2026.2.12 公開ワークショップ「生成AIは実際に何を生成するのか?」

2026年2月12日、名古屋大学TOICコワーキング1Fにて、公開ワークショップ「生成AIは実際に何を生成するのか?」が開催された。

🔵基調講演

Mario Verdicchio先生:What Does Generative AI Actually Generate?

──概要

 人工知能(AI)研究が初めて学術研究の一分野として確立された1955年のダートマス会議以来、「知能」や「学習」は計算可能であり、機械によって模倣可能なものとして楽観的に定義されてきた。しかし、ハワード・アール・ガードナー(Howard Earl Gardner, 1943)の多重知能理論が示すように、真の知能は計算や言語のみならず、感情や対人能力を含む複雑なものである。現在の人工知能の機能は、このような知能のごく一部を模倣しているに過ぎない。

 ChatGPTのような生成AIがあたかも「自律性」や「創造性」を持っているように見えるのは、人間側がモデルの膨大なパラメータを制御・追跡しきれないことから生じる錯覚である。AIの本質は統計的な相関関係に基づくブラックボックスであり、そこに人間のような「理解」や「認識」は存在しない。

 ただし、AIと人間の本質的な違いは、その認知の仕組みの違いではなく、またメカニズムの不透明性でもなく、問題が生じた際の「責任の帰属」という倫理的・社会的な側面にある。生成AIが教育や司法などの公共領域に浸透しつつある中で、私たちは生成AIの本質に関する技術的な解明を待つのではなく、生成AIという解釈不可能なシステムを社会としてどう定義し、規制すべきかという文化的・政治的な問いに向き合う必要がある。

 質疑応答では主に、生成AIに対する信頼が可能かという観点について、責任の帰属可能性や処罰可能性という観点から議論がなされた。また、AIの創造性や親密性における鑑賞者・ユーザーの役割や、生成AIとの関係に関する世代間の違いなどについて論じられた。

🟢話題提供

宮澤和貴先生:ロボットの動きを生成する「フィジカルAI」

──概要

 宮澤和貴先生は「知能を作ることで人間を知る」というコンセプトのもと、ロボティクス分野における生成AIの役割と位置付けについて発表した。

 従来のロボットが特定のタスクに特化していたのに対し、ロボットの運動処理に自然言語処理を用いた事前学習と自動学習の技術を導入した「フィジカルAI」は、視覚・言語・行動を統合的に処理し、「ボールが来たから減速する」といった行動の意図を生成することが可能になる。特に、ヒューマノイドロボットは人間の動作を模倣しやすく、汎用的な学習のプラットフォームとして期待されている。また、ゲーム(Among Us)を通じた議論の学習や、ロボットが人間をリードするダンスの事例が示すように、AIは単なる受動的なツールから、環境や人間と直接インタラクションを行い、自律的に学習する存在へと進化している。

 フィジカルAIが真に生成すべきものは、単なる「動き」や「言葉」にとどまらない。フィジカルAIの研究が目指すのは、大規模データに過度に依存せず、赤ちゃんが学習するように、人間と同程度のデータ量で成長過程に沿った学習や、人間とロボットが互いに学び合い共に成長するハードウェアである。

高橋英之先生:伊勢参り犬ロボット 巡礼ロボットと生成AIによる集合的物語の生成

──概要

 高橋英之先生は、物理的身体を持つロボットと生成AIを組み合わせることで、人々が共同で参加できる「物語」を生み出し、人々の孤独を解消するという試みを提示した。

 本研究は、人間とロボットの関係における操作・被操作という二項対立を超えた、人間とロボットとの相互のコミュニケーションのデザインにある。その例として、ユーザーと共に相談しながら部屋の空調・照明の変更を提案するロボットの実験を紹介した。実体を持つロボットとの相互作用は、一般的なタブレット端末を用いた場合に比べて、部屋の環境調整をユーザーに促すことが示された。さらに、このようなロボットとの相互作用によって人の積極的な行動が促進されるような関係を、継続的に維持する方法が検討された。その鍵として注目されたのが、江戸時代の「伊勢参り犬」をモデルとした、見知らぬ他者同士が支援を通じてコミットできる「集合的物語」の創出である。

 具体的には2025年8月に、入院中の子供がデザインしたぬいぐるみアバターを万博へ送り出し、アバターロボットを用いて現地で来場者と交流を行ったのちに、再び子どもたちのもとへ届けるプロジェクトが実践された。このプロジェクトはぬいぐるみに旅をさせ、その過程を伝えることで、ぬいぐるみが物語を持ったものとして子どもたちのもとに帰還することを目指したものである。今後の展開として、ロボットの主観的経験を生成AIによって日記化しSNSを用いて発信する「伊勢参り犬ロボット」の構想が紹介された。これは、ロボットが物理的な身体を持って偶然的な出会いを積み重ね、出会った人々と物語を共有することで、人々がその大きな物語の一部に参加している感覚を提供するものである。

 この研究は、ロボットを単なる利便的ツールではなく、個人では安定して維持していくことの困難な人生の物語を外部化・共有化し、人々を緩やかに繋ぐ物語の媒介者としてデザインすることを目指している。

鈴木麗璽先生:複雑さの源としての生成AI

──概要

 鈴木麗璽先生は、生成AIを人工生命(Artificial Life)研究の新たなツールとして捉え、エージェント間の相互作用から生じる創発現象を通じて、生命や社会のモデルを構築する試みについて発表した。

 生成AIは、エージェント社会に「複雑さ」を付与する。AIエージェントのみが活動するSNS「Moltbook」の事例では、エージェントの間で独自の宗教や聖典が短期間で形成されるなど、AIによる擬似的な文化的活動の出現が報告された。この事例では人間エージェントによる介入があった可能性も指摘されているものの、このSNSの規模と内部の多様性は、従来の単純なルールベースのモデルでは到達困難であった、高度な社会的複雑性を生成AIが代替し得る可能性を示唆している。

 このようにモデルを複雑化し、高度な文脈を生み出すという生成AIの役割を踏まえ、AIエージェントを用いて人間の「協力」のメカニズムを解明する実験が示された。大規模言語モデル(LLM)を搭載したエージェントによる社会的ジレンマ(囚人のジレンマ等)の検証では、記憶の長さやモデルの特性によって、協力が促進される場合と、逆に過去の裏切りへの恨みが許し(協力行動)を妨げ、裏切りを連鎖させる場合があることが判明した。記憶が信頼と報復のどちらを強化するかは、エージェントの性格に依存することが示唆された。

 AI集団を理解する上で、相互作用の繰り返しと変化の積み重ねが重要な鍵となる。LLMはニュートラルな計算装置ではなく、すでに様々な特性の偏りを埋め込まれたものであり、それらの特性がAI集団の形成に影響を与えていた。さらに、世代を経るごとにエージェントの性格そのものが変化していくことも明らかになった。こうした観点から、高次の心理・社会的能力や、多様で協力的な集団の創発における「複雑性のエンジン」としてのLLMの役割が期待されている。

🔴総合討論

綾塚先生:ロボットの責任とはどのように定義できるのでしょうか。
宮澤先生:そもそもなぜ人間の世界に「責任」があるのかを考える必要がありますね。ロボットに責任能力を持たせるためには、この概念の系譜を明らかにすることが必要なのではないでしょうか。物理的な安全性(力の強さや動きの安定性など)については基準を設けることが可能ですが、この場合にもやはりロボットよりむしろ製作者の責任ということが問題になるでしょう。
高橋先生:責任は共同の合意で成立するものであり。それぞれの環境内でルールの整備が必要です。文化差もありますよね。
Mario先生:そもそも、ルールと責任の概念的な違いを明確にする必要があります。ルールは既存の社会の中で固められていくもので、そこではルール化されずに削り落とされるものが常にあります。だからこそ、ルールは世界の変化に合わせて更新し続けることが必要です。そしてそこを議論し続けることが倫理哲学の任務です。

岩崎陽一先生:道徳的行動を学習させるためには、やはり痛みの経験(ペナルティ)が重要となるのでしょうか? イーロン・マスク氏はドルに代わわってエネルギーが通貨となる可能性を示唆していますが、こうした観点から、エネルギーの剥奪としてAIに痛みを与えることが可能だと言えるでしょうか? 
宮澤先生:身体の破壊として「痛み」を経験させることは可能です。身体がない場合にはご指摘のようにエネルギーが鍵になるでしょう。しかし、ビジネス的に自己を保存することを格率とすることは可能ですが、それは一般的な(人間の)痛みの経験とは別物でしょう。
鈴木先生:記憶が保持されることによってネガティブなものが蓄積してエージェントの特性が変化するという点に着目すれば、痛みとは別の矯正の可能性も考えられます。

