2025.08.26-27 第7回全体集会

2025.8.26-27 2025年度全体研究集会(夏)

2022年11月1日に人文知共創センターが設立され、今年で4年目を迎えます。日本学術振興会に採択された当プロジェクトは多くの活動実績が認められ、2024年度の中間評価では高評価をいただきました。その実績をまとめたパンフレットを公開いたしましたので、ぜひご覧ください。

人文知共創センター2024年度パンフレット

 本研究集会では、特別講演のゲストとして、島根県立大学の村井重樹先生、神奈川工科大学の小田切祐詞先生にお越しいただきました。当センター第1班、北陸大学の金信行先生のお声がけにより実現し、それぞれ、「セッション2:ハビトゥスの社会的基盤とその社会学的応用可能性―ポスト・ブルデュー社会学を見据えて」、「セッション4:プラグマティック社会学と構築主義」のテーマでご講演いただきました。さらに、第1班、大平英樹先生の繋がりにより、フィレンツェ大学からEmanuele Castano先生に駆けつけていただき、「セッション3:Beyond Genes and Parents: The Effects of Cultural Products on Human Psychology」のテーマでご講演いただきました。プロジェクトの成果が、メンバーの繋がりによって支えられていることを象徴するようなプログラム構成となりました。

以下は一部とはなりますが、Castano先生のご講演について報告します。

●Emanuele Castano先生 「Beyond Genes and Parents: The Effects of Cultural Products on Human Psychology」

「相手はいったい、何を考えているんだろう?」

 言葉、表情、仕草、それまでの文脈など、あらゆる情報を頼りに私たちは意思疎通を図り、コミュニケーションを行います。集団生活を営むために必要不可欠な能力ですが、いろんな経験を積みながら私たちは少しずつ身に着けていきます。それでは具体的に、いったい何に影響を受けながら私たちは能力を発達させているのでしょうか。

“Fiction is a gym for social cognition”

 Castano先生が取り組むこの研究アイデアは、この問いに一つのヒントを与えてくれるかもしれません。「Fiction」にも様々なものがありますが、その一つとして小説が挙げられます。さらに、小説を文学小説と大衆小説に分けましょう。実証研究において、文学小説をよく読む人と、大衆小説をよく読む人では、「Reading the Mind in the Eyes Test」をはじめとするいくつかの検証を通して、前者の方が他者の心的状態を推測する能力が高いという結果が出ました。文学小説では、大衆小説に比べて登場人物同士の複雑な関係性や、それぞれの心理描写を細かく描く傾向があります。確かに読みごたえがあり、手に取るハードルは高いかもしれませんが、他者心理の推測能力を鍛える“gym”となっているのかもしれません。

 ここで注意が必要なのは、この研究が文学小説と大衆小説の優劣を決めるものではないということです。大衆小説も、既知の表現や定型的な物語構造を通して共感や安心感を生み出す効果があり、大切な文学の一つであることも強調されました。

(文責・綾塚達郎)

2025.08.26-27 第7回全体集会:セッション4

講演:小田切祐詞(神奈川工科大学)

小田切祐詞先生の講演「プラグマティック社会学と構築主義」では、ブルデューの社会学との分岐を手がかりに、ポスト・ブルデューの論客であるリュック・ボルタンスキー(Luc Boltanski, 1940-)のプラグマティック社会学と構築主義の関係が論じられた。ブルデューの理論は、行為者を社会構造の隠れた諸力によって規定される存在として描き出し、その背後の力を暴露することに力点を置く。それに対し、ボルタンスキーのプラグマティック社会学は、行為者を行為そのものから定義し、当事者の実践的関与を重視する点に特徴がある。

 ボルタンスキーの著作『胎児の条件』(2004)では、胎児が、妊娠によって女性の身体の中に生じる物質的な存在、すなわち「肉として」生まれるだけでなく、かけがえのない存在として「言葉によって」承認されることによって、初めて社会の中で固有の地位を持った人間となることが示される。胎児は、出産あるいは中絶へと至るプロセスにおいて、「赤ちゃん」として人称化されたり、「それ」という指示代名詞で示されることで非人称化されたりする場合がある。しかし、胎児が妊婦に与える身体的な感覚は、胎児が「赤ちゃん」として構築される場合にも「それ」と呼ばれる場合にも、「基本的に同じもの」として感受される。このような、恣意的なカテゴリー分けに従わない身体的触発は、胎児を差別する以外の仕方で中絶を正統化することを妊婦に要請する。道徳哲学による中絶の正当化には、胎児と人を区別する実在論的アプローチや、妊婦の胎児に対する道徳的義務を否定する関係論的アプローチ、「出産」や「人」の表象が「社会的に構築されたもの」であることを示そうとする脱構築主義的アプローチなどがある。それに対しボルタンスキーは、ケアの倫理と現象学の視点から、中絶の正当化をめぐる議論においてしばしば忘れられてきた、胎児と両義的な関係を取り結ぶ女性の経験から出発すべきだと主張する。

