2023.9.28 第4回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

🌟発表題目:『恋するアダム』を読む—情動に関する描写を中心に

(1)発表内容のまとめ

 2023年9月29日に行った発表では、イアン・マキューアンのSF小説『恋するアダム』を取り上げました。舞台設定は架空の1980年代、イギリス・ロンドン。フォークランド紛争でイギリスが敗北していたり、科学者のアラン・チューリングが生きていたりと、現実とは異なるもうひとつの世界が描かれています。主人公のチャーリーは遺産をはたいて人間そっくりのアンドロイドであるアダムを購入します。チャーリーの恋人であるミランダにアダムは恋をして、三角関係が生じます。

 政治、技術、人間という存在、ヒューマノイドロボットとの共存、愛や恋の感情、命とは、など議論の幅の広い本作ですが、今回の発表では特に「情動」に着眼して発表しました。これは発表者の個人的興味によるもので、人間とヒューマノイドの間にあるはずの根本的な差は、「情動の有無」ではないか、と現在は考えているからです。そこで、小説のなかでマキューアンがどのようにチャーリーおよびアダムの情動(あるいは情動のように見えるもの)を描いているのか、具体例を引きながら考えてみました。

 人間と同等かそれ以上の知能を備えているとされるアダムには、すぐれた言語能力や情報処理能力だけでなく、人間であるかのような質感が備わっています。たとえば肌はあたたかく、触ると奥に筋肉の感触があります。喋るときには呼気と舌と歯と口蓋を使って声を出します。体からはかすかにオイルの匂いが漂い、特に息には温かいテレビの裏側のような匂いがするそうで、それは人間との差を強調してしまう部分かもしれません。

 このように、人間とは何かが違うけれど、高精度で人間を模倣しているアダムによって、チャーリーは様々な感覚を喚起させられています。発表者にとって印象的だったのは、アダムの初期充電が終わったときの描写です。

(前略)そばに近づいてみると、呼吸はしていなかったが、うれしいことに、左胸のあたりが規則的に脈打っていた。(略)彼には体内に送り出す血液があるわけではないが、このシミュレーションには効果があった。わたしの疑念がちょっぴり薄れたのである。ばかげているのはわかっていたが、アダムを保護してやりたいような気分になった。(略)生命兆候は信じやすかった。(略)裸の男のかたわらに立って、頭で理解しているものと実際に感じるものとの乖離に戸惑っているというのは気味が悪かった

(16ページより・強調は発表者による)

心臓を持たないアダムが、鼓動があるかのように見せかけている理由は一体何なのでしょう。チャーリーは、この生理現象のモノマネに、すっかり騙されてしまいます。なぜなら「生命兆候は信じやす」いからです。生命兆候は、人間の情動の一種です。

人間そっくりに脈打ちはじめている裸のアダムを前に、チャーリーの感情は揺れています。「うれしく」なったあと、まるで子どもを見ているような気持ちになって「保護してやりたく」なります。しかしその一方で、アダムには心臓を動かす必要が一切ないことも理解しているため、「実際に感じるものとの乖離に戸惑」い、さらにその状態を「気味悪い」と感じています。

 アダムが人間の生理現象を忠実に再現するのは、彼と対峙する人間に共感を芽生えさせるためでしょう。チャーリーがいかに理性では「気味悪い」と思おうと、チャーリーの感覚は自動的にといってもいいほど反射的に、アダムを自分と同じく生きているものとして捉え、「うれしい」「保護してやりたい」という気持ちにさせるのです。

 発表では、情動を軸に、アダムとミランダのセックスや、その後の三角関係などについても考察しました。

 反省点として、最初にもう少し詳しく情動論について紹介すべきでした。

(2)フィードバックについての省察

 参加者のフィードバックからたくさんの気づきを得ました。本当にありがとうございます。すべてにお答えしたいところなのですが、以下2点にコメントします。

①アダムには特に物理的側面における特異性(例えば触れるとか)があると改めて気づきました。

 チャットGPTを始めとする生成AIは、人間の形をしている必要がありません。二次元的なやりとりで済ませられるからです。しかし、それだけでは飽き足らず、人間のかたちをした人間そっくりのロボットを作りたいという欲望は多くの人々に共有されており、実現させるための研究も数多く行われています。それにしても、なぜ人間そっくりである必要があるのでしょうか?発表者も常々疑問に思っていました。

 この疑問に対して、コメンテーターを務めてくださったロボット工学者の宮澤和貴さんから、「人間とそっくりに作れば、すでに人間のために作られているこの社会におけるさまざまな道具を共有できるというメリットがあります」とのアドバイスをいただきました。なるほど、と膝を打つご回答でした。

②アダムになぜ性器がついているのか、必要なのかというトピックにおいて様々な意見がありましたが、私は、『聖なるズー』における動物性愛者たちの思考を借りて考えてみました。アンドロイドであるアダムの性器は、アダムが一瞬でも人間と対等な立場で存在することができるようにと付けられたのではないでしょうか。人間に近づけるため、視覚的な意味で取り付けたという面もあるでしょうが、アダムが人間らしさを学ぶのは肉体構造だけでなく、あくまで人間との共同生活の中(その過程)にあります。共同生活の一部としてのセックスが可能となるよう、そして人間と対等であると思えるように、そういった人間らしい精神を得るための性器であり、セックスであるような気がします。

 参考資料として挙げてくださった『聖なるズー』は発表者の単著で、人間と動物の性を含む関係についての学術調査をもとにしたノンフィクションです。私自身、気づかなかったことをご指摘くださいました。本当にありがとうございます。確かにその通りです。

 アダムは性器を使用して、セックスそのものの感覚のみならず、誰かを狂おしく求めることや、さらには屈辱的なかたちでのマスターベーションまで経験します。それらの実践を通して、アダムは恋を自覚し、だからこそ、死にたいと一瞬でも思わなかったのだと自己を考察しています。さらに、マスターベーションは嫌な思い出となってしまったようで、そうであれば、自己を大切にするとはどのようなことかを学んだのではないでしょうか。

ご指摘を頂いて、目からウロコが落ちる思いでした。ありがとうございました!

みなさんとまた、様々な本について語り合うのを楽しみにしております。

(文責:大阪公立大学UCRC研究員/ノンフィクション作家 濱野ちひろ)