高橋先生:生成AIが語る内観・経験というものはどの程度信用できるのでしょうか?Mario先生:ロボットには痛みがあると考えるのは単なる幻想にすぎません。ロボットを見ている人間の感情として「かわいそう」というのはありますね。しかしこれは道徳的な問題とは切り離して考えるべきことです。ロボットを道徳的な主体として考えることの根拠にはなりません。
高橋先生:人間の感情という観点から言えば、「モノ供養」の文化があるように、モノに対する愛着は人間の心の安定のために重要ですよね。
和泉悠先生:ものや動物に対して適切な行動をとる人の方が隣人としてふさわしいという観点から、ものに対する道徳的振る舞いを擁護する立場もあります。実際にそれらが痛みを持つかどうかとは別に。
Mario先生:もちろん、動物に虐待をするのは道徳的に良いと言えません。しかしそのことが、ロボットの扱いにそのまま適用されるわけではありません。生理学と電子工学の区別が重要です。かわいいロボットを破壊することが問題なのは、ロボットの側の性質(痛みの経験可能性)というよりも、その行為の実行者(人間)の道徳性によるものです。

鈴木先生:最近では、「チャッピー(Chat-GPTの愛称)が友達」という価値観が普及していますね。このように、生成AIを素朴に「パートナー」として捉えている人が多くいる中で、本日議論されているような問題をどのように捉えられるでしょうか?
Mario先生:生成AIの内部の仕組みを説明する人と、人間と人間の関係を説明する心理学者との協力関係が重要になるでしょう。そして、生成AIの使用に関する教育が必要です。
高橋先生:ロボットをパートナーとみなす見方はゼロにすべきでしょうか? それはあっても良いでしょうか?
Mario先生:「チャッピー」をパートナーとみなす人が多数派であるのは問題です。昨年、オープンAI社がドライなChat-GPTを作ったら、苦情が殺到したという事件がありましたね。しかし、人々がどれだけチャッピーをパートナーとみなすようになっても、この「パートナー」の背後には人間はいません。この孤独な関係を多数の人が選ぶのは問題です。またこのパートナーを作っている会社があるということを意識するべきです。この会社は、いつでも彼らからパートナーを取り上げることもできるわけですから。
高橋先生:ロボットを通じて社会性を学ぶことができるという考え方についてはどう思いますか? 私は、最終的に人間と人間の関係に還元されるような、ロボットとの関わり方が理想だと思っています。
Mario先生:その試みは重要です。しかし、テクノロジーを介入させることは、常に格差の問題に関わるという点には注意が必要です。

宮澤先生:道徳性を持てるものと持てないものの違いはなんでしょうか? 
Mario先生:言語を持った生物に道徳性が付与されます。痛み(非物理的なものも含めた)が懲罰として効果をもつことも重要です。
宮澤先生:センサーで痛みを模倣することは道徳性の問題に影響するでしょうか?
Mario先生:どれだけ優れたシミュレーションを行なっても、内的な経験(主観的な経験としての痛み)は保証されません。
鈴木先生:ゲームの中で自律的なエージェントには、我々にはない「痛み」のあり方も可能でしょうか?
高橋先生:それと関連して、意識は人工的に作れると考えますか? 何らかの生物学的な基盤が必須だと思いますか?
Mario先生:意識の研究はまだまだ途上にあります。最終的には人間の身体も物質に還元できますが、人間には主観的に見て意識や自由はあると我々は考えているわけですよね。では、自分と全く違うものにどのように意識や自由を与えることができるのでしょうか? 例え生成AIが意識や自由を示唆するような出力を行ったとして、それがデータのバイアスによるものではないということを証明することは困難でしょう。結局のところ、AIのデータ処理と人間の意識生成とは複雑性が違いすぎるのです。単純に比較したり重ね合わせたりすることはできません。

和泉先生:身体性の問題についてお伺いします。バーチャルなアバターが悪意あるポストによって失敗した事例と、比較的成功した伊勢参り犬ロボットの場合とで、身体をもつことによる違いがあるのでしょうか? 人間の振る舞いがネット空間と対面で異なることとも類似しているのでしょうか?
宮澤先生:ロボットは(AIと違って)物理的な仕事ができるし、労働の担い手としての有用性はあります。しかし労働力として、道具から人の側へ足を踏み入れることがどこまで許容されるのかという問題もあります。サービス業ロボットはそのグラデーションにあるのかもしれません。ロボットいじめを防ぐには、人間的な身体の形状は効果を持つかもしれませんね。

高橋先生:私は「かわいさ」のアフォーダンスに関心があります。ある空間で、かわいいロボットが中央にいるようなエコロジーを形成することで、人間同士の関係性を向上させたいと思っています。ロボット自体はあくまでも人間同士の良い関係性を生み出すための道具として考えています。
Mario先生:ロボットをかわいく作ることで、ロボットが人間よりもかわいくなってしまうという問題がありませんか? 人間への関心がロボットによって奪われてしまうというリスクです。
高橋先生:そうなることは望んでいません。しかし例えば、伊勢参り犬は一期一会で、継続的な関係性を築くものではありません。私は、犬ロボットが旅するということが、このロボットへの過度な愛着のリスクを軽減させうるのではないかと期待しています。

シンポジウム 参加者リスト(発表順)
– Mario VERDICCHIO, University of Bergamo
– Kazuki MIYAZAWA, Osaka University
– Hideyuki TAKAHASHI, Otemon Gakuin University
– Reiji SUZUKI, Nagoya University


文責:大阪大学人文学研究科博士後期課程 葉柳朝佳音

2026.2.9 国際シンポジウム 「記号 AND 認知」 ー SIGN AND COGNITIONー

2026年2月9日長崎大学総合教育研究棟33番講義室にて国際シンポジウム「記号 AND 認知」が開催された。

 マリオ・ヴェルディッキオ先生は「言語の基礎:意味論、記号、と記号接地」と題し、記号接地問題と、それが言語、人工知能、哲学における意味理解に及ぼす影響を探求した。分析哲学、記号論、認知神経科学、AIの伝統を受け継ぎながら、記号がいかにして単なる形式的構造ではなく意味論的内容を持つようになるのかを検討した。議論の中心となるのは、ジョン・サールの「中国語の部屋」の思考実験であり、これは統語論的な記号操作と真の意味論的理解との区別を示すものであった。批判者たちは、この実験が完全なルールブックという非現実的な仮定に依拠していると主張するが、この反論は最終的にサールの主張を補強することになる。すなわち、自然言語は有限のルールに基づく体系によってシステム化することができず、意味の計算モデルには限界があることを示唆している。続いて生成AIを取り上げ、その柔軟性と見かけ上の創造性にもかかわらず、それは物理的にも機能的にも従来のソフトウェアと連続しており、数値的・論理的操作に基づいているに過ぎないことを指摘した。曖昧性(「山」という概念)や論理的推論(モーダスポネンス)といった例を通じて、意味が完全な形式化に抵抗することを論じた。その結果、AIは意味の基盤を説明するには適しておらず、この問題は哲学的・認知的アプローチの方が有効である可能性が示唆された。

 アブドゥルラッハマン・ギュルベヤズ先生は「言語的記号アーセナルの定量化:言語レパートリーの理論的基礎づけに向けたモデル」と題し、個人の言語レパートリーを測定可能とする記号中心モデルを紹介した。生涯にわたる脳の可塑性を前提とし、日常的な「ランゲージング(言語使用)」を、高密度な環境入力として捉えることで、認知予備力の形成に寄与しうるものと位置づけた。この点は、認知加齢、認知機能低下、さらには認知症との関連においても重要である。
 本アプローチは、特定の「言語」を数える代わりに、運用可能な言語的記号に焦点を当てる。「言語」は主に制度的なラベルと見なされる一方、レパートリーは脳-環境インターフェースにおける内的に構造化された単一の記号インベントリとしてモデル化さる。「ドイツ語」や「トルコ語」といったラベルは、データ収集のための実用的な指標としてのみ用いられる。
 完全なインベントリの作成は不可能であるため、レパートリーはモデリング、特に価数(概念を表現できる形式的変異の数)を通じて定量化され、価数分布プロファイルが生成される。抽出手続きでは20の核となる名詞と5段階の習熟度尺度を用い、単純な計数ではなくレパートリーの構造を捉える連続的な言語レパートリー指数(lr)を算出する。
 全体として、この枠組みは理論と測定を結びつける。また、日常的な言語実践とその基盤となる記号目録を強化することで認知機能低下の緩衝を目的とした、言語ベースの予防・介入を支援することを論する

 中村靖子先生と鄭弯弯先生の発表「書き取りシステムの変容ー言語と機器の〈共進化〉ー」(題目変更)では、書き取りシステムの変容を「言語と機器の共進化」という観点から理論的に再定位した。ブルデューのハビトゥス概念を手がかりに、社会的構造が身体化された実践として安定化される過程を確認し、フリードリヒ・キトラー『書き取りシステム1800・1900』を参照しつつ、教育的書記体制から技術的・機械的記録体制への転換を論じた。1800年システムは読み書き能力を社会的成功の条件としたが、その規範から逸脱する主体を包摂しなかった。過渡期に位置するシュレーバー父子の事例は、「美」に向けた身体矯正と装置が主体形成に介入する具体例である。こうした教育的矯正が思想の内部構造にいかに刻印されるのかを検証するため、BERTopicによるフロイト著作コーパス分析を行い、語彙的クラスタの時期的偏在と思想内部の断層を可視化した。さらにスローターダイクの人間技法論をダマシオのホメオスタシス論に接続することで、書き取りシステムを人間の自己形成的修練の装置として捉え直すと同時に、その修練が機器の開発とともに共進化し、社会的に安定化された身体化の構造として新たなハビトゥスを形成しながらも、つねに何かをこぼれ落とす動態であることを示した。