 ボルタンスキーと並び、プラグマティック社会学の発展に寄与した社会学者シリル・ルミュー(Cyril Lemieux, 1957–)は、構築主義を「反自然主義」とみなす難しさや、自然主義を排した社会学が陥る限界を指摘したうえで、プラグマティック社会学の特徴の一つを、恣意的なカテゴリー分けによって無化することのできない世界の物質性が示す「抵抗」を重視する点に見た。プラグマティック社会学は、単なる構築主義でも、一切のカテゴリー分けを否定する自然主義(素朴実在論)への回帰でもなく、構築主義の論理を限界まで押し進め、その限界にある物質性の問題を「抵抗の原理」として理論的に取り上げようとする「反省的構築主義」である。恣意的なカテゴリー分けに抵抗する契機を女性の身体経験の中に見て取った『胎児の条件』は、「反省的構築主義」の一つの実践として理解することができる。

質疑応答(コメンテーター:平田周先生、田村哲樹先生)

 平田先生は、フランスにおける中絶をめぐる歴史的文脈(1975年の合法化など)をまとめた上で、ボルタンスキーの議論(特に『胎児の条件』)がフランスのフェミニストに理論的・政治的に与えた影響について質問した。さらに、本プロジェクトのメインテーマである、ラトゥールのアクターネットワーク理論とブルデューのハビトゥス概念の接続という観点から、ボルタンスキーのプラグマティック社会学をどう位置付けるべきかという問題を提起した。

 この問題に関して小田切先生は、ボルタンスキーの議論はフェミニスト理論にさまざまな形で受容されたが、特にプロライフ(生命の保護を主張し、人工妊娠中絶や安楽死に反対する立場)の本として誤読されることが少なくなかったと説明した。ボルタンスキー自身は、この本は中絶そのものの賛否を論じるのではなく、社会学の中立性を維持しつつ、沈黙させられてきた妊婦自身の経験を可視化することに重点を置いていると主張している。

 ラトゥール、ブルデューとの関連については、小田切先生によれば、ボルタンスキーは、ブルデュー社会学が「すでにつくられた社会的世界」から出発する傾向がある一方、自身とラトゥールを含むプラグマティック社会学が「今つくられている社会的世界」から出発する傾向がある点に両者の違いがあると考えている。さらに、小田切先生は、両者の対立を調停する一つの道筋として、ボルタンスキーが『批判について』(2009)の中で展開した制度論を紹介された。一方で、ボルタンスキーは、ラトゥールのスポークスマン概念を用いて、制度が人々の実践を通じて可視化される過程を重視した。このとき、制度は「今つくられている」ものとして現れる。他方、ボルタンスキーは制度を「身体なき存在」と捉え、個々の身体が捉える個別の視点を超えた、上位の調整機能を果たすもの――いわば「すでにつくれらたもの」――としても扱う。ただしそのような制度は身体を持たないために、実社会において機能する際にはスポークスマンを必要とする。そのスポークスマンが真に制度を代表しているかどうかは常に不確定である。小田切先生は、この不安定さを起点とし、制度を「今つくられている」ものにも「すでにつくられた」ものにも還元しない点に、ボルタンスキー社会学の特徴があると論じた。

 田村先生は、ボルタンスキーやルミューの議論における「抵抗」という概念の位置づけについて疑問を投げかけた。特に、なぜ身体やモノの示す「ままならなさ」を「抵抗」と呼ぶのか、単なる「制約」や「限界」とは何が違うのか、またそれが社会像や民主主義の理解にどのように関わるのかという問題を提起した。さらに『胎児の条件』が妊婦の経験に焦点を当てている点について、個人の体験を社会学的議論の基盤に据えることの妥当性について疑問を投げかけた。

 第一の問題に対して小田切先生は、ボルタンスキーが『批判について』(2009)における「現実」と「世界」の区別を土台としつつ、「現実」の外部にあり、「現実」を形作るフォーマットでは言語化されにくい「世界」の経験を、「現実の社会的構築」への「抵抗」として捉えている点を補足した。「抵抗」とは単なる外的制約ではなく、社会的に構築された現実を揺さぶる契機であり、その言語化こそが社会学の役割であると説明した。

 第二の質問に対して小田切先生は、『胎児の条件』が妊婦の経験に注目したのは、中絶の合法化以降もなおほとんど語られてこなかった妊婦の経験をとり上げることで、社会的に沈黙させられてきた領域を可視化するためであると述べた。加えて、個人の経験への注目は社会学の矮小化ではなく、不可視化された社会的現実を描き出す試みであると強調した。

 全体討論

 マリー・ボーヴィウ先生は、『胎児の条件』において中絶される胎児に対して用いられる「殺人」という言葉遣いに、すでに倫理的な価値判断が内在していることや、調査対象の女性が、将来母になる可能性のある人に偏っている点を指摘した。このような観点から、この本においてボルタンスキーは女性を「母なる存在」としてのみ捉えているのではないかという疑問を投げかけた。これに対し小田切先生は、ボルタンスキーの議論は胎児を「人」と「モノ」の間を揺れ動く存在として捉えており、殺人という語は、類型化のされ方によって変化する中絶の解釈のひとつとして用いられたにすぎないと説明した。

