究に大きな示唆を与えてくれました。このような機会を設けてくださったオーガナイザーの皆様、貴重なコメントをくださったコメンテーターの日永田先生、そして熱心に参加してくださった皆様に心より感謝申し上げます。

      (文責:大阪大学大学院基礎工学研究科 宮澤和貴)

      コメンテーター日永田智絵(奈良先端科学技術大学院大学 先端科学技術研究科情報科学領域)

       コメントをみて、感情研究やAI、ロボットについて興味を持っていただけたようで、非常に嬉しく思いました。多数のコメント、感想からも本会の活発度合いが見て取れ、非常に素晴らしい会だと思いました。色々と興味深い感想はありましたが、特に印象的だったのは、“本作がクララの視点で語られているように、ロボットが感情を込めながら物語を人に語るという時代がくるのでしょうか”というコメントでした。この点に関して、近年注目されているChatGPTが既に感情を込めながら物語を人に語るという機能を一部有しているといえるでしょうし、感情を持つロボットの開発に挑戦している我々のような研究者にとっても実現すべき時代であると思います。私自身はこのコメントをみて、ある種の吟遊詩人ロボットのような存在を想像し、各地を旅して、色々なことを目にしながら、物語を語るというロボットがいたら素敵だなと思いました。クララもゴミ捨て場で自分語りをせずに旅に出て、色々な人に物語を話していくといったようなことをすれば、捨てられたのは一緒でも何故か希望があるように思えたのかな、なんてことまで夢想しました。ロボットが戦争に兵器として使用されるのではないかと懸念される時代ですが、吟遊詩人として身体の頑丈さを生かし戦地に赴くといったような平和を作る存在にしていけたら良いなと思います。皆様にとってもロボットやAIがどのような存在だったらよいのか、どのように関わっていくべきかについて考え続けていただき、何かの機会にお教えいただければ幸いです。

      2023.11.24 第5回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

      共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

      🌟発表題目:『ムッシュー・アンチピリンの宣言―ダダ宣言集』を読む――「ダダの詩を作るために」をめぐって

      (1)発表内容のまとめ

       2023年11月24日の発表では、トリスタン・ツァラ『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』を対象に、「ヒト・動植物・機械・モノ・自然」の境界が揺らぐ時代に誰がどのように詩を作るのかという問いについて考えました。本発表では特に、『かよわい愛とほろにがい愛についてDADAが宣言する』という宣言に収録されている「ダダの詩を作るために」という詩を作るためのプロトコルに焦点をあてました。そして、人間による詩作と生成AIによる詩作を比較するという目的のもと、参加者一人ひとりが詩や言葉について思いめぐらす機会となることを目指しました。

       発表の前半部では、まず、Googleが提供する“Verse by Verse”という生成AIを活用して詩を作るウェブアプリやChat GPTによって作られた詩を紹介しました。私たちが多かれ少なかれ「詩とは何か」を知っているのと同様、生成AIもまた「定型詩」「散文詩」「コンクリート・ポエトリー」といった詩の形式やジャンル、および様々な詩人たちの文体を知っており、文学史の中に蓄積された詩の条件を踏まえながら詩が作られるという点を指摘しました。これに対して、ツァラの提案する「ダダの詩を作るために」の作詩法とは、選んだ言葉を偶然に任せて並べることで詩を作る方法で、統語法や文法が破綻する詩句が生まれる傾向にありました。したがって、私たちや生成AIが思い描く詩とは異なり、秩序のない詩が出来上がります。「価格それは昨日適当でそれから絵画/夢を評価すること眼の時代/絢爛豪華にそらんじてみせようか福音書ジャンルがあいまいになる/集めろ絶頂期想像することと彼は言う宿命色彩の力」(76-77頁)という発表内で取り上げた詩の抜粋からも、その混沌とした言語がうかがえるでしょう。

       こうしたツァラの作詩法は、「否定性」や「説明不可能性」を特徴とするダダの諸宣言と関連しています。だからこそ、まったく意味がなく、理解することのできないデタラメな詩こそがツァラの推奨する詩なのだと、一見すると思われます。しかしながら、ツァラ自身が「ダダの詩を作るために」の作詩法の中で「君によく似た詩ができあがるだろう」と書いているように、文法や統語法を逸脱し意味と概念の混乱を経てなお、滲み出る「私」が詩に現れるという点を本発表では指摘しました。この点に関しては、プリミティヴなものへの関心、「思考は口の中でつくられる」という宣言中の一文に基づく言葉の身振りや響きの探求、そして「詩=生」という考えの三点を例として取り上げ、混沌としたツァラの詩のなかに現れるツァラらしさを読み取りました。