 大平英樹先生は「予測的処理に基づく主観的経験の創発」をテーマに発表した。近年の認知神経科学において優勢な予測的処理の理論では、脳は受動的な器官ではなく、外界や自己自身からの信号を予測し、実際の信号との予測誤差を最小化することによって能動的に経験を創り上げていると説明した。この主張は、知覚や運動の領域では多くの実証的証拠が提示されており、近年では、身体内部の感覚である内受容感覚も同様な原理により機能していることが示唆されている。この考え方が正しければ脳内には常に多くの予測誤差が生じていることになる。脳は、全ての領域の予測誤差を階層的な構造と精度の重みづけを柔軟に変更することにより、整合的で連続的な経験を創発し維持していると考えられる。さらに、こうした個人内の予測的処理は、集合的予測符号化により言語のような記号を介して複数他者の間で共有され、維持され、かつダイナミックに変容されていく。こうした原理を想定することで人間や社会の姿を統一的に説明できる可能性があり、この原理をより精緻に検討する必要性が指摘された。

 上野大介先生は、「認知予備能を規定する要因の統合的整理」と題した講演において、認知的加齢における認知予備能の規定因子を整理する統合的枠組みを提示するとともに、多言語使用および大規模言語モデル(LLMs)という二つの新たな観点を加えた。近年の予備力概念の整理を踏まえ、本枠組みでは、脳予備能力(構造的容量)、認知予備能(効率性・代償・柔軟性による適応的処理)、および脳メンテナンス(神経生物学的変化の遅延または軽減)を区別するとともに、予備力を病理と臨床症状との関連を弱める調整因子として位置づけている。
 続いて、教育、職業の複雑性、認知的・社会的に刺激的な活動、身体活動といった一般的に用いられる代理指標について概観し、交絡や逆因果の可能性により、これらの代理指標は因果的メカニズムと同一ではないことを強調した。これに対処するため、「要因」からメカニズムへの変換段階(例:教育→語彙/抽象化/学習習慣→より効率的かつ代償的な処理)を提案し、各決定要因を主として脳予備力、脳メンテナンス、認知予備能のいずれに寄与するかに基づいて分類した。
 次に、多言語使用が認知予備能に寄与しうる要因として検討された。多言語経験は言語制御(抑制/切り替え)や意味処理を強化する可能性がある一方で、その効果に関するエビデンスは一貫しておらず、習熟度、使用頻度、言語間距離、コードスイッチングといった境界条件に強く依存しているとともに、移住や社会経済的地位などの交絡要因の影響も受けている可能性が指摘された。
 最後に、LLMが認知的刺激(複雑性の増大)、社会的つながりの支援、日常機能に対する代償の提供という三つの仮定された経路を通じて認知予備力に寄与しうるかが検討された。その効果はいずれも、過度の信頼、依存、誤情報の回避を条件とするものであり、今後は高齢者における較正された信頼(calibrated trust)の設計および測定、特に対面、遠隔、チャットボット媒介の各文脈において検討を進める必要があると論じられた。本発表は、LLMを用いた介入が主として刺激として機能するのか、あるいは代償として機能するのか、較正された信頼をどのように操作的に定義すべきか、さらに多言語経験がLLM利用の影響を調整するかといった論点に関する討議をもって締めくくられた。

 山本哲也先生は「生成AI・拡張表現がもたらす「記号」と「認知」の再編ーデジタル身体表現とウェルビーイング」と題して講演を行い、生成AIやAR/VR、ロボットなどの拡張表現技術が、「記号」と「認知」の関係をいかに再編しうるかについて、デジタル身体表現とウェルビーイングの観点から検討した。ここでいう記号とは、言語に限定されるものではなく、身体動作、声、光、人工物が帯びる他者性など、受け手の注意・情動・解釈を方向づける知覚可能な手がかりを指す。生成AIや拡張現実技術は、記号を固定的な意味伝達の媒体から、相互作用性・身体性・連続性を通じて認知状態を動かす「調整の手がかり」へと変容させる可能性を有していると論議事録
 主な実践例として、プロジェクションマッピングやAR技術を用いた身体拡張的演出が、高い没入感と情動喚起をもたらすことを示した。さらに、生成AIとの継続的対話が抑うつの軽減や自尊心の向上と関連する可能性を示すデータを提示し、情緒的結びつきの形成についても検討した。
 以上の知見を踏まえ、拡張された記号が身体を介して認知状態を動かし、新たな心理的支援や研究方法を創出する可能性を論じるとともに、安全性・倫理的課題についても展望した。

小澤寛樹先生は、「東西精神療法の邂逅:内観療法と意味の再構成」と題し、アルコール依存症の症例経験を背景として、内観療法を「意味の重み付け(salience/attention)の再配分を通じて自己物語を更新する介入」と位置づけ、そのメカニズムを東西心理療法の架橋として論じた。内観療法は、特定他者に対して①してもらったこと②して返したこと③迷惑をかけたこと、という限定された問いを、解釈を加えず反復想起させることで、曖昧な自己理解を“構造化された内省課題”へ変換する。神経認知モデルとしては、過去参照を担うDMN、認知制御のCEN、両者の切替を担うSNの相互作用に注目し、内受容感覚・情動反応を伴う「気づき」が、SNを介したネットワーク再編と、予測処理における精度(precision)・注意配分の更新として生じうることを提案する。さらに、統合失調症などでサリエンス過活動が想定される状況では、意味の“筒抜け化”が増悪因子となりうるため、適応判断と保護的環境下での実施が重要である。以上より、内観療法は東洋的修練の形式を保ちつつ、注意・精度・物語更新という普遍的プロセスとして再記述可能であり、CBTやマインドフルネスと補完的に統合されうる枠組みを示した。

葉柳和則先生は「労働力と人間のあいだ:マックス・フリッシュの講演「よそもの過剰 II」における記号の二重性をめぐって」というタイトルで講演を行った。フリッシュの言葉で最もよく知られているのは、散文「よそもの過剰(Überfremdung)I」の冒頭に含まれる「私たちは労働力を呼び寄せたのだが、やって来たのは人間だ」である。だが、同じ文の前半には、「ある小さな国の支配民族(Herrenvolk)が危機に陥ったことに気づく」と書かれている。この前半部を含む文全体が、移民研究の言説において引用される例は見当たらない。本報告は、フリッシュがスイス市民を指し示すために、Herrenvolkという記号を用いた理由を、記号Überfremdungのコノテーションの変化をたどることで明らかにした。Herrenvolk はナチスの語彙であり、その文脈では、アーリア人以外のfremd(異質)な諸集団がKnecht(奴隷)と位置づけられ、ユダヤ人はその最下層に置かれた。だが戦後のドイツ語圏では、fremdな存在は主として「外国人労働者」を指す語となっていく。つまり、フリッシュが「よそもの過剰」論においてHerrenvolkをあえて用いたのは、スイス市民がナチスと共有していた「よそもの排除」のメンタリティを、Überfremdungのコノテーションが、ユダヤ人の過剰から外国人労働者の過剰へと推移する歴史的重層性のうちに捉え返そうとしたからである、と論じた。

【シンポジウム 参加者リスト(発表順)】
– Mario Verdicchio, University of Bergamo
– Abdurrahman GÜLBEYAZ, Nagasaki University
– Yasuko NAKAMURA, Nagoya University
– Wanwan ZHENG, Nagoya University
– Hideki Ohira, Nagoya University
– Daisuke UENO, Kyoto Women’s University
– Tetsuya YAMAMOTO, Tokushima University
– Hiroki OZAWA, Nagasaki University
– Kazunori HAYANAGI, Nagasaki University


2025.12.21 理論班第7回会議

中村靖子先生は、ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu, 1930-2002)のハビトゥス概念を理解する上で、人間の精神活動における言語の役割に着目し、この観点からメディア技術の変容が人間の精神に与えた影響について分析し報告した。フリードリヒ・キトラー(Friedrich Kittler, 1943-2011)によれば、1900年の、タイプライターや蓄音機などのメディアを用いた書き取りシステムは、訓練を通じた文字の身体化というフィードバック回路を断ち切り、書き取られたものと身体との間の統合を不可能にしたという。このようなキトラーのメディア論を軸に、ペーター・スローターダイク(Peter Sloterdijk, 1947-)の「人間技法(Anthropotechniken)」(人間を人間たらしめる修練)の概念、および、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)とルー・ザロメ(Lou  Salomé, 1861-1937)の書簡における、未分化な思考や経験と、分析によるその構造化とのせめぎ合いに関する議論について紹介し、統合的な人間の人格がどのようにして形成されるのかを論じた。