 同じく妊婦と胎児の関係を規定する言葉遣いという観点から、中村靖子先生は、『胎児の条件』は胎児を「できもの」として語ることによって女性の身体的負担を描き出す一方で、「人間の条件」になぞらえて中絶を語ることによって再び女性が追い詰められることになるのではないか、と指摘した。それに対し小田切先生は、ボルタンスキーの言葉選び自体に緊張や曖昧さが含まれており、読解に際してもその都度の言葉選びから、物質的な存在としての胎児と社会的に承認された人間としての胎児という両義性を汲み取る必要があると説明した。

 セッション3の講演者である村井重樹先生は、ハビトゥス論とも関連づけてボルタンスキーの議論における身体化された過去(過去の経験の蓄積)の位置付けという問題を提起した。これに対して小田切先生は、ボルタンスキーのプラグマティック社会学が、行為者をあくまでも現在の行為において規定するという現在主義的な側面を持つ一方で、それによって、単なる構築主義的な視点からは見えない個別の経験を拾い上げる役割を持つことを強調した。金信行先生はアクターネットワーク理論おいては過去もまた現在的なアクターとして捉えられることなどを補足した。こうした観点から、本プロジェクトの柱となるハビトゥス論、アクターネットワーク理論と、プラグマティック社会学の接続について議論が交わされた。

(文責:大阪大学人文学研究科博士後期課程 葉柳朝佳音)

2025.08.26-27 第7回全体集会:セッション3

講演:Emanuele Castano(フィレンツェ大学)

Emanuele Castano先生(フィレンツェ大学)のご講演「Beyond Genes and Parents: The Effects of Cultural Products on Human Psychology」では、人間の心が形成される過程において、遺伝や養育環境に加え、文化的産物が果たす役割に焦点が当てられた。文化的産物は「何を考えるか」だけでなく「どのように考えるか」に影響を及ぼす点が強調され、とりわけ文学的フィクション(literary fiction)と大衆的フィクション(popular fiction)の比較を通して、その効果の相違が実証的に論じられた。

 背景としては、人間の社会的認知、すなわち他者の感情や思考を理解し、社会的世界を解釈する能力は、社会生活や文化的共同体の維持に不可欠である。Castano先生は、文化的産物をConfirming(確認的)とChallenging(挑戦的)に区別できるとし、特に文学的フィクションが「挑戦的」な性格を持ち、社会的認知を促進する可能性に注目した。一方、大衆的フィクションは「確認的」な性格を有し、読者に安心感を提供する役割を果たすと仮定した。

 実験的研究では、「著者認知テスト(Author Recognition Test)」や社会的認知は「Reading the Mind in the Eyes Test」をはじめとする複数の課題によって、被験者を無作為に文学的フィクション、大衆的フィクション、ノンフィクションなどの読書群に割り当て、比較評価を行った。研究の結果、文学的フィクションを読む被験者は社会的認知、とりわけ他者の心的状態を推測する能力(Theory of Mind)において有意に高い得点を示した。一方、大衆的フィクションには同様の効果は認められず、その主な役割は娯楽性や安心感の提供にあることが示唆された。さらに、複数文化圏での調査結果は、この傾向が普遍的であることを裏づけた。

 考察では、文学的フィクションが読者に「想像力」を喚起し、物語の空白を補わせることで複雑な他者理解を促す点を強調した。これにより、読者は単なる感情移入を超えて多様な視点を獲得し、複雑な社会的状況を理解する能力を発達させる。一方、大衆的フィクションは既知の表現や定型的な物語構造を通して共感や安心感を生み出すが、社会的認知を高度化する効果は限定的であると論じられた。

 本講演は、文学的フィクションと大衆的フィクションの比較を通して、文化的産物が人間の心に異なる影響を及ぼすことを明らかにした。文学的フィクションは挑戦的な性質をもち、他者理解や複雑な社会的認知を涵養する機能を有する。一方で、大衆的フィクションは確認的な性質をもち、安心感や娯楽を通じて共同体の心理的安定に寄与する。両者は対立するのではなく、それぞれ固有の役割を担いながら人間社会の心理的基盤を形成していると結論づけられた。

(文責:名古屋大学人文学研究科附属人文知共創センター 鄭弯弯)

中村先生 質問

二つの視点から質問したいと思います。

①例えば、グリム童話の初版には、「彼はこうした。彼女はこうした」などの描写が見られ、専ら行動が描かれ、行動の裏にある思考についての描写は見当たりませんでした。これに対して数十年後に出版された第七版では、「彼はこの時こう考えた、だから…をした」といったように、ただ行動が示されるだけではなく、思考や心理的描写もどんどん加筆されています。それは歴史的に見て、人の行為を説明するようになる傾向は、特に18世紀末から19世紀初期にかけてよく見られます。このような“showing”から“telling”への変化について、歴史的な観点からどのようにお考えでしょうか。

Castano:かなり鋭くて深い質問ですね。グリム童話にこのような変化があったことは知りませんでしたので、この作品の変化についてあまり言えることがありません。ただこの質問から、1990年代に行われた、発達心理学の視点から読み物が子供に与える効果を検討するある実験が連想できると思います。

