2023.4.21 第2回「終わらない読書会―22世紀の人文学に向けて」を開催しました!

 「終わらない読書会―22世紀の人文学に向けて」@Zoom(共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告)

(1) 発表内容のまとめ

 2023年4月21日に行った発表では、カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)の長編小説『わたしを離さないで』(Never Let Me Go, 2005)について、アイデンティティ認識の視点からの考察を展開しました。臓器移植のためにクローン人間である本作品の語り手キャシー(Kathy)は、しばしばその平坦な語り方から奥行きに欠ける登場人物と評されます。本論は個性が不鮮明のように見える語り手と、読者の内に呼び覚まされる強烈な共感とのずれを出発点とし、至る所で自身の個性をアピールするキャシーの人物像を考察しました。

 最初に論じたのは、語り手としてのキャシーの平凡さは生来の性質ではなく、彼女の生涯を通して「普通」(“normal”)と「特殊」(“different”)の二項対立の間で行ってきた「選択」の結果であることです。キャシーはクローン人間の中でも特殊な存在であるヘールシャム出身者ですが、ヘールシャムの中では他のクローンと同じ経験を持つことを重んじ、「普通」側に居続けるために様々な工夫をします。これらの行動は、閉鎖的で、水面下のいじめ問題が蔓延るヘールシャムという環境で生きる上での必要な知恵かもしれません。しかしキャシーはその平坦な語り方と裏腹に、己の特殊性をヘールシャムに対する執着、介護人としての優れた能力、そしてトミーとの間の愛から見出そうとします。友人を次々と看取る孤独な介護人となるキャシーの生涯を振り返ると、「普通」と「特殊」の間に何度も行き来し、最終的に「特殊」な存在になることを彼女自身が認めざるを得ないプロセスが明確に読み取られるようになります。

 次に、作品に繰り返し描かれる「フェンス」(“fence”)のモチーフについて論じました。キャシーが子供時代を過ごしたヘールシャムでは、フェンスの向こう側に行く者が死に至るという噂が引き継がれています。この認識はさらに歴史の授業で教わった第二次世界大戦中に建てられた強制収容所の有刺鉄線のイメージに強化され、クローン人間たちにとってフェンスは物理的・精神的に越えてはならないものとなります。しかしキャシーはバイクに乗ってフェンスを越える映画の一シーンをヘールシャムのクローンたちが何度も観たかったことを鮮明に覚えており、ヘールシャムから出た後に友人のルースとトミーと共にフェンスを越える場面も彼女の語りに明確に含まれています。こうしてフェンスの向こう側に行きたいという願望が随所仄めかされているが、最後の場面でキャシーはフェンスを越え、トミーの幻影を求めることを断念します。本発表では、ここでのトミーの幻影を「死の誘惑」、フェンスを越えない行動をキャシーの「自殺しない」決断の結果として解釈しました。出生から死までの人生において、クローン人間たちは殆ど選択する権利を許されていません。搾取され続ける人生を受け入れなければならない、自分だけの名前すら持つことができません。「選択」が許されない人生だからこそ、自分の意志で「選択」をすることはキャシーにとって並々ならぬ重みがあり、尊厳の拠り所になっています。彼女が最後に下す「自殺しない」との決断は運命への無抵抗ではなく、むしろ意識的に自分が愛したすべての人たちと同じ死に方を経験し、同じ人生を歩まんとする意志の表明です。タイトルの「Never Let Me Go」は、キャシーが読者に向けて絶えずに発信する「私を忘れるな」というメッセージの表明として解読できるのではないでしょうか。

(2) 発表テーマ/フィードバックについての省察

 「フェンス」のモチーフや自殺のテーマは、イシグロ研究をする中でかねてから取り組みたかったものであり、今回の発表で初歩的な考察をすることができました。この二つの要素はイシグロの処女作『遠い山なみの光』、また、それ以降の作品にも頻繁に組み込まれるものであります。フェンスにどのようなメッセージが込められているか、自殺は単なるネガティブな含意を表す行為なのかイシグロ作品におけるフェンスのモチーフに多様な意味合いが込められるようになり、死を選ぶことも単なるネガティブなもの以外のメッセージを読者に伝えるようになりました。40年近くの作家活動のなかで、イシグロは抑圧されながら自我が徐々に形成され、最終的に抑圧を突き破る語り手たちを次々と生み出してきました。目立った形での反抗を描かないイシグロ作品だからこそ、抑圧の中で必死に自我の存在を確立しようとする自由意志の表出を敏感に察知する読者の読む力が求められています。

 参加者のフィードバックからは、以下の三点についての大きな示唆を得ました。

 ①非現実的な作品世界とリアリズムを感じさせる登場人物との共存に違和感を覚え、そのために「あえて共感しない」読み方をするという指摘と頂きました。筆者自身は一貫としてイシグロの作品と向き合う姿勢を述べると、共感しにくい主人公から隠された共感の源を探し出すというスタンスであるため、非常に新鮮な読み方を触れることができたと言えます。

 ②最後の場面において、フェンスに引っかかる「ゴミ」に注目し、ゴミがそれ以上どこへも行けないことが作品の閉鎖的な世界を強調しているという指摘を頂きました。この点について、ルースの夢の内容と合わせて読みたいと思います。ヘールシャムの思い出をさほど大切に思わないルースだが、自分が洪水に襲われるヘールシャムの教室にいる夢を見ます。そこから窓の外で空の飲料容器などのゴミが水に流される場面を見て、「とても落ち着いた」と述べます。提供が終わり、空っぽになったあとにヘールシャムで生涯を終えたい回帰願望の暗示として読み取れますが、現実世界でキャシーが見るゴミは流動的な水に運ばれず、ヘールシャムで死を迎えることももちろん実現されません。死後の里帰りを潜在意識で求めるクローンたちだが、どこまでも制限される世界の中ではそれも叶えられない悲哀が読み取られると思います。

 ③クローンたちの死に対する無抵抗な態度を、「しょうがない」という日本の物事のおさめ方の表現として解釈する意見を頂き、新鮮な驚きを得ました。臓器移植の運命に対抗できないが、キャシーたちが対抗できるものは個性の消滅です。三人のクローンではなく、「キャシー」「トミー」「ルース」という三人の人間がこの世にいたことを読者に覚えてもらいたくて、キャシーが語り始めたのではないでしょうか。今回の発表では、変えられない運命に「しょうがない」と思いながらも、「運命の変え方」ではなく「運命の受け止め方」に個性と尊厳を見出す考え方を強調しました。

 今回の発表は自分自身の文学研究に臨む姿勢を客観視することができる機会となり、実り豊かな経験となりました。参加者の方々に御礼を申し上げます。(文責:京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程 肖軼群)