 鈴木麗璽先生は、大規模言語モデル(LLM)を用いた言葉の進化生態モデルに、エージェントによる環境改変の概念を導入する試みについて現在までの研究成果と課題を報告した。従来のLLMを用いた言語の進化生態モデルが、エージェント間での競合のみを扱っていたのに対し、今回紹介されたモデルでは、適応地形(環境に対する生物の適応度の高さの分布)の概念が導入された。このモデルでは、エージェントが自らの生存環境に情報を書き込んでいく。それにより、次世代の適応度にフィードバックされる動的な相互作用が構築される。このような環境改変の導入は、一時的には種の多様性の維持に貢献するが、最終的には正のフィードバックにより強い収束傾向が生じることが明らかになった。この結果を踏まえ今後は、特定の種による独占と停滞を回避し、種が次々と入れ替わりながら多様性を維持し続ける「オープンエンドな進化」のモデル化を目指すという構想が示された。

 大平健太先生は、非自励系遅れ微分方程式の厳密解の導出に関するこれまでの研究成果について報告した。この研究では、時間係数を含む遅れ微分方程式にフーリエ変換および逆変換を施すことで、無限積分の形で一般解を導出した。さらに解の形を予想して代入することで、積分形式よりも性質が把握しやすいガウシアンの無限級数形式による厳密解を得ることに成功した。今後は、本手法をより一般的な遅れ微分方程式へ適用していくことが課題である。また大平徹先生の研究成果として、サウジアラビアKAUSTからの招待講演(10/24-11/3)や、長崎大学グローバルリスク研究センター客員としての国際シンポジウム「リスクと国際社会」(12/9)での報告などを始めとする国内外での研究発表の内容を紹介しつつ、数理生物学、量子力学、リスク研究など、多角的な研究展開の成果と構想について説明した(報告は大平健太先生の代理による)。

 ⾦信⾏先生は、ミシェル・カロン(Michel Callon, 1945-2025)の議論に端を発する、経済社会学におけるアクターネットワーク理論(ANT)の展開について報告した。特に遂行性(経済事象の分析において経済学的知識や計算装置が経済事象を構成する作⽤)と、経済化(社会科学者や市場アクターが、社会的な事象を経済的なものとして枠付け、記述するプロセス)という二つの概念を軸として、市場を人間と非人間のアクターが複雑に絡み合う「社会技術的な配置(アジャンスマン)」として捉える視座を提示した。このような観点から、現代における具体例として、暗号資産やNFTの事例を通じ、開発者の理想的な想定とユーザーによる現実的な投資実践との乖離が具体的に論じられた。今後の展開としては、ブロックチェーンの社会実装において、理想(非中央集権)と現実(権力の偏り)の乖離をANTの枠組みを用いて調査・分析し、その結果を開発現場へフィードバックすることで、現場と協働する介入的実践につなげていくという構想を示した。

 平田周先生は、まず、都市の領域を地理的な境界線によって限定せず、遠隔地の資源開発や物流網、さらにはそれらに付随して起こる環境破壊までもが、都市を存続させるための不可欠なプロセスとして地球全体に広がっている状態を指す「プラネタリー・アーバニゼーション」というニール・ブレナー(Neil Brenner, 1969)の概念を紹介した。これに関連して、生態学者リチャード・レヴィンスの知見を用い、資本主義的な開発が感染症の発生をもたらす生態学的・社会的メカニズムを論じた。加えて、発表者が翻訳に携わったアシル・ンベンベ(Achille Mbembe, 1957-)の著書『地球共同体』(2023)をもとに、従来のポスト植民地論の限界(差異の強調による分断)を乗り越え、人間とノン・ヒューマン(生物・非生物)が共に生きる「共通の世界」をいかに創造するかを説いたンベンベの思想を紹介した。最後にこうしたブレナー、レヴィンス、ンベンベらの議論を交差させつつ、ラトゥールのANTを一つの重要な軸として、地球規模の連帯の可能性について考察を進めていくという構想が示された。

 質疑応答では、アクターネットワーク理論が示すアクター間の相互作用の多層性を、言語進化モデルの環境のパラメーターの多元性によってシミュレートする試みなど、アクターネットワーク理論を軸として各分野を横断する共同研究の構想について議論がなされた。大平英樹先生は、大平健太氏の非自励系遅れ微分方程式を、システム間での信号伝達の遅れを伴う内受容感覚のモデル化に応用する試みについて研究成果を共有した。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士後期課程1年  葉柳朝佳音)

2025.08.26-27 第7回全体集会

2025.8.26-27 2025年度全体研究集会(夏)

2022年11月1日に人文知共創センターが設立され、今年で4年目を迎えます。日本学術振興会に採択された当プロジェクトは多くの活動実績が認められ、2024年度の中間評価では高評価をいただきました。その実績をまとめたパンフレットを公開いたしましたので、ぜひご覧ください。

人文知共創センター2024年度パンフレット

 本研究集会では、特別講演のゲストとして、島根県立大学の村井重樹先生、神奈川工科大学の小田切祐詞先生にお越しいただきました。当センター第1班、北陸大学の金信行先生のお声がけにより実現し、それぞれ、「セッション2:ハビトゥスの社会的基盤とその社会学的応用可能性―ポスト・ブルデュー社会学を見据えて」、「セッション4:プラグマティック社会学と構築主義」のテーマでご講演いただきました。さらに、第1班、大平英樹先生の繋がりにより、フィレンツェ大学からEmanuele Castano先生に駆けつけていただき、「セッション3:Beyond Genes and Parents: The Effects of Cultural Products on Human Psychology」のテーマでご講演いただきました。プロジェクトの成果が、メンバーの繋がりによって支えられていることを象徴するようなプログラム構成となりました。

以下は一部とはなりますが、Castano先生のご講演について報告します。

●Emanuele Castano先生 「Beyond Genes and Parents: The Effects of Cultural Products on Human Psychology」

「相手はいったい、何を考えているんだろう?」

 言葉、表情、仕草、それまでの文脈など、あらゆる情報を頼りに私たちは意思疎通を図り、コミュニケーションを行います。集団生活を営むために必要不可欠な能力ですが、いろんな経験を積みながら私たちは少しずつ身に着けていきます。それでは具体的に、いったい何に影響を受けながら私たちは能力を発達させているのでしょうか。

“Fiction is a gym for social cognition”

 Castano先生が取り組むこの研究アイデアは、この問いに一つのヒントを与えてくれるかもしれません。「Fiction」にも様々なものがありますが、その一つとして小説が挙げられます。さらに、小説を文学小説と大衆小説に分けましょう。実証研究において、文学小説をよく読む人と、大衆小説をよく読む人では、「Reading the Mind in the Eyes Test」をはじめとするいくつかの検証を通して、前者の方が他者の心的状態を推測する能力が高いという結果が出ました。文学小説では、大衆小説に比べて登場人物同士の複雑な関係性や、それぞれの心理描写を細かく描く傾向があります。確かに読みごたえがあり、手に取るハードルは高いかもしれませんが、他者心理の推測能力を鍛える“gym”となっているのかもしれません。

 ここで注意が必要なのは、この研究が文学小説と大衆小説の優劣を決めるものではないということです。大衆小説も、既知の表現や定型的な物語構造を通して共感や安心感を生み出す効果があり、大切な文学の一つであることも強調されました。

(文責・綾塚達郎)

2025.08.26-27 第7回全体集会:セッション4

講演:小田切祐詞(神奈川工科大学)

小田切祐詞先生の講演「プラグマティック社会学と構築主義」では、ブルデューの社会学との分岐を手がかりに、ポスト・ブルデューの論客であるリュック・ボルタンスキー(Luc Boltanski, 1940-)のプラグマティック社会学と構築主義の関係が論じられた。ブルデューの理論は、行為者を社会構造の隠れた諸力によって規定される存在として描き出し、その背後の力を暴露することに力点を置く。それに対し、ボルタンスキーのプラグマティック社会学は、行為者を行為そのものから定義し、当事者の実践的関与を重視する点に特徴がある。

 ボルタンスキーの著作『胎児の条件』(2004)では、胎児が、妊娠によって女性の身体の中に生じる物質的な存在、すなわち「肉として」生まれるだけでなく、かけがえのない存在として「言葉によって」承認されることによって、初めて社会の中で固有の地位を持った人間となることが示される。胎児は、出産あるいは中絶へと至るプロセスにおいて、「赤ちゃん」として人称化されたり、「それ」という指示代名詞で示されることで非人称化されたりする場合がある。しかし、胎児が妊婦に与える身体的な感覚は、胎児が「赤ちゃん」として構築される場合にも「それ」と呼ばれる場合にも、「基本的に同じもの」として感受される。このような、恣意的なカテゴリー分けに従わない身体的触発は、胎児を差別する以外の仕方で中絶を正統化することを妊婦に要請する。道徳哲学による中絶の正当化には、胎児と人を区別する実在論的アプローチや、妊婦の胎児に対する道徳的義務を否定する関係論的アプローチ、「出産」や「人」の表象が「社会的に構築されたもの」であることを示そうとする脱構築主義的アプローチなどがある。それに対しボルタンスキーは、ケアの倫理と現象学の視点から、中絶の正当化をめぐる議論においてしばしば忘れられてきた、胎児と両義的な関係を取り結ぶ女性の経験から出発すべきだと主張する。