その実験では、2ヶ月以上の時間をかけて、10冊の絵本を小学生に読ませます。その内半分の被験者には思考や感情などの心理状態を表す単語を残したままの本を読ませ、もう半分の被験者にはそういった単語が削除された本を読ませます。例えば狐とニワトリの本の中に、近づいている狐に気づくことができない、うろうろしているニワトリが描かれています。オリジナルの絵本には、ニワトリが「振り返り、…と思った」などの表現があります。しかし調整後のバージョンには、「思う」などの心理状態を表す単語が消されています。

子供に頻繁に感情を表す単語を話す親がいる場合、その子供がより早くそういった単語を習得できることがすでに証明済みになっています。だから実験を行った研究者は、読む行為が子供(五歳ぐらいだと思います)の心理状態を表す語彙の習得にどのように影響するのかを観察したかったのです。そこで興味深いことに、オリジナルの絵本を読んだグループの子供に関しては、感情を表す単語の意味を識別する能力が上達したことが確認された一方で、心理状態を述べる単語のない本を読むグループの子供の方が、思考力/問題解決力を考察するテストでより良い成績を収めました。

五六歳の子供が読む絵本にとって、純文学と流行文化の区別は無意味だと思います。しかし、感情を表す語彙のような一部の要素に関しては共通しているとも言えます。かなり幼い子供の場合、そういった語彙を明示しないといけません。インプットがないと、子供はそもそもそれらの単語を習得できませんし、自身を表現することももちろんできません。しかしある段階に達すると、意識的にそれらの語彙を伏せて、子供に自分の判断で感情と対応する単語との関連性を認識してもらうことも大事です。なので、先ほどの実験に使われた、オリジナルと感情を表す語彙が伏せられるバージョンの両方が、0歳から8歳までの子供には必要だと考えています。

②純文学の作品は複雑な構造になっているだけでなく、(ご発表の中に紹介された図に示されたように)しばしばネガティブな感情が表されています。そのため読者が感じるストレスが上がる可能性が考えられます。だから7、8歳の子供はいわゆる文学作品を読みたがらないかもしれませんが、文学作品を読みたくなるには、個人の発達がそもそも必要なのではないでしょうか。

Castano:私が構想しているのは、子供に物語を聞かせる時に、一種の並行体系(parallel system)が重要です。最初の質問に答えた時も少し触れましたが、子供にとって、心理状態を直接表す単語が入っているフィクションと入っていないフィクションの両方を読む必要があります。前者は子供に単語自身の意味を習得してもらうためのものであり、後者は子供に単語と感情のつながりを能動的に識別してもらうためのものです。なので、まず精神的に発達してから文学作品を読み始めるか、それとも文学を読んでから発達するかについて、明確な答えは出せません。

大人は、感情を読み取る能力が既に備わっているので、純文学を読むことで訓練しなくてもその能力が失われることがありません(もちろん劣ることになりますが)。しかし子供に関して言うと、心理状態と感情を直接描かない文学作品は感情を読み取る能力を鍛えることは確かですが、それもまずそれらの感情を表す基本語彙を習得した後の話になります。個人的な子育ての経験も含めて言わせていただきますと、幼い子供に全く同じ物語を何度も読み聞かせてもよいが、子供が成長すると同じ物語を読み聞かせるとすぐ飽きてしまいます。三歳の子供を対象とした物語はいつも予測しやすいものです。この場にいる多くの先生方も、ご自身の経験を思い出していただければお分かりかと思います。三歳前後の子供に向かって、同じ話の中のいくつかの単語を変えるだけでも、すぐ不機嫌になりますね。「いや、そんな話じゃないよ」と。しかしある年齢を超えると、物語自身の展開が平坦だったり、予測しやすかったりすると、子供はすぐ興味を示さなくなります。言い換えれば、物語に解釈の余地、あるいは自由度を求めるようになります。もちろん、それまで築かれてきた観念を再確認できるという点から言うと、予測しやすい物語への需要が消えたわけではありませんが、自由度への需要が芽生えたのは、当然のことです。

大人についても、純文学しか読まない人と、流行文学しか読まない人がいますね。この違いは、作品に確かさを求めるか、それとも不確かさを求めるかの違いとも言えます。大多数の大人は、心理状態を表す語彙を習得しています。そして大人は文字の力を借りなくても、感情を読み取り、その種類を判断する練習をすることができます。例えば今日の講演会でも、私のこの能力は鍛えられていました。皆さんの表情を見て、自分の説明が明確なのかどうかを把握しておかないといけませんから。なので文学や映画などは、決して感情を識別する能力を鍛える唯一の方法ではありません。しかし子供にとって、不正解によるフィードバックを受けずに、この能力を身につけることができる機会は、確かに文字を読むこと、特に守られた環境の中で展開される童話を読むことです。恐怖や悲しみを感じても、それはフィクションの世界の出来事であり、現実世界への影響がありません。

なので、心理状態を表す語彙の習得と心理状態を識別する/自分自身の心理状態を説明することとは、ある意味矛盾しているとも言えます。ジムに行くことで例えますと、ずっと基礎練習をしていても筋肉がつきませんが、いきなり基礎練習を飛ばして高度なトレーニングを行うことも不可能です。最初に戻りますが、並行体系の構築は、子供に文学を読ませるときに心がけるべきことだと私は主張します。