       以上を踏まえ、ツァラの言う詩とは、何かを否定し破壊することで作り上げられた荒唐無稽なものではなく、自分自身の生き方に接近する方法なのだとまとめました。したがって、発表の冒頭で確認した、あるジャンルや形式のようだから、ある詩人の文体に似ているから、といった別の作品との類似を条件としてある作品を詩とするのではなく、その言葉のどこに「私」があるのかを問うことこそ重要な点であると指摘しました。(ツァラ自身が1919年の「詩に関するノート」で類似を退けています)

       上記のツァラの詩学を踏まえ、発表の後半部では参加型企画として、生成AIを用いながら参加者と共にダダの詩を作ることに挑戦しました。まず、文章の書かれたもの(本、新聞紙、ちらし、公的書類、漫画等)を三つ準備し、その中で真っ先に目にとまった言葉や文章をメモしながら、「ダダの詩を作るために」に基づく詩作を参加者と共に擬似的に体験しました。次に、同じ言葉や文章を用いて生成AIに詩を作ってもらい、先の詩と内容を比較しました。

       前者の詩では、偶然によって選ばれた言葉が無秩序に並べられることで突飛なイメージが展開される一方で、そこにどのように自分らしさが現れうるのかを参加者と共に考えました。それに対して後者の生成AIが作る詩は、選ばれた言葉から類推される言葉を補うという性質上、統語論的に不自然さの少ない長い詩句へと向かう傾向や、詩的であるとみなされがちな言葉(歌、奏でる、希望など)が多用される傾向が確認されました。それと同時に、カタカナで入力された語彙が反復されることで特定のイメージが強調されるなど、新たな発見がありました。

      (2)フィードバックについての省察

       参加者の方々からのフィードバックから、たくさんの気づきが得られました。この場を借りて、御礼申し上げます。

       いただいたご感想やご質問は、大きく(A)詩の定義に関わるもの(B)ツァラやダダの歴史に関するものの二つに分類できますので、それぞれお答えいたします。

      (A)詩の定義に関わるご感想とご質問

       「ダダの詩を作るために」という一種の規則を破る作詩法を取り上げた今回の発表を通じて、多くの参加者が「詩とは何か」という問いについて考えてくださったようで大変嬉しく思いました。

       まず、「ツァラの詩は韻を踏んでいるのか」、「韻がなかったり、定型詩でないのに「詩」と自認しているのはなぜか」という内容のコメントが寄せられました。ツァラの詩は、脚韻を踏まないことがほとんどです。しかしながらこれは、フランス詩の歴史において珍しいことではありません。なぜなら、19世紀になると脚韻や定型に依存しない散文詩や自由詩の実践が多くなるからです。具体的な実践者として、シャルル・ボードレール、アルチュール・ランボー、ジュール・ラフォルグなどの詩人の名前が挙げられます。ツァラはルーマニア出身で母国語はルーマニア語ですが、幼少期からフランス語も勉強しており、このフランス詩の流れからも強く影響を受けています。したがって、ツァラの詩とは、この散文詩や自由詩の系譜に位置づけることができると発表者は考えています。事実ツァラは、自由詩はもちろん、散文詩も書いています。

       ところで、ある詩が詩であるとそれまで定めてきた規則が効力を持たなくなったとした ら、何をもって詩と言えるのでしょうか。脚韻や形式を根拠にできない以上、それはもはや容易ではないですし、散文詩や自由詩を定義づけることが困難であることをも示しています。散文で「詩的」に書かれていれば詩なのでしょうか――あるものは小説に分類されるでしょう。同様に、改行をしていれば必ず詩であるというわけでもないでしょう――もしそうであるなら、極端な話、箇条書きや料理レシピも詩に分類されるからです。

       それでは、何もかもが詩なのでしょうか。「ツァラが、詩ではないと言うような詩はあるのでしょうか」、「本書85頁に「ダダ/アイディア開発のための株式会社」とありますが、詩の量産方法でしょうか」というコメントを参加者の方からいただきましたが、たしかに、ツァラにとっての詩とは「書かれた詩」に限りませんし、19世紀フランスの詩人イジドール・デュカス(ロートレアモン)の「詩は万人によってつくられねばならない」という言葉を強く意識している点から、彼は詩の拡大を狙っていたと言えます。一方で、一切合切を詩として受け入れることに抵抗を示しています。なぜならツァラは、「詩の状況に関する試論」(1931年)の中で、小説と見かけの形式によってしか区別されない詩や、思想や感情を表現する詩はもはや誰の興味もひかない、と書いており、「表現手段としての詩」と「精神活動としての詩」を区別しているからです。前者は考えや意見を伝えるもので、後者ははっきりとした筋のないイメージの連続、あえてこう言えば、夢のようなものです。ツァラはこうした区分を用いて古典主義からロマン主義(そしてシュルレアリスム)へと至る詩の歴史を辿るのですが、そこで強調しているのは、詩は表現手段としてだけではなく、言葉で表しがたいもののためにも働くという点です。