 ボルタンスキーと並び、プラグマティック社会学の発展に寄与した社会学者シリル・ルミュー(Cyril Lemieux, 1957–)は、構築主義を「反自然主義」とみなす難しさや、自然主義を排した社会学が陥る限界を指摘したうえで、プラグマティック社会学の特徴の一つを、恣意的なカテゴリー分けによって無化することのできない世界の物質性が示す「抵抗」を重視する点に見た。プラグマティック社会学は、単なる構築主義でも、一切のカテゴリー分けを否定する自然主義(素朴実在論)への回帰でもなく、構築主義の論理を限界まで押し進め、その限界にある物質性の問題を「抵抗の原理」として理論的に取り上げようとする「反省的構築主義」である。恣意的なカテゴリー分けに抵抗する契機を女性の身体経験の中に見て取った『胎児の条件』は、「反省的構築主義」の一つの実践として理解することができる。

質疑応答(コメンテーター:平田周先生、田村哲樹先生)

 平田先生は、フランスにおける中絶をめぐる歴史的文脈(1975年の合法化など)をまとめた上で、ボルタンスキーの議論(特に『胎児の条件』)がフランスのフェミニストに理論的・政治的に与えた影響について質問した。さらに、本プロジェクトのメインテーマである、ラトゥールのアクターネットワーク理論とブルデューのハビトゥス概念の接続という観点から、ボルタンスキーのプラグマティック社会学をどう位置付けるべきかという問題を提起した。

 この問題に関して小田切先生は、ボルタンスキーの議論はフェミニスト理論にさまざまな形で受容されたが、特にプロライフ(生命の保護を主張し、人工妊娠中絶や安楽死に反対する立場)の本として誤読されることが少なくなかったと説明した。ボルタンスキー自身は、この本は中絶そのものの賛否を論じるのではなく、社会学の中立性を維持しつつ、沈黙させられてきた妊婦自身の経験を可視化することに重点を置いていると主張している。

 ラトゥール、ブルデューとの関連については、小田切先生によれば、ボルタンスキーは、ブルデュー社会学が「すでにつくられた社会的世界」から出発する傾向がある一方、自身とラトゥールを含むプラグマティック社会学が「今つくられている社会的世界」から出発する傾向がある点に両者の違いがあると考えている。さらに、小田切先生は、両者の対立を調停する一つの道筋として、ボルタンスキーが『批判について』(2009)の中で展開した制度論を紹介された。一方で、ボルタンスキーは、ラトゥールのスポークスマン概念を用いて、制度が人々の実践を通じて可視化される過程を重視した。このとき、制度は「今つくられている」ものとして現れる。他方、ボルタンスキーは制度を「身体なき存在」と捉え、個々の身体が捉える個別の視点を超えた、上位の調整機能を果たすもの――いわば「すでにつくれらたもの」――としても扱う。ただしそのような制度は身体を持たないために、実社会において機能する際にはスポークスマンを必要とする。そのスポークスマンが真に制度を代表しているかどうかは常に不確定である。小田切先生は、この不安定さを起点とし、制度を「今つくられている」ものにも「すでにつくられた」ものにも還元しない点に、ボルタンスキー社会学の特徴があると論じた。

 田村先生は、ボルタンスキーやルミューの議論における「抵抗」という概念の位置づけについて疑問を投げかけた。特に、なぜ身体やモノの示す「ままならなさ」を「抵抗」と呼ぶのか、単なる「制約」や「限界」とは何が違うのか、またそれが社会像や民主主義の理解にどのように関わるのかという問題を提起した。さらに『胎児の条件』が妊婦の経験に焦点を当てている点について、個人の体験を社会学的議論の基盤に据えることの妥当性について疑問を投げかけた。

 第一の問題に対して小田切先生は、ボルタンスキーが『批判について』(2009)における「現実」と「世界」の区別を土台としつつ、「現実」の外部にあり、「現実」を形作るフォーマットでは言語化されにくい「世界」の経験を、「現実の社会的構築」への「抵抗」として捉えている点を補足した。「抵抗」とは単なる外的制約ではなく、社会的に構築された現実を揺さぶる契機であり、その言語化こそが社会学の役割であると説明した。

 第二の質問に対して小田切先生は、『胎児の条件』が妊婦の経験に注目したのは、中絶の合法化以降もなおほとんど語られてこなかった妊婦の経験をとり上げることで、社会的に沈黙させられてきた領域を可視化するためであると述べた。加えて、個人の経験への注目は社会学の矮小化ではなく、不可視化された社会的現実を描き出す試みであると強調した。

 全体討論

 マリー・ボーヴィウ先生は、『胎児の条件』において中絶される胎児に対して用いられる「殺人」という言葉遣いに、すでに倫理的な価値判断が内在していることや、調査対象の女性が、将来母になる可能性のある人に偏っている点を指摘した。このような観点から、この本においてボルタンスキーは女性を「母なる存在」としてのみ捉えているのではないかという疑問を投げかけた。これに対し小田切先生は、ボルタンスキーの議論は胎児を「人」と「モノ」の間を揺れ動く存在として捉えており、殺人という語は、類型化のされ方によって変化する中絶の解釈のひとつとして用いられたにすぎないと説明した。

 同じく妊婦と胎児の関係を規定する言葉遣いという観点から、中村靖子先生は、『胎児の条件』は胎児を「できもの」として語ることによって女性の身体的負担を描き出す一方で、「人間の条件」になぞらえて中絶を語ることによって再び女性が追い詰められることになるのではないか、と指摘した。それに対し小田切先生は、ボルタンスキーの言葉選び自体に緊張や曖昧さが含まれており、読解に際してもその都度の言葉選びから、物質的な存在としての胎児と社会的に承認された人間としての胎児という両義性を汲み取る必要があると説明した。

 セッション3の講演者である村井重樹先生は、ハビトゥス論とも関連づけてボルタンスキーの議論における身体化された過去(過去の経験の蓄積)の位置付けという問題を提起した。これに対して小田切先生は、ボルタンスキーのプラグマティック社会学が、行為者をあくまでも現在の行為において規定するという現在主義的な側面を持つ一方で、それによって、単なる構築主義的な視点からは見えない個別の経験を拾い上げる役割を持つことを強調した。金信行先生はアクターネットワーク理論おいては過去もまた現在的なアクターとして捉えられることなどを補足した。こうした観点から、本プロジェクトの柱となるハビトゥス論、アクターネットワーク理論と、プラグマティック社会学の接続について議論が交わされた。

(文責:大阪大学人文学研究科博士後期課程 葉柳朝佳音)

2025.08.26-27 第7回全体集会:セッション3

講演:Emanuele Castano(フィレンツェ大学)

Emanuele Castano先生(フィレンツェ大学)のご講演「Beyond Genes and Parents: The Effects of Cultural Products on Human Psychology」では、人間の心が形成される過程において、遺伝や養育環境に加え、文化的産物が果たす役割に焦点が当てられた。文化的産物は「何を考えるか」だけでなく「どのように考えるか」に影響を及ぼす点が強調され、とりわけ文学的フィクション(literary fiction)と大衆的フィクション(popular fiction)の比較を通して、その効果の相違が実証的に論じられた。

 背景としては、人間の社会的認知、すなわち他者の感情や思考を理解し、社会的世界を解釈する能力は、社会生活や文化的共同体の維持に不可欠である。Castano先生は、文化的産物をConfirming(確認的)とChallenging(挑戦的)に区別できるとし、特に文学的フィクションが「挑戦的」な性格を持ち、社会的認知を促進する可能性に注目した。一方、大衆的フィクションは「確認的」な性格を有し、読者に安心感を提供する役割を果たすと仮定した。

 実験的研究では、「著者認知テスト(Author Recognition Test)」や社会的認知は「Reading the Mind in the Eyes Test」をはじめとする複数の課題によって、被験者を無作為に文学的フィクション、大衆的フィクション、ノンフィクションなどの読書群に割り当て、比較評価を行った。研究の結果、文学的フィクションを読む被験者は社会的認知、とりわけ他者の心的状態を推測する能力(Theory of Mind)において有意に高い得点を示した。一方、大衆的フィクションには同様の効果は認められず、その主な役割は娯楽性や安心感の提供にあることが示唆された。さらに、複数文化圏での調査結果は、この傾向が普遍的であることを裏づけた。