ボーヴィウ先生 質問

①文学作品の読者の認知能力(cognitive capability)に対する影響に関して、作品が実話なのか実話ではないフィクションなのかという違いは、影響そのものへの関連性はあるのでしょうか。

Castano:私の関心するところでは、その関連性はないと考えています。今回の発表では純文学と流行文学の違いを重要視したのは、作品の言語学的な構成、そして単語の違いとその影響を論じたいためです。作品自体が実話であるかどうかはこれらの要素に影響しません。しかしもし作品の構造や書き方によって、実話であるかどうかという問題に対して読者の内部で異なる判断が下された場合、作品のどの部分がこのような判断の違いを生み出したのかについて検証する必要があります。

②ご講演の中には、「予測不可能性」(unpredictability)が純文学と流行文学を区別する際に重要な指標の一つであるとおっしゃいました。では例えば外国の流行文学を読むときに、その国の人にとってすぐ予測できるかもしれませんが、外国人の読者には文化的な背景の相違がありますので、先が読めないと感じることもあります。そうなりますと、予測不可能性は有効な判断基準と言えますでしょうか。

Castano:いまおっしゃった内容を言い換えますと、それぞれの文化に属する人にとって、いくつかの、その文化特有の物語のモデルが存在します。他の文化に根付いたモデル(と言っても部分的な違いしかないと思いますが)に沿って作られた物語を読むと予測が効かなくなります。ならば私にとってまず、二つのモデルのどこが異なっているかを知る必要があります。例えば私が研究で協力者にフィクションを読ませますが、感情能力を測定する前に、登場人物についての評価をまず聞きます。この問題を検討する実験を行うとすると、例えば日本人作家による純文学作品の登場人物を予測しにくいと、日本人以外(例えばフランス人)の協力者が回答する場合、日本人の読者にとって同じ回答が得られるかどうかについて別途データを集めます。同じ人物が日本人にとって予測しやすいかもしれませんが、それはあくまで私たちに、「純文学」と「流行文学」がただのラベルであることを示すまでです。普遍的な一面もあれば、文化による例外の存在も当然認めなければいけません。

③詩の中の一人称「私」は、特定の社会や環境の中の個人ではなく、より普遍的な「私」になります。なので、詩を読むことも、感情を識別する能力の鍛錬になりますでしょうか。もし鍛錬になれる場合、純文学と流行文学との間のような効果の違いは認められるのでしょうか。

Castano:以前日本人学者が執筆した論文を査読したことがありまして、俳句と、複雑で仮面を使った、感情が誇張された形で表現される能に関する研究でした。詩はより短いし、より表現的な形式であり、不安と不確かさをより醸し出すことができます。なので、純文学に近い効果があるとも言えます。しかし一首の詩を読む時間があまりにも短いので、どれぐらい読んだら感情を識別する、もしくは表現する能力に影響するのかがまだよく把握できません。そして一部の構造上・用語上明らかに流行文学に分類されるべき詩も存在しています。いずれにしても、実験で詩を扱うにはまだ難しい部分が残っていると思います。

(文責:京都大学大学院人間・環境学研究科 共生人間学専攻 肖 軼群)

2025.08.26-27 第7回全体集会:セッション2

講演:村井重樹(島根県立大学)

セッション2では、村井先生より「ハビトゥスの社会的基盤とその社会学的応用可能性――ポスト・ブルデュー社会学を見据えて――」と題するご講演をいただきました。

 村井先生は、まずブルデューのハビトゥス概念及びハビトゥスを生み出す社会的基盤の分析に関する説明の後、ブルデューの社会学理論が受けた理論的な批判と、経験的研究を通じた批判を提示されました。そして、それらの批判を踏まえ、ライールの提示したハビトゥス論、すなわち、人々のハビトゥスが一貫性を持つか否かはそれを形成する社会的条件に依存しており、矛盾をはらむ社会的条件にさらされれば複数的・多元的なものとなる、とする論について説明されました。村井先生は、ポスト・ブルデュー社会学の課題は、ブルデュー時代から更なる細分化を遂げた社会がどのようにハビトゥス形成に関係しているのか、という問いに答えることであると述べられました。さらに、現代社会でハビトゥスの複数性と社会的文脈がどのように接続するかを問うとともに、細分化したものを認識した後、どのように統合・整理するか、ということも重要な課題であることを説明されました。

コメンテーター:金信行(北陸大)

 金先生は、ブルデュー社会学と村井先生が研究している食の社会学との関係や、ブルデューのハビトゥス論における資本量の測定基準、また性向と文脈について質問され、それらについて村井先生より具体的な説明がなされました。また、ライール研究の価値についての質問に対しては、新規要因の発見ではなく、現代社会を再調査し理論を再構築する実証的価値を強調されました。

コメンテーター:大平英樹(名大)

 大平先生は、個人・社会・個人と社会の間の三つの内、どこにハビトゥスが存在するのか、という問いを立て、神経科学的視点から、報酬系や、予測的符号化仮設における予測処理モデルを踏まえたハビトゥス理解の可能性を指摘されました。続いて、事前に予測した知覚と感覚信号の二つから、処理を終えた認識が発生し、感覚信号の精度が低い場合、事前予測の方に近い認識が発生するといった知覚のプロセスとハビトゥス論の類似性が論じられました。。村井先生は、ライールが人格の多元性について強調しつつも実証していなかった点に触れ、科学的検証がなされることで、仮定ではなく、承認可能な前提になりうると回答されました。