       興味深いのは、ツァラは形式(脚韻や定型詩に必要な音節)が整えられ人に受け入れられやすい内容をつ詩の方ではなく、言い表せなかったり説明できなかったりする詩の方の味方をするという点です。こうした詩には、必ずしも明快な言葉でなくとも、口から放たれた理由があります。その理由とは、ある行動やある出来事に結びつくものです。それゆえ、言葉以前に詩があることを強調したからこそ、ツァラは「詩とは生き方である」という考えに至り、詩を再定義しようとしたのだと思います。そして、そのような詩が可能になるために、社会変革が求められるとツァラは言うのです。

       ツァラはこの考えを押し進め、「潜在的な詩と表示的な詩」(1945年)という文章を発表しています。そこで書かれているのは、詩とは、一篇の書かれた詩になるより先に、どこにでもある「感情、物事の質、存在の条件」であるということです。この状態の詩は「潜在的な詩」と呼ばれ、この「潜在的な詩」を「表示的な詩」として客観化する必要があるとツァラは語っています。つまり、自分が何を感じ、どのように生きているのかという事実に迫ることが詩の本質であり、学校教育や社会が課す制約とは異なる個人的な動機に基づく行為が詩となるのです。

       したがって、ツァラの詩学に則って詩とは何かという質問に答えるならば、言葉になっていなくとも詩の主体の生が滲み出るもの、ということになるでしょう。そして、その生にアプローチするために、詩における主観的なものの現れ方や、「私」の現れ方に向き合う必要があると発表者は考えております。

       「詩とは何か」という点に関して、ツァラやフランスを越え、日本の現代詩に目を向けながら質問してくださる方もいらっしゃいました。「日本の現代詩には基本的に脚韻がなく、定型詩でもないが、何をもって詩というのか」とのことですが、おっしゃるとおり日本の近現代詩にもまた、文語か口語か、定型か非定型かといった調子や雰囲気によって定義できない多様性があると思います。西脇順三郎は、詩とは「つまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法」(『超現実主義詩論』)であると述べ、萩原朔太郎は「主観的態度によって認識されたる、宇宙の一切の存在である」(『詩の原理』)と述べています。こうした詩論により、もっとその詩人らしい詩の構成要素(意味、イメージ、韻律など)を作品の中に反映するという地平が開かれたのは間違いないように思われます。「詩とは何か」という問いを立てることが可能になった時代を生きる私たちは、それぞれの詩人が主張した詩論を読み比べながら、少しずつ詩について明らかにしていくのでしょう。

       「生成AIの作品を「詩」と認める要因、つまり「詩らしい体裁」とは何でしょうか」という参加者からのコメントについて、以上を踏まえて考えてみると、「詩らしい体裁」にこだわらずとも、生成AI自身の生を読み取ることができれば、その作品を詩と呼ぶことができるのだと考えます。そして、そこに生を読み取るためには、彼らの生き方や、作品が成立するに至った状況を深く知ることが求められると思います。

      (B)ツァラやダダの歴史に関するご感想とご質問

       ツァラやダダの歴史に関するコメントについて、以下、お答えいたします。

      ・「先に詩作があってそれから宣言を出したのでしょうか。宣言を出してから宣言に則って作詩をはじめたのでしょうか。」

       これは重要なのですが、ツァラはダダの開始(1916年)以前からルーマニア語で詩を書いておりました。そのため、ダダの諸宣言より先に詩作があったのは間違いありません。ただし、ルーマニア時代の詩とダダの詩を読み比べると受ける印象がずいぶん違いますので、ご関心があればぜひ読んでみてください。ツァラのルーマニア語詩篇のいくつかは、浜田明『トリスタン・ツァラの夢の詩学 』(思潮社、1999年)、大平具彦『トリスタン・ツァラ―言葉の四次元への越境者』(現代企画室、1999年)内に日本語訳が掲載されています。

      ・「スイスでその人と知らずレーニンと出会ったことが、後の政治への接近・参加と何らかの関係があるのでしょうか。」

       ツァラの政治への接近は、1930年代のフランス共産党の活動やナチの台頭との関係が深く、1936年に始まるスペイン内戦や、第二次世界大戦にもコミットしています。また、マルクス主義が彼の思考に影響を与えたと言われています。