 考察では、文学的フィクションが読者に「想像力」を喚起し、物語の空白を補わせることで複雑な他者理解を促す点を強調した。これにより、読者は単なる感情移入を超えて多様な視点を獲得し、複雑な社会的状況を理解する能力を発達させる。一方、大衆的フィクションは既知の表現や定型的な物語構造を通して共感や安心感を生み出すが、社会的認知を高度化する効果は限定的であると論じられた。

 本講演は、文学的フィクションと大衆的フィクションの比較を通して、文化的産物が人間の心に異なる影響を及ぼすことを明らかにした。文学的フィクションは挑戦的な性質をもち、他者理解や複雑な社会的認知を涵養する機能を有する。一方で、大衆的フィクションは確認的な性質をもち、安心感や娯楽を通じて共同体の心理的安定に寄与する。両者は対立するのではなく、それぞれ固有の役割を担いながら人間社会の心理的基盤を形成していると結論づけられた。

(文責:名古屋大学人文学研究科附属人文知共創センター 鄭弯弯)

中村先生 質問

二つの視点から質問したいと思います。

①例えば、グリム童話の初版には、「彼はこうした。彼女はこうした」などの描写が見られ、専ら行動が描かれ、行動の裏にある思考についての描写は見当たりませんでした。これに対して数十年後に出版された第七版では、「彼はこの時こう考えた、だから…をした」といったように、ただ行動が示されるだけではなく、思考や心理的描写もどんどん加筆されています。それは歴史的に見て、人の行為を説明するようになる傾向は、特に18世紀末から19世紀初期にかけてよく見られます。このような“showing”から“telling”への変化について、歴史的な観点からどのようにお考えでしょうか。

Castano:かなり鋭くて深い質問ですね。グリム童話にこのような変化があったことは知りませんでしたので、この作品の変化についてあまり言えることがありません。ただこの質問から、1990年代に行われた、発達心理学の視点から読み物が子供に与える効果を検討するある実験が連想できると思います。

その実験では、2ヶ月以上の時間をかけて、10冊の絵本を小学生に読ませます。その内半分の被験者には思考や感情などの心理状態を表す単語を残したままの本を読ませ、もう半分の被験者にはそういった単語が削除された本を読ませます。例えば狐とニワトリの本の中に、近づいている狐に気づくことができない、うろうろしているニワトリが描かれています。オリジナルの絵本には、ニワトリが「振り返り、…と思った」などの表現があります。しかし調整後のバージョンには、「思う」などの心理状態を表す単語が消されています。

子供に頻繁に感情を表す単語を話す親がいる場合、その子供がより早くそういった単語を習得できることがすでに証明済みになっています。だから実験を行った研究者は、読む行為が子供(五歳ぐらいだと思います)の心理状態を表す語彙の習得にどのように影響するのかを観察したかったのです。そこで興味深いことに、オリジナルの絵本を読んだグループの子供に関しては、感情を表す単語の意味を識別する能力が上達したことが確認された一方で、心理状態を述べる単語のない本を読むグループの子供の方が、思考力/問題解決力を考察するテストでより良い成績を収めました。

五六歳の子供が読む絵本にとって、純文学と流行文学の区別は無意味だと思います。しかし、感情を表す語彙のような一部の要素に関しては共通しているとも言えます。かなり幼い子供の場合、そういった語彙を明示しないといけません。インプットがないと、子供はそもそもそれらの単語を習得できませんし、自身を表現することももちろんできません。しかしある段階に達すると、意識的にそれらの語彙を伏せて、子供に自分の判断で感情と対応する単語との関連性を認識してもらうことも大事です。なので、先ほどの実験に使われた、オリジナルと感情を表す語彙が伏せられるバージョンの両方が、0歳から8歳までの子供には必要だと考えています。

②純文学の作品は複雑な構造になっているだけでなく、(ご発表の中に紹介された図に示されたように)しばしばネガティブな感情が表されています。そのため読者が感じるストレスが上がる可能性が考えられます。だから7、8歳の子供はいわゆる文学作品を読みたがらないかもしれませんが、文学作品を読みたくなるには、個人の発達がそもそも必要なのではないでしょうか。

Castano:私が構想しているのは、子供に物語を聞かせる時に、一種の並行体系(parallel system)が重要です。最初の質問に答えた時も少し触れましたが、子供にとって、心理状態を直接表す単語が入っているフィクションと入っていないフィクションの両方を読む必要があります。前者は子供に単語自身の意味を習得してもらうためのものであり、後者は子供に単語と感情のつながりを能動的に識別してもらうためのものです。なので、まず精神的に発達してから文学作品を読み始めるか、それとも文学を読んでから発達するかについて、明確な答えは出せません。

大人は、感情を読み取る能力が既に備わっているので、純文学を読むことで訓練しなくてもその能力が失われることがありません(もちろん劣ることになりますが)。しかし子供に関して言うと、心理状態と感情を直接描かない文学作品は感情を読み取る能力を鍛えることは確かですが、それもまずそれらの感情を表す基本語彙を習得した後の話になります。個人的な子育ての経験も含めて言わせていただきますと、幼い子供に全く同じ物語を何度も読み聞かせてもよいが、子供が成長すると同じ物語を読み聞かせるとすぐ飽きてしまいます。三歳の子供を対象とした物語はいつも予測しやすいものです。この場にいる多くの先生方も、ご自身の経験を思い出していただければお分かりかと思います。三歳前後の子供に向かって、同じ話の中のいくつかの単語を変えるだけでも、すぐ不機嫌になりますね。「いや、そんな話じゃないよ」と。しかしある年齢を超えると、物語自身の展開が平坦だったり、予測しやすかったりすると、子供はすぐ興味を示さなくなります。言い換えれば、物語に解釈の余地、あるいは自由度を求めるようになります。もちろん、それまで築かれてきた観念を再確認できるという点から言うと、予測しやすい物語への需要が消えたわけではありませんが、自由度への需要が芽生えたのは、当然のことです。

大人についても、純文学しか読まない人と、流行文学しか読まない人がいますね。この違いは、作品に確かさを求めるか、それとも不確かさを求めるかの違いとも言えます。大多数の大人は、心理状態を表す語彙を習得しています。そして大人は文字の力を借りなくても、感情を読み取り、その種類を判断する練習をすることができます。例えば今日の講演会でも、私のこの能力は鍛えられていました。皆さんの表情を見て、自分の説明が明確なのかどうかを把握しておかないといけませんから。なので文学や映画などは、決して感情を識別する能力を鍛える唯一の方法ではありません。しかし子供にとって、不正解によるフィードバックを受けずに、この能力を身につけることができる機会は、確かに文字を読むこと、特に守られた環境の中で展開される童話を読むことです。恐怖や悲しみを感じても、それはフィクションの世界の出来事であり、現実世界への影響がありません。

なので、心理状態を表す語彙の習得と心理状態を識別する/自分自身の心理状態を説明することとは、ある意味矛盾しているとも言えます。ジムに行くことで例えますと、ずっと基礎練習をしていても筋肉がつきませんが、いきなり基礎練習を飛ばして高度なトレーニングを行うことも不可能です。最初に戻りますが、並行体系の構築は、子供に文学を読ませるときに心がけるべきことだと私は主張します。

ボーヴィウ先生 質問

①文学作品の読者の認知能力(cognitive capability)に対する影響に関して、作品が実話なのか実話ではないフィクションなのかという違いは、影響そのものへの関連性はあるのでしょうか。

Castano:私の関心するところでは、その関連性はないと考えています。今回の発表では純文学と流行文学の違いを重要視したのは、作品の言語学的な構成、そして単語の違いとその影響を論じたいためです。作品自体が実話であるかどうかはこれらの要素に影響しません。しかしもし作品の構造や書き方によって、実話であるかどうかという問題に対して読者の内部で異なる判断が下された場合、作品のどの部分がこのような判断の違いを生み出したのかについて検証する必要があります。

②ご講演の中には、「予測不可能性」(unpredictability)が純文学と流行文学を区別する際に重要な指標の一つであるとおっしゃいました。では例えば外国の流行文学を読むときに、その国の人にとってすぐ予測できるかもしれませんが、外国人の読者には文化的な背景の相違がありますので、先が読めないと感じることもあります。そうなりますと、予測不可能性は有効な判断基準と言えますでしょうか。

Castano:いまおっしゃった内容を言い換えますと、それぞれの文化に属する人にとって、いくつかの、その文化特有の物語のモデルが存在します。他の文化に根付いたモデル(と言っても部分的な違いしかないと思いますが)に沿って作られた物語を読むと予測が効かなくなります。ならば私にとってまず、二つのモデルのどこが異なっているかを知る必要があります。例えば私が研究で協力者にフィクションを読ませますが、感情能力を測定する前に、登場人物についての評価をまず聞きます。この問題を検討する実験を行うとすると、例えば日本人作家による純文学作品の登場人物を予測しにくいと、日本人以外(例えばフランス人)の協力者が回答する場合、日本人の読者にとって同じ回答が得られるかどうかについて別途データを集めます。同じ人物が日本人にとって予測しやすいかもしれませんが、それはあくまで私たちに、「純文学」と「流行文学」がただのラベルであることを示すまでです。普遍的な一面もあれば、文化による例外の存在も当然認めなければいけません。