 質疑応答では、AIとの関係から、ハビトゥス概念における「身体化」という表現の必然性と、身体を持たないAIにハビトゥスが成立する可能性を論点として、LLMエージェントを用いたマシン・ハビトゥスの研究についての議論がなされました。また、複数的人間像の承認による理論化の困難さの問題、現代社会におけるSNS文化の影響力、ハイカルチャーの定義についての議論がありました。さらに、ライールの社会分析と、「分断化」との関係性、ブルデューのハビトゥス論とパノスキーの『ゴシック建築とスコラ学』との違いについてのコメントや、上流階級と庶民階級が互いの文化を体験しようとするカフェ・コンセールという場の例は、ブルデューの、全く異なる集団間では相互に憧れは生じないとする説の反証になるのではないか、といったコメントが寄せられました。

(文責:名古屋大学人文学研究科博士前期課程2年 吉野萌)

2025.07.12 理論班第6回会議

2025年7月12日、名古屋大学文学部講義棟130室にて第6回理論班会議を開催した。

 中村靖子先生は、ピエール・ブルデューのハビトゥス概念を起点に、個人の内的表象と言語・文化の構造的関係について再検討した。ハビトゥスとは、個人の内部に形成される行動傾向であり、他の環境や集団においても持続・転移する一方で、周囲との齟齬を通して更新もされうる。すなわち、「構造化された構造」であると同時に、「構造化する構造」として、社会的構造を再生産し続けるという二重性を持つ。後半では、このハビトゥスの二重構造的な性格を踏まえ、言語や文化もまた同様の構造を持った表象形成システムとして捉えられることが指摘された。特に内部表象形成システム(概念中枢)をめぐるイメージの変遷や、18世紀言語起源論争において議論された言語と情動の関係をもとに、個々の経験や思考を意味づけ、意味を交換し、それを超個人的・超時代的に共有するための媒体、保管場所としての言語・文化の役割について論じた。

 鄭弯弯先生は、「語彙の多様性によるジャンル推定に必要なテキスト長」と題し、語彙の多様性を測定する複数の指標について、ジャンルごとに語彙の多様性を安定的に再現するために、必要とされるテキストの長さに着目した実証的研究を報告した。語彙多様性指標には現在、異なり語数と延べ語数に基づくタイプ・トークン系の指標、語の集中度を測る分布型指標、統計的処理に基づく指標などの種類がある。この研究では、これらの指標に基づくジャンル判別が実際にどの程度テキスト長に左右されるかを検証するため、政治演説や自然会話、ニュース、小説という4つのジャンルのテキストを用い、語彙の多様性に基づく、これらのジャンルを安定して判別するために必要なテキストの長さをそれぞれの指標ごとに分析した。

 鈴木麗璽先生は、二次元平面の距離で人同士の心理的・社会的関係の強さを表現した社会的粒子群モデルの研究について報告した。大規模言語モデル(LLM)を用いて、人間の被験者を用いた、連続的な社会相互作用における協力行動創発理解のためのオンライン実験フレームワークと類似したモデルを作成した。LLMを用いない従来のモデルでは、エージェントの行動ルールが固定されていたのに対して、このモデルではエージェントはBig Five性格特性に基づいてそれぞれ異なる行動パラメーターを付与され、さらに自身の周囲の状況と他者の過去の戦略履歴に基づいて行動を選択した。実験結果としては、エージェントが保持する記憶の長さが長いほど全体として裏切りに偏る傾向があることが示された。この結果を踏まえモデルの思考能力の高さや性格特性の設定方法による影響を考慮しつつ、記憶と性格特性が行動に及ぼす影響について議論がなされた。

 大平健太先生・大平徹先生は、非自励系の遅れ微分方程式の解を求める研究に関して、国内外で発表してきたこれまでの研究成果と、それらの研究の今後の展望について報告した。具体的には、第5班の大平英樹先生との共同研究の成果として、遅れを伴う非自励系において、セルフ・フィードバックを持つ二つのユニットを、クロス・フォードバックに繋ぎかえることで、振幅の巨大拡張現象をもたらし、かつ系が安定するようなモデルが得られることを示した。また、亀の甲羅の隆起を表す数理モデルを作成する数理生物学の研究、追跡と逃避の数理モデルに関する研究、量子もつれの解き方に関する研究など、現在関わっている研究の内容と成果を示し、リズムや集団、存在、現象などを説明する言語としての数学の役割について考察した。

 田村哲樹先生は、これまでの研究成果を報告しつつ、現代における民主主義のあり方を問い直す複数の視点を紹介した。例えば、「情報化社会において民主主義は「民主主義」であり続けられるか」という観点から、「人工知能民主主義」との共生/共棲のあり方を探究した。あるいは、資本主義による民主主義の制限を4つに区分し、それぞれに対して熟議民主主義がどのように対抗しうるかを検討した。これらの議論の中で、政治理論において中心に置かれがちな問い、すなわちどのような人間であるべきかという問いに帰結することなく、政治の仕組みそのもののあり方を問うことの重要性が強調された。教育の観点からは、教室内や課外活動における民主的な自治の実践などに着目し、民主主義を国家レベルでの代表制民主主義に限定しない、また教育の場を学校に限定しないシティズンシップ教育のあり方について議論した。