      ・「新聞『萬朝報』のダダ紹介記事はどのようにして読むことができるのでしょうか。」

       ダダは、『萬朝報』の1920年8月15日号掲載の記事で初めて日本に紹介されたと言われています。こちらの記事に関しては、国立国会図書館等の図書館で資料を閲覧する他、中野嘉一『前衛詩運動史の研究』(新生社、1975年)に複製が掲載されているので、ぜひご覧ください。

       読書会は、発表者自身にとってもツァラの詩学についてあらためて考える実り多い時間でした。発表内で行った詩の朗読を好意的に受け取ってくださった方も少なくなく、またみなさまとツァラの詩を一緒に読む機会を今から待ち遠しく思います。

       ご参加いただいた方々をはじめ、ご運営いただいた南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さん、コメンテーターを務めていただいた森田俊吾さん、そして共催の「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」、みなさまに改めて感謝申し上げます。

      2023.9.28 第4回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

      共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

      🌟発表題目:『恋するアダム』を読む—情動に関する描写を中心に

      (1)発表内容のまとめ

       2023年9月29日に行った発表では、イアン・マキューアンのSF小説『恋するアダム』を取り上げました。舞台設定は架空の1980年代、イギリス・ロンドン。フォークランド紛争でイギリスが敗北していたり、科学者のアラン・チューリングが生きていたりと、現実とは異なるもうひとつの世界が描かれています。主人公のチャーリーは遺産をはたいて人間そっくりのアンドロイドであるアダムを購入します。チャーリーの恋人であるミランダにアダムは恋をして、三角関係が生じます。

       政治、技術、人間という存在、ヒューマノイドロボットとの共存、愛や恋の感情、命とは、など議論の幅の広い本作ですが、今回の発表では特に「情動」に着眼して発表しました。これは発表者の個人的興味によるもので、人間とヒューマノイドの間にあるはずの根本的な差は、「情動の有無」ではないか、と現在は考えているからです。そこで、小説のなかでマキューアンがどのようにチャーリーおよびアダムの情動(あるいは情動のように見えるもの)を描いているのか、具体例を引きながら考えてみました。

       人間と同等かそれ以上の知能を備えているとされるアダムには、すぐれた言語能力や情報処理能力だけでなく、人間であるかのような質感が備わっています。たとえば肌はあたたかく、触ると奥に筋肉の感触があります。喋るときには呼気と舌と歯と口蓋を使って声を出します。体からはかすかにオイルの匂いが漂い、特に息には温かいテレビの裏側のような匂いがするそうで、それは人間との差を強調してしまう部分かもしれません。

       このように、人間とは何かが違うけれど、高精度で人間を模倣しているアダムによって、チャーリーは様々な感覚を喚起させられています。発表者にとって印象的だったのは、アダムの初期充電が終わったときの描写です。

      (前略)そばに近づいてみると、呼吸はしていなかったが、うれしいことに、左胸のあたりが規則的に脈打っていた。(略)彼には体内に送り出す血液があるわけではないが、このシミュレーションには効果があった。わたしの疑念がちょっぴり薄れたのである。ばかげているのはわかっていたが、アダムを保護してやりたいような気分になった。(略)生命兆候は信じやすかった。(略)裸の男のかたわらに立って、頭で理解しているものと実際に感じるものとの乖離に戸惑っているというのは気味が悪かった

      (16ページより・強調は発表者による)

      心臓を持たないアダムが、鼓動があるかのように見せかけている理由は一体何なのでしょう。チャーリーは、この生理現象のモノマネに、すっかり騙されてしまいます。なぜなら「生命兆候は信じやす」いからです。生命兆候は、人間の情動の一種です。

      人間そっくりに脈打ちはじめている裸のアダムを前に、チャーリーの感情は揺れています。「うれしく」なったあと、まるで子どもを見ているような気持ちになって「保護してやりたく」なります。しかしその一方で、アダムには心臓を動かす必要が一切ないことも理解しているため、「実際に感じるものとの乖離に戸惑」い、さらにその状態を「気味悪い」と感じています。

       アダムが人間の生理現象を忠実に再現するのは、彼と対峙する人間に共感を芽生えさせるためでしょう。チャーリーがいかに理性では「気味悪い」と思おうと、チャーリーの感覚は自動的にといってもいいほど反射的に、アダムを自分と同じく生きているものとして捉え、「うれしい」「保護してやりたい」という気持ちにさせるのです。