③詩の中の一人称「私」は、特定の社会や環境の中の個人ではなく、より普遍的な「私」になります。なので、詩を読むことも、感情を識別する能力の鍛錬になりますでしょうか。もし鍛錬になれる場合、純文学と流行文学との間のような効果の違いは認められるのでしょうか。

Castano:以前日本人学者が執筆した論文を査読したことがありまして、俳句と、複雑で仮面を使った、感情が誇張された形で表現される能に関する研究でした。詩はより短いし、より表現的な形式であり、不安と不確かさをより醸し出すことができます。なので、純文学に近い効果があるとも言えます。しかし一首の詩を読む時間があまりにも短いので、どれぐらい読んだら感情を識別する、もしくは表現する能力に影響するのかがまだよく把握できません。そして一部の構造上・用語上明らかに流行文学に分類されるべき詩も存在しています。いずれにしても、実験で詩を扱うにはまだ難しい部分が残っていると思います。

(文責:京都大学大学院人間・環境学研究科 共生人間学専攻 肖 軼群)

2025.08.26-27 第7回全体集会:セッション2

講演:村井重樹(島根県立大学)

セッション2では、村井先生より「ハビトゥスの社会的基盤とその社会学的応用可能性――ポスト・ブルデュー社会学を見据えて――」と題するご講演をいただきました。

 村井先生は、まずブルデューのハビトゥス概念及びハビトゥスを生み出す社会的基盤の分析に関する説明の後、ブルデューの社会学理論が受けた理論的な批判と、経験的研究を通じた批判を提示されました。そして、それらの批判を踏まえ、ライールの提示したハビトゥス論、すなわち、人々のハビトゥスが一貫性を持つか否かはそれを形成する社会的条件に依存しており、矛盾をはらむ社会的条件にさらされれば複数的・多元的なものとなる、とする論について説明されました。村井先生は、ポスト・ブルデュー社会学の課題は、ブルデュー時代から更なる細分化を遂げた社会がどのようにハビトゥス形成に関係しているのか、という問いに答えることであると述べられました。さらに、現代社会でハビトゥスの複数性と社会的文脈がどのように接続するかを問うとともに、細分化したものを認識した後、どのように統合・整理するか、ということも重要な課題であることを説明されました。

コメンテーター:金信行(北陸大)

 金先生は、ブルデュー社会学と村井先生が研究している食の社会学との関係や、ブルデューのハビトゥス論における資本量の測定基準、また性向と文脈について質問され、それらについて村井先生より具体的な説明がなされました。また、ライール研究の価値についての質問に対しては、新規要因の発見ではなく、現代社会を再調査し理論を再構築する実証的価値を強調されました。

コメンテーター:大平英樹(名大)

 大平先生は、個人・社会・個人と社会の間の三つの内、どこにハビトゥスが存在するのか、という問いを立て、神経科学的視点から、報酬系や、予測的符号化仮設における予測処理モデルを踏まえたハビトゥス理解の可能性を指摘されました。続いて、事前に予測した知覚と感覚信号の二つから、処理を終えた認識が発生し、感覚信号の精度が低い場合、事前予測の方に近い認識が発生するといった知覚のプロセスとハビトゥス論の類似性が論じられました。。村井先生は、ライールが人格の多元性について強調しつつも実証していなかった点に触れ、科学的検証がなされることで、仮定ではなく、承認可能な前提になりうると回答されました。

 質疑応答では、AIとの関係から、ハビトゥス概念における「身体化」という表現の必然性と、身体を持たないAIにハビトゥスが成立する可能性を論点として、LLMエージェントを用いたマシン・ハビトゥスの研究についての議論がなされました。また、複数的人間像の承認による理論化の困難さの問題、現代社会におけるSNS文化の影響力、ハイカルチャーの定義についての議論がありました。さらに、ライールの社会分析と、「分断化」との関係性、ブルデューのハビトゥス論とパノスキーの『ゴシック建築とスコラ学』との違いについてのコメントや、上流階級と庶民階級が互いの文化を体験しようとするカフェ・コンセールという場の例は、ブルデューの、全く異なる集団間では相互に憧れは生じないとする説の反証になるのではないか、といったコメントが寄せられました。

(文責:名古屋大学人文学研究科博士前期課程2年 吉野萌)

2025.07.12 理論班第6回会議

2025年7月12日、名古屋大学文学部講義棟130室にて第6回理論班会議を開催した。

 中村靖子先生は、ピエール・ブルデューのハビトゥス概念を起点に、個人の内的表象と言語・文化の構造的関係について再検討した。ハビトゥスとは、個人の内部に形成される行動傾向であり、他の環境や集団においても持続・転移する一方で、周囲との齟齬を通して更新もされうる。すなわち、「構造化された構造」であると同時に、「構造化する構造」として、社会的構造を再生産し続けるという二重性を持つ。後半では、このハビトゥスの二重構造的な性格を踏まえ、言語や文化もまた同様の構造を持った表象形成システムとして捉えられることが指摘された。特に内部表象形成システム(概念中枢)をめぐるイメージの変遷や、18世紀言語起源論争において議論された言語と情動の関係をもとに、個々の経験や思考を意味づけ、意味を交換し、それを超個人的・超時代的に共有するための媒体、保管場所としての言語・文化の役割について論じた。

 鄭弯弯先生は、「語彙の多様性によるジャンル推定に必要なテキスト長」と題し、語彙の多様性を測定する複数の指標について、ジャンルごとに語彙の多様性を安定的に再現するために、必要とされるテキストの長さに着目した実証的研究を報告した。語彙多様性指標には現在、異なり語数と延べ語数に基づくタイプ・トークン系の指標、語の集中度を測る分布型指標、統計的処理に基づく指標などの種類がある。この研究では、これらの指標に基づくジャンル判別が実際にどの程度テキスト長に左右されるかを検証するため、政治演説や自然会話、ニュース、小説という4つのジャンルのテキストを用い、語彙の多様性に基づく、これらのジャンルを安定して判別するために必要なテキストの長さをそれぞれの指標ごとに分析した。

 鈴木麗璽先生は、二次元平面の距離で人同士の心理的・社会的関係の強さを表現した社会的粒子群モデルの研究について報告した。大規模言語モデル(LLM)を用いて、人間の被験者を用いた、連続的な社会相互作用における協力行動創発理解のためのオンライン実験フレームワークと類似したモデルを作成した。LLMを用いない従来のモデルでは、エージェントの行動ルールが固定されていたのに対して、このモデルではエージェントはBig Five性格特性に基づいてそれぞれ異なる行動パラメーターを付与され、さらに自身の周囲の状況と他者の過去の戦略履歴に基づいて行動を選択した。実験結果としては、エージェントが保持する記憶の長さが長いほど全体として裏切りに偏る傾向があることが示された。この結果を踏まえモデルの思考能力の高さや性格特性の設定方法による影響を考慮しつつ、記憶と性格特性が行動に及ぼす影響について議論がなされた。

 大平健太先生・大平徹先生は、非自励系の遅れ微分方程式の解を求める研究に関して、国内外で発表してきたこれまでの研究成果と、それらの研究の今後の展望について報告した。具体的には、第5班の大平英樹先生との共同研究の成果として、遅れを伴う非自励系において、セルフ・フィードバックを持つ二つのユニットを、クロス・フォードバックに繋ぎかえることで、振幅の巨大拡張現象をもたらし、かつ系が安定するようなモデルが得られることを示した。また、亀の甲羅の隆起を表す数理モデルを作成する数理生物学の研究、追跡と逃避の数理モデルに関する研究、量子もつれの解き方に関する研究など、現在関わっている研究の内容と成果を示し、リズムや集団、存在、現象などを説明する言語としての数学の役割について考察した。

 田村哲樹先生は、これまでの研究成果を報告しつつ、現代における民主主義のあり方を問い直す複数の視点を紹介した。例えば、「情報化社会において民主主義は「民主主義」であり続けられるか」という観点から、「人工知能民主主義」との共生/共棲のあり方を探究した。あるいは、資本主義による民主主義の制限を4つに区分し、それぞれに対して熟議民主主義がどのように対抗しうるかを検討した。これらの議論の中で、政治理論において中心に置かれがちな問い、すなわちどのような人間であるべきかという問いに帰結することなく、政治の仕組みそのもののあり方を問うことの重要性が強調された。教育の観点からは、教室内や課外活動における民主的な自治の実践などに着目し、民主主義を国家レベルでの代表制民主主義に限定しない、また教育の場を学校に限定しないシティズンシップ教育のあり方について議論した。