 平田周先生は「ブルデューの⺠族学――批判のプラグマティック社会学および感情史の観点から」と題し、ブルデューのハビトゥス論をもとに、文化資本とハビトゥスの関係結びつきがいかに「文化的正統性」の体系を支え、教育制度などを通じて社会的再生産を担っているかを論じた。これにより、文化的卓越性が無意識的に継承され、階層的差異の正当化に寄与する構造が可視化された。発表の後半では、ボルタンスキーによるブルデュー批判を踏まえ、⾏為主体(acteur)」に代わって「⾏為者(agent」 という⾔葉を⽤いることをハビトゥス概念の「まずい使い方」として批判し、アクターが不確実性に直⾯することで、 新しい何かを伴った⾏為を⽣み出す可能性を認めることの重要性を強調した。また、法律的規範に対するハビトゥスの原理的対抗軸として、行為者が直感的に共有する名誉や正義感といった、慣習の中で公式化される以前から存在している「感覚」に着目する視点が挙げられた。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士後期課程1年  葉柳朝佳音)

2025.3.28-29 2024年度全体研究集会(春)

 当プロジェクト発の研究成果が続々と報告されました。その筆頭が、ちょうど全体研究集会の開催日当日に発刊された書籍、「ことば×データサイエンス【AAA叢書第1巻】」(春風社)になります。この他にも、AAAメンバーによる今後の書籍計画や論文発表についての報告が相次いで行われ、さらなる発展に期待がかかります。

「ことば×データサイエンス【AAA叢書第1巻】」(春風社) 中村靖子、鄭弯弯(編)

 本会では、特別講演のゲストとして、慶應義塾大学の大澤博隆先生、京都大学の小茄子川歩先生にお越しいただきました。先生方にはそれぞれ、「セッション2:未来への物語」、「セッション4:古代からの物語」と対比的なセッションテーマの中で講演していただき、大変興味深いディスカッションが行われました。内容の一部を紹介します。

🌟大澤博隆 先生 「SFセンターと想像学」

「ロボットに抱っこされたとき、感動しました」

 学生時代、ロボットがシンプルなアルゴリズムで動くのを知っていながらなお、「あぁ、いいな」と、意外な感想を抱いたと言います。専門分野のヒューマンエージェントインタラクションの道へ進むことを決めたきっかけとなりました。たとえば日常的な家電も、“便利な道具”を超えて、“他者としての人工物”にできるのではないか?人と道具の間に、今までに無かったような相互作用を可能とすることで、単なる人間の身体拡張に終わらない、どこか他者性を感じさせるようなエージェントの開発に研究として取り組みました。

 現在、ロボット技術や人工知能は目覚ましい発展を遂げ、人間社会に深く入り込みつつあります。そう遠くない未来において、こうした技術とどう向き合い共生することができるのか、私たちの想像力が試されています。「人間の想像力は機械共生社会において、どうあるべきか?」このリサーチクエスチョンを掲げた研究テーマ「ポストヒューマン社会のための想像学」は、科学技術振興機構の「課題設定による先導的人文学・社会科学研究推進事業」の「学術知共創プログラム」において、2024年度の研究テーマとして採択されました。この中では特に、科学技術と社会のあり方を探るジャンルとして誕生したサイエンスフィクション(SF)が、その問いの答えを探る大きな可能性として鍵を握っています。

🌟小茄子川歩 先生 「人類史におけるもう一つの『文明』、そして『バッファ』について」

 文明の発展と聞くと、人びとのどのような営みを想像するでしょうか。狩猟採集生活から農耕牧畜生活へ、やがて余剰がうまれ、小さな農村は大きな都市へと発展する。そして管理運営機構が生まれ、中央集権的な国家が誕生し、支配階級の人びとのもと、第一次産業に従事する人びとだけでなく、工人や商人、神官といった専門職業人がさまざまな活動がおこなうようになる。たとえばこうした発展段階的なプロセスを想像してしまうのではないでしょうか。

 マルセル・モースの「文明」論を発展的に継承したデヴィット・グレーバーとデヴィット・ウェングロウは、それとは異なる「文明」のあり方を説きました。歴史的状況や歴史地理的状況、社会学的状況、文化的状況、そして生態学的状況と、各地・時代の人びとがおかれたさまざまな「状況」に、人びとがボトムアップ式に「政治」的に対応するなかで「文明」は創りだされます。「文明」間において交流や借用の拒絶がありつつも、どの「文明」が野蛮、未開などというのではなく、さまざまな「形態(フォルム)」の「文明」が当たり前のように併存します。「文明」とは、必ずしも中央集権的な国家に向かうことを意味するのではなく、“自発的連合による組織化を可能にする「政治」的知恵や相互扶助の特性こそが「文明」である”と考えます。いわば、ボトムアップで成り立つ「文明」といえるでしょうか。