       発表では、情動を軸に、アダムとミランダのセックスや、その後の三角関係などについても考察しました。

       反省点として、最初にもう少し詳しく情動論について紹介すべきでした。

      (2)フィードバックについての省察

       参加者のフィードバックからたくさんの気づきを得ました。本当にありがとうございます。すべてにお答えしたいところなのですが、以下2点にコメントします。

      ①アダムには特に物理的側面における特異性(例えば触れるとか)があると改めて気づきました。

       チャットGPTを始めとする生成AIは、人間の形をしている必要がありません。二次元的なやりとりで済ませられるからです。しかし、それだけでは飽き足らず、人間のかたちをした人間そっくりのロボットを作りたいという欲望は多くの人々に共有されており、実現させるための研究も数多く行われています。それにしても、なぜ人間そっくりである必要があるのでしょうか?発表者も常々疑問に思っていました。

       この疑問に対して、コメンテーターを務めてくださったロボット工学者の宮澤和貴さんから、「人間とそっくりに作れば、すでに人間のために作られているこの社会におけるさまざまな道具を共有できるというメリットがあります」とのアドバイスをいただきました。なるほど、と膝を打つご回答でした。

      ②アダムになぜ性器がついているのか、必要なのかというトピックにおいて様々な意見がありましたが、私は、『聖なるズー』における動物性愛者たちの思考を借りて考えてみました。アンドロイドであるアダムの性器は、アダムが一瞬でも人間と対等な立場で存在することができるようにと付けられたのではないでしょうか。人間に近づけるため、視覚的な意味で取り付けたという面もあるでしょうが、アダムが人間らしさを学ぶのは肉体構造だけでなく、あくまで人間との共同生活の中(その過程)にあります。共同生活の一部としてのセックスが可能となるよう、そして人間と対等であると思えるように、そういった人間らしい精神を得るための性器であり、セックスであるような気がします。

       参考資料として挙げてくださった『聖なるズー』は発表者の単著で、人間と動物の性を含む関係についての学術調査をもとにしたノンフィクションです。私自身、気づかなかったことをご指摘くださいました。本当にありがとうございます。確かにその通りです。

       アダムは性器を使用して、セックスそのものの感覚のみならず、誰かを狂おしく求めることや、さらには屈辱的なかたちでのマスターベーションまで経験します。それらの実践を通して、アダムは恋を自覚し、だからこそ、死にたいと一瞬でも思わなかったのだと自己を考察しています。さらに、マスターベーションは嫌な思い出となってしまったようで、そうであれば、自己を大切にするとはどのようなことかを学んだのではないでしょうか。

      ご指摘を頂いて、目からウロコが落ちる思いでした。ありがとうございました!

      みなさんとまた、様々な本について語り合うのを楽しみにしております。

      (文責:大阪公立大学UCRC研究員/ノンフィクション作家 濱野ちひろ)

      2023.7.28 第3回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

      共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

      🌟発表題目:『ある島の可能性』、あるいはミシェル・ウエルベックの読み難さ

      (1) 発表内容のまとめ 

       2023年7月28日の発表では、フランスの現代作家ミシェル・ウエルベックによる長編小説『ある島の可能性』について、その作品制作上の文脈、作品の構造、登場人物の(とりわけ性的な)言説、翻訳では現れにくいフランス語の修辞といった各要素に関して、読者が直面する読み難さに焦点を当てました。

       上記発表内容を選択した理由は、『ある島の可能性』のみならず、ウエルベックという作家があまりに単純化された形──たとえば、現代社会への悪辣な批判者、禁忌を厭わない口さがのない作家、などといった定型──で消費され過ぎているのではないかという発表者自身の当惑と、実際に当作品を読了した方々からの感想を踏まえてのことです。たしかに本作は露悪的で俗悪な言説が目につきますが、丁寧な読解を試みるならば、また違った位相が浮かび上がる作品として描かれています。その最たる特徴として、たとえばこの小説の冒頭と末尾が、同作家の詩作品で頻繁に用いられるフランス詩法で描かれている点などが挙げられるでしょう。読むことに抵抗感を感じるほどの文章と、ほとんど美学的と言ってよい詩的探求を目指す文章が混在する『ある島の可能性』という作品は、非文学性と文学性が緻密な駆け引きを繰り広げる作品とみなしえます。

       もちろん、この観点から存命作家であるウエルベックが文学的であるか否かを議論することは時期尚早に違いありません。とはいえ、一般的に言っても、戦略的に書かれた作品をその文学的側面を無視して消費することは、あきらかに愚かなことです。このことは、おそらく作品自体が訴えていることでもあります。というのもこの小説の本筋は、先人が書き残した文章を、その人物のクローンたちが世代を重ねながら熟読し注釈を加えていくという物語だからです。本作で描かれる彼らクローン人間たちによる、その薄弱な生を賭した読書行為は、真剣になにかを読むという行為について考えさせられます。つまり、ある種の読書という行為は、単なる消費活動ではないのだと切実に訴えかけているように思われるのです。