 平田周先生は「ブルデューの⺠族学――批判のプラグマティック社会学および感情史の観点から」と題し、ブルデューのハビトゥス論をもとに、文化資本とハビトゥスの関係結びつきがいかに「文化的正統性」の体系を支え、教育制度などを通じて社会的再生産を担っているかを論じた。これにより、文化的卓越性が無意識的に継承され、階層的差異の正当化に寄与する構造が可視化された。発表の後半では、ボルタンスキーによるブルデュー批判を踏まえ、⾏為主体(acteur)」に代わって「⾏為者(agent」 という⾔葉を⽤いることをハビトゥス概念の「まずい使い方」として批判し、アクターが不確実性に直⾯することで、 新しい何かを伴った⾏為を⽣み出す可能性を認めることの重要性を強調した。また、法律的規範に対するハビトゥスの原理的対抗軸として、行為者が直感的に共有する名誉や正義感といった、慣習の中で公式化される以前から存在している「感覚」に着目する視点が挙げられた。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士後期課程1年  葉柳朝佳音)

2025.3.28-29 2024年度全体研究集会(春)

 当プロジェクト発の研究成果が続々と報告されました。その筆頭が、ちょうど全体研究集会の開催日当日に発刊された書籍、「ことば×データサイエンス【AAA叢書第1巻】」(春風社)になります。この他にも、AAAメンバーによる今後の書籍計画や論文発表についての報告が相次いで行われ、さらなる発展に期待がかかります。

「ことば×データサイエンス【AAA叢書第1巻】」(春風社) 中村靖子、鄭弯弯(編)

 本会では、特別講演のゲストとして、慶應義塾大学の大澤博隆先生、京都大学の小茄子川歩先生にお越しいただきました。先生方にはそれぞれ、「セッション2:未来への物語」、「セッション4:古代からの物語」と対比的なセッションテーマの中で講演していただき、大変興味深いディスカッションが行われました。内容の一部を紹介します。

🌟大澤博隆 先生 「SFセンターと想像学」

「ロボットに抱っこされたとき、感動しました」

 学生時代、ロボットがシンプルなアルゴリズムで動くのを知っていながらなお、「あぁ、いいな」と、意外な感想を抱いたと言います。専門分野のヒューマンエージェントインタラクションの道へ進むことを決めたきっかけとなりました。たとえば日常的な家電も、“便利な道具”を超えて、“他者としての人工物”にできるのではないか?人と道具の間に、今までに無かったような相互作用を可能とすることで、単なる人間の身体拡張に終わらない、どこか他者性を感じさせるようなエージェントの開発に研究として取り組みました。

 現在、ロボット技術や人工知能は目覚ましい発展を遂げ、人間社会に深く入り込みつつあります。そう遠くない未来において、こうした技術とどう向き合い共生することができるのか、私たちの想像力が試されています。「人間の想像力は機械共生社会において、どうあるべきか?」このリサーチクエスチョンを掲げた研究テーマ「ポストヒューマン社会のための想像学」は、科学技術振興機構の「課題設定による先導的人文学・社会科学研究推進事業」の「学術知共創プログラム」において、2024年度の研究テーマとして採択されました。この中では特に、科学技術と社会のあり方を探るジャンルとして誕生したサイエンスフィクション(SF)が、その問いの答えを探る大きな可能性として鍵を握っています。

🌟小茄子川歩 先生 「人類史におけるもう一つの『文明』、そして『バッファ』について」

 文明の発展と聞くと、人びとのどのような営みを想像するでしょうか。狩猟採集生活から農耕牧畜生活へ、やがて余剰がうまれ、小さな農村は大きな都市へと発展する。そして管理運営機構が生まれ、中央集権的な国家が誕生し、支配階級の人びとのもと、第一次産業に従事する人びとだけでなく、工人や商人、神官といった専門職業人がさまざまな活動がおこなうようになる。たとえばこうした発展段階的なプロセスを想像してしまうのではないでしょうか。

 マルセル・モースの「文明」論を発展的に継承したデヴィット・グレーバーとデヴィット・ウェングロウは、それとは異なる「文明」のあり方を説きました。歴史的状況や歴史地理的状況、社会学的状況、文化的状況、そして生態学的状況と、各地・時代の人びとがおかれたさまざまな「状況」に、人びとがボトムアップ式に「政治」的に対応するなかで「文明」は創りだされます。「文明」間において交流や借用の拒絶がありつつも、どの「文明」が野蛮、未開などというのではなく、さまざまな「形態(フォルム)」の「文明」が当たり前のように併存します。「文明」とは、必ずしも中央集権的な国家に向かうことを意味するのではなく、“自発的連合による組織化を可能にする「政治」的知恵や相互扶助の特性こそが「文明」である”と考えます。いわば、ボトムアップで成り立つ「文明」といえるでしょうか。

 その代表的なものとして、比較考古学が専門の小茄子川先生が研究を進めるのがインダス「文明」社会です。中でも紀元前約2600~2400年ごろ、インダス平原において人びとは、その「状況」への「政治」的な対応として、大きな都市にのみ集住せず、人口をひろく散在させたがゆえに、各地方には多様な文化社会が根付いていました。発掘調査の成果からは、ここに国家的権力や支配・暴力の痕跡は見当たらないそうです。また同時代に交流のあった、すでに国家段階にあったと考えられるメソポタミア文明社会に同化されることもありませんでした。このときのメソポタミア文明社会との交流において、“バッファ”の役割を果たしていたのではないかとされるのが、パキスタンの世界遺産となっている古代都市遺跡、モヘンジョダロです。乾季に人びとが集まる交易センターとなっていたのではないかと推察されますが、雨期時には大規模な洪水の危険性が高まるため、季節的に解体されることを前提とした「都市」であったと考えられます。メソポタミア文明社会の財や知、価値をはじめとしたさまざまな情報が、“バッファ”としてのモヘンジョダロを経由することで、インダス平原の伝統的な在地社会文化に適した「かたち」に転換され、そして借用されていたのではないか、という説が紹介されました。

(文責・綾塚達郎)

2025.3.28 第6回研究集会 セッション2「未来への物語」

講演:大澤博隆先生「SFセンターと想像学」

冒頭ではSF(science fiction、あるいは“speculative fiction”)と学術のつながりに注目しつつ、ヒューマンエージェントインタラクション、つまり道具ではなく他者としての人工物との相互作用について、これまでの研究の概要を説明した。例えば、デバイスをキャラクター化することで、デバイスの使い方を直感的にユーザーに説明する研究や、社会的なゲームにおける人工知能についての研究を通して、さまざまな技術ユーザーにどのような想像と行動を引き起こすのかを紹介した。

 こうした研究をもとに、「SFとは何か?」という問いを立て、SFが「知見ではなく手法」として、「科学的な推論・技術を用いて提示された設定やそこでの社会・人々を描いた物語群」として、「科学普及手段」として、あるいは「イノベーションの源泉」として、学術にどのような影響をもたらしてきたのかが論じられた。特に、SFを作る過程をアイデア出しに応用する手法である「SFプロトタイピング」によって、社会的圧力を比較的受けにくい形で、社会構造の変化による価値観の転換について議論しやすい場が作られる事例が紹介された。

コメンテーター①:高橋英之先生

ゲームや展示などを通した個人のSF体験と、体験を通して共有される物語の関係について話題提供が行われた。こうした観点から、媒体の選択において、どこまでを受け取り手の想像に委ねるのか? 物語の受け取り手のリテラシーをどのように考えるか? などが議論された。コメントと応答を通して、個人の体験の没入感やインタラクティブ性と、個人間の物語の共有の両立が注目され、物語と現実を地続きに結びつけることの重要性が強調された。

コメンテーター②:鈴木麗璽先生、加藤真紘さん

鈴木麗璽先生は、大規模言語モデル(LLM)を用いたAIエージェントによる言語の進化生態モデルを例に、オープンエンド性と創造性という観点から話題提供をいただきました。LLMを用いて複雑な価値観をモデル化することで、従来の進化モデルに見られた進化の停滞を解消するという試みについて紹介した。

 加藤真紘さんからは特に、SFプロットを題材とした文化進化モデルの構築について紹介された。LLMにより、複雑な意味を持つ情報の伝達と変容をモデル化が可能になり、エージェントに内在する要因が既存の壁を破る様子を説明するモデルが作成できるようになったことが示された。SFが既存の壁を破って価値観の転換を設定することで、現在の世界に対する違和感に訴える「マイノリティーの文学」としての役割を持つということが指摘された。

全体討論

討論では、マイノリティを語るSFとの関連において、「将来的に人格が失われるのであれば、進化的に不要なものであったと言えるのではないか?」といった疑問が投げかけられた。LLMとの関連では、「フィクションにおいて、欠損を持つことや、不自然な言葉をはなすことで”ロボット”をキャラクターとして強調する手法は、LLMの登場によって機能を失うのか?」、「AIは創造的なものを書くモチベーションを持ちうるのか?」といった議題が持ち上がった。その他、物語の創造と作家の専門性に関する議論や、生成A Iと作家の権利に関する議論がなされた。

 小茄子川歩先生は、あらゆる可能性の中から古代の人間の物語を掘り出す考古学と、現在の世界とは異なる世界の可能性を提示するSFとを結びつけ、セッション2とセッション4に通底するテーマを示した。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士後期課程1年  葉柳朝佳音)