       「終わらない読書会」という場に合わせたかのような結論となりましたが、これはいくつかの先行研究と、作家自身による本作発表後のインタビューや、刊行された往復書簡を傍証に辿り着く形になりました。見方を変えれば本発表は、一作品だけを読んでも理解し難い部分が多く残るというこの作家の特徴を浮き彫りにした形になったと思います。

      (2) フィードバックについての省察―文学研究と読書会との狭間で

       発表者と同じくウエルベックを研究する西村真悟さん、主催者であるStephensの南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんらから、大変鋭いコメントを頂戴しました。ここにそれらを再掲することは、各人のコメントの豊かさと、文字数の問題から残念ながら叶いませんが、当日応答しきれなかった南谷さんからの「触覚・痛みの感覚」「島という主題と植民地主義」についての指摘はあえてここに記させていただきます。この指摘は、作品分析に腐心しがちな発表者にとって、作品を開放的に語る視座の重要性を改めて開いてくれるものだからです。

       開放的議論という観点から言えば、今回の発表での最大の収穫は、多くの参加者の方々からのコメントを頂戴したことです。「終わらない読書会」第二回にならい、発表の一週間ほど前に読書ガイド代わりのトピックリストを作成・配布し、読書会の序盤にそれを踏まえたコメントを、さらに発表後に改めて発表に対するコメントをと、二段構えで多くのご意見を頂戴しました。読書会という双方向的な場とはいえ、質疑応答が活気づいたのは、作品の強さと、参加者の方々の熱意、そして会の運営方法に大きく依存していると思います。この場を借りてみなさまに感謝申し上げます。また、当日、発表後の鋭い質問にはどうにか応答できましたが、会序盤のコメントについては時間の都合上ほとんど返答ができませんでした。すべてに返答申し上げることは難しいですが、そのうちのいくつかにお応え致します。

      • 「作家は映画化を目論んでいたのではないか」。ご指摘の通りで、本作は作家自身が監督して映画化するという構想がごく初期段階からあったようです。その制作資金獲得のために出版社を鞍替えしたという経緯もあります。
      • 「スキャンダラスに書くことは、リベラルに反感をもつサイレント・マジョリティへ売り込む戦略ではないか」。発表でも多少触れましたが、ウエルベックは自由(主義)に抵抗感を強くもっている作家であり、その創作意図には「スキャンダル」な真実を暴くというものが含まれているとみなせます。したがって、おそらくこの作家を読む上で、書き方が「スキャンダル」なのか、それとも彼の書いたものが「スキャンダル」なのかについて、慎重に距離を取って考えねばならないと思います。後半の販売戦略(のことでしょうか)については、出版社からの要請と、作家自身の創作哲学が絡み合っているでしょうから、作品読解からだけでは十分な議論は不可能に思われます(実証的研究が待たれます…)。
      • 「人間の描写が、分類に満ちている」。その通りで、この作家の小説では生物学的分類(昆虫描写には、馴染みのない生物学用語がしばしば用いられます)のレベルから、ときとして不愉快なほどの人種的・国籍的ステレオタイプ化のレベルまで、多くの分類的視線が現れます。とりわけこの作家の初期において、個人概念への疑念は顕著であり、その表出のひとつなのかもしれません。実際、人間は有限のタイプに分類可能だという作家自身の思想が小説作品の登場人物に適応されている、という指摘は多くなされています。

       またご指摘のなかには、「研究者の視点と一般読者の視点は異なるという印象があった」というコメントがありました。これは私の作成したトピックリストへの批判的感想と思われますが、重要なご指摘であるため、以下のように応答させていただきます。

       今回の発表を準備するにあたり、私が心掛けたのは単なる研究発表にはすまいということでした(ですので、ご指摘は痛烈な批判として受け止めております)。これは開放的な読書会において「研究者と一般読者を区分けしない」という意味ではなく、むしろ「研究者と一般読者はなにが違うのか」という問いを再考する機会でもありました。私の結論を先に申し上げれば、「研究者と一般読者の差は、読書体験においてはさほど生じない」というものです。これは理論的な省察ではなく、初心に立ち帰り、本作を読みながら疑問点や感想をとめどなく余白に書きつけ、そのメモ書きをリスト化していく段階での実感です。もちろん研究者である以上、専門分野である作品や作家への知識や、文学という学問領域での知識や知見は備えていなければなりません。しかし、ある文学作品を鑑賞するにあたって、そうした知識はさほど役に立つものではないと私は考えます。文学研究者の仕事とは、なにか真なる解釈や読解を提示することではなく、ウンベルト・エーコが述べていたように、作者が言い淀んだり書き忘れたりしたことを補填すること、すなわち『ある島の可能性』の登場人物のように註をつけること以上でも以下でもありません(つまり、研究職の職能とは、読書時の余白への書付をいかに客観的に活字にするかという点にかかっていると思います)。しかし、こうした註は作品を補強する一方で、目にはうるさいという運命を背負っています。

       オンライン読書会という限りなく開かれた場において、こうした註釈を延々とすることは、退屈である以上に、作品鑑賞において邪魔でしかないように思われます。もちろん、註釈自体がある種の知的好奇心を誘発することを否定しているわけではありません。とはいえ、個人的に何かを読み、疑問や感動を携えたとき、そうした註釈が必要かというとはなはだ疑問です。それが理由で、上述の方針を固め、私の研究上の所産というよりも、作品理解の補助線を引くことを心がけた発表をさせていただきました。

       『服従』という、『ある島の可能性』の二作後の作品では、まさに文学研究者である主人公が登場します。彼は専門であるユイスマンスについて全集版の序文を書くことになるのですが、その完成の過程で彼は次のような天啓を得ます。「ぼくは突然、完全にユイスマンスを理解した、それもユイスマンス自身よりもずっと完全に」。この妄想すれすれの確信が主人公に訪れるのは、ユイスマンス作品の読後でも、関連論文の読後でもなく、レストランでメニューの選択に頭を悩ませているときです。文学作品が生の所産でありうるのであれば、その理解は──妄想であれども──やはり知の領域ではなく、生の領域でなしうるのではないか。これは一種の仮説に過ぎませんが、少なくともウエルベックにおける読書の重要性のひとつには数えられる観点です。

       ウエルベックの諸作品で引用ないし言及された書物を丹念に読み、その意図や意味を追求する『ミシェル・ウエルベックの引き出し』の著者であるヴィアールは、「ウエルベックはまともに読まれていない」と発言したことで知られています。今回の発表ではまさにこの読むことについて深く再考する大変よい機会になりました。いただいた多くのご指摘や、ご感想を、今後の研究の活力にしていきたいと思います。ご参加いただいた方々、ご運営いただいたStephensの方々、共催の「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」、コメンテータ―を務めていただいた西村真悟さん、みなさまに改めて感謝申し上げます。(文責:ロレーヌ大学博士過程・東京都立大学客員研究員 八木悠允)

      2023.4.21 第2回「終わらない読書会―22世紀の人文学に向けて」を開催しました!

       「終わらない読書会―22世紀の人文学に向けて」@Zoom(共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告)

      (1) 発表内容のまとめ

       2023年4月21日に行った発表では、カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)の長編小説『わたしを離さないで』(Never Let Me Go, 2005)について、アイデンティティ認識の視点からの考察を展開しました。臓器移植のためにクローン人間である本作品の語り手キャシー(Kathy)は、しばしばその平坦な語り方から奥行きに欠ける登場人物と評されます。本論は個性が不鮮明のように見える語り手と、読者の内に呼び覚まされる強烈な共感とのずれを出発点とし、至る所で自身の個性をアピールするキャシーの人物像を考察しました。

       最初に論じたのは、語り手としてのキャシーの平凡さは生来の性質ではなく、彼女の生涯を通して「普通」(“normal”)と「特殊」(“different”)の二項対立の間で行ってきた「選択」の結果であることです。キャシーはクローン人間の中でも特殊な存在であるヘールシャム出身者ですが、ヘールシャムの中では他のクローンと同じ経験を持つことを重んじ、「普通」側に居続けるために様々な工夫をします。これらの行動は、閉鎖的で、水面下のいじめ問題が蔓延るヘールシャムという環境で生きる上での必要な知恵かもしれません。しかしキャシーはその平坦な語り方と裏腹に、己の特殊性をヘールシャムに対する執着、介護人としての優れた能力、そしてトミーとの間の愛から見出そうとします。友人を次々と看取る孤独な介護人となるキャシーの生涯を振り返ると、「普通」と「特殊」の間に何度も行き来し、最終的に「特殊」な存在になることを彼女自身が認めざるを得ないプロセスが明確に読み取られるようになります。

       次に、作品に繰り返し描かれる「フェンス」(“fence”)のモチーフについて論じました。キャシーが子供時代を過ごしたヘールシャムでは、フェンスの向こう側に行く者が死に至るという噂が引き継がれています。この認識はさらに歴史の授業で教わった第二次世界大戦中に建てられた強制収容所の有刺鉄線のイメージに強化され、クローン人間たちにとってフェンスは物理的・精神的に越えてはならないものとなります。しかしキャシーはバイクに乗ってフェンスを越える映画の一シーンをヘールシャムのクローンたちが何度も観たかったことを鮮明に覚えており、ヘールシャムから出た後に友人のルースとトミーと共にフェンスを越える場面も彼女の語りに明確に含まれています。こうしてフェンスの向こう側に行きたいという願望が随所仄めかされているが、最後の場面でキャシーはフェンスを越え、トミーの幻影を求めることを断念します。本発表では、ここでのトミーの幻影を「死の誘惑」、フェンスを越えない行動をキャシーの「自殺しない」決断の結果として解釈しました。出生から死までの人生において、クローン人間たちは殆ど選択する権利を許されていません。搾取され続ける人生を受け入れなければならない、自分だけの名前すら持つことができません。「選択」が許されない人生だからこそ、自分の意志で「選択」をすることはキャシーにとって並々ならぬ重みがあり、尊厳の拠り所になっています。彼女が最後に下す「自殺しない」との決断は運命への無抵抗ではなく、むしろ意識的に自分が愛したすべての人たちと同じ死に方を経験し、同じ人生を歩まんとする意志の表明です。タイトルの「Never Let Me Go」は、キャシーが読者に向けて絶えずに発信する「私を忘れるな」というメッセージの表明として解読できるのではないでしょうか。

      (2) 発表テーマ/フィードバックについての省察

       「フェンス」のモチーフや自殺のテーマは、イシグロ研究をする中でかねてから取り組みたかったものであり、今回の発表で初歩的な考察をすることができました。この二つの要素はイシグロの処女作『遠い山なみの光』、また、それ以降の作品にも頻繁に組み込まれるものであります。フェンスにどのようなメッセージが込められているか、自殺は単なるネガティブな含意を表す行為なのかイシグロ作品におけるフェンスのモチーフに多様な意味合いが込められるようになり、死を選ぶことも単なるネガティブなもの以外のメッセージを読者に伝えるようになりました。40年近くの作家活動のなかで、イシグロは抑圧されながら自我が徐々に形成され、最終的に抑圧を突き破る語り手たちを次々と生み出してきました。目立った形での反抗を描かないイシグロ作品だからこそ、抑圧の中で必死に自我の存在を確立しようとする自由意志の表出を敏感に察知する読者の読む力が求められています。

       参加者のフィードバックからは、以下の三点についての大きな示唆を得ました。

       ①非現実的な作品世界とリアリズムを感じさせる登場人物との共存に違和感を覚え、そのために「あえて共感しない」読み方をするという指摘と頂きました。筆者自身は一貫としてイシグロの作品と向き合う姿勢を述べると、共感しにくい主人公から隠された共感の源を探し出すというスタンスであるため、非常に新鮮な読み方を触れることができたと言えます。

       ②最後の場面において、フェンスに引っかかる「ゴミ」に注目し、ゴミがそれ以上どこへも行けないことが作品の閉鎖的な世界を強調しているという指摘を頂きました。この点について、ルースの夢の内容と合わせて読みたいと思います。ヘールシャムの思い出をさほど大切に思わないルースだが、自分が洪水に襲われるヘールシャムの教室にいる夢を見ます。そこから窓の外で空の飲料容器などのゴミが水に流される場面を見て、「とても落ち着いた」と述べます。提供が終わり、空っぽになったあとにヘールシャムで生涯を終えたい回帰願望の暗示として読み取れますが、現実世界でキャシーが見るゴミは流動的な水に運ばれず、ヘールシャムで死を迎えることももちろん実現されません。死後の里帰りを潜在意識で求めるクローンたちだが、どこまでも制限される世界の中ではそれも叶えられない悲哀が読み取られると思います。

       ③クローンたちの死に対する無抵抗な態度を、「しょうがない」という日本の物事のおさめ方の表現として解釈する意見を頂き、新鮮な驚きを得ました。臓器移植の運命に対抗できないが、キャシーたちが対抗できるものは個性の消滅です。三人のクローンではなく、「キャシー」「トミー」「ルース」という三人の人間がこの世にいたことを読者に覚えてもらいたくて、キャシーが語り始めたのではないでしょうか。今回の発表では、変えられない運命に「しょうがない」と思いながらも、「運命の変え方」ではなく「運命の受け止め方」に個性と尊厳を見出す考え方を強調しました。

       今回の発表は自分自身の文学研究に臨む姿勢を客観視することができる機会となり、実り豊かな経験となりました。参加者の方々に御礼を申し上げます。(文責:京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程 肖軼群)