 その代表的なものとして、比較考古学が専門の小茄子川先生が研究を進めるのがインダス「文明」社会です。中でも紀元前約2600~2400年ごろ、インダス平原において人びとは、その「状況」への「政治」的な対応として、大きな都市にのみ集住せず、人口をひろく散在させたがゆえに、各地方には多様な文化社会が根付いていました。発掘調査の成果からは、ここに国家的権力や支配・暴力の痕跡は見当たらないそうです。また同時代に交流のあった、すでに国家段階にあったと考えられるメソポタミア文明社会に同化されることもありませんでした。このときのメソポタミア文明社会との交流において、“バッファ”の役割を果たしていたのではないかとされるのが、パキスタンの世界遺産となっている古代都市遺跡、モヘンジョダロです。乾季に人びとが集まる交易センターとなっていたのではないかと推察されますが、雨期時には大規模な洪水の危険性が高まるため、季節的に解体されることを前提とした「都市」であったと考えられます。メソポタミア文明社会の財や知、価値をはじめとしたさまざまな情報が、“バッファ”としてのモヘンジョダロを経由することで、インダス平原の伝統的な在地社会文化に適した「かたち」に転換され、そして借用されていたのではないか、という説が紹介されました。

(文責・綾塚達郎)

2025.3.28 第6回研究集会 セッション2「未来への物語」

講演:大澤博隆先生「SFセンターと想像学」

冒頭ではSF(science fiction、あるいは“speculative fiction”)と学術のつながりに注目しつつ、ヒューマンエージェントインタラクション、つまり道具ではなく他者としての人工物との相互作用について、これまでの研究の概要を説明した。例えば、デバイスをキャラクター化することで、デバイスの使い方を直感的にユーザーに説明する研究や、社会的なゲームにおける人工知能についての研究を通して、さまざまな技術ユーザーにどのような想像と行動を引き起こすのかを紹介した。

 こうした研究をもとに、「SFとは何か?」という問いを立て、SFが「知見ではなく手法」として、「科学的な推論・技術を用いて提示された設定やそこでの社会・人々を描いた物語群」として、「科学普及手段」として、あるいは「イノベーションの源泉」として、学術にどのような影響をもたらしてきたのかが論じられた。特に、SFを作る過程をアイデア出しに応用する手法である「SFプロトタイピング」によって、社会的圧力を比較的受けにくい形で、社会構造の変化による価値観の転換について議論しやすい場が作られる事例が紹介された。

コメンテーター①:高橋英之先生

ゲームや展示などを通した個人のSF体験と、体験を通して共有される物語の関係について話題提供が行われた。こうした観点から、媒体の選択において、どこまでを受け取り手の想像に委ねるのか? 物語の受け取り手のリテラシーをどのように考えるか? などが議論された。コメントと応答を通して、個人の体験の没入感やインタラクティブ性と、個人間の物語の共有の両立が注目され、物語と現実を地続きに結びつけることの重要性が強調された。

コメンテーター②:鈴木麗璽先生、加藤真紘さん

鈴木麗璽先生は、大規模言語モデル(LLM)を用いたAIエージェントによる言語の進化生態モデルを例に、オープンエンド性と創造性という観点から話題提供をいただきました。LLMを用いて複雑な価値観をモデル化することで、従来の進化モデルに見られた進化の停滞を解消するという試みについて紹介した。

 加藤真紘さんからは特に、SFプロットを題材とした文化進化モデルの構築について紹介された。LLMにより、複雑な意味を持つ情報の伝達と変容をモデル化が可能になり、エージェントに内在する要因が既存の壁を破る様子を説明するモデルが作成できるようになったことが示された。SFが既存の壁を破って価値観の転換を設定することで、現在の世界に対する違和感に訴える「マイノリティーの文学」としての役割を持つということが指摘された。

全体討論

討論では、マイノリティを語るSFとの関連において、「将来的に人格が失われるのであれば、進化的に不要なものであったと言えるのではないか?」といった疑問が投げかけられた。LLMとの関連では、「フィクションにおいて、欠損を持つことや、不自然な言葉をはなすことで”ロボット”をキャラクターとして強調する手法は、LLMの登場によって機能を失うのか?」、「AIは創造的なものを書くモチベーションを持ちうるのか?」といった議題が持ち上がった。その他、物語の創造と作家の専門性に関する議論や、生成A Iと作家の権利に関する議論がなされた。

 小茄子川歩先生は、あらゆる可能性の中から古代の人間の物語を掘り出す考古学と、現在の世界とは異なる世界の可能性を提示するSFとを結びつけ、セッション2とセッション4に通底するテーマを示した。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士後期課程1年  葉柳朝佳音)

2025.3.12-14 国際シンポジウム「Anthropocene Calling II: Humans, Animals, Machines」

2025年3月12日から3月14日にかけて、イタリアのベルガモ大学の連携施設アスティーノ修道院(Monastero di Astino)にて、国際シンポジウム「Anthropocene Calling II: Humans, Animals, Machines」が開催された。本シンポジウムは2024年にローマ大学トル・ヴェルガータ校で行われた国際会議の継続として、「人新世」を主題にすえ、人間中心主義がもたらす諸問題について多角的な検討を行うことを目的としたものである。第一回会議では「自然、技術、言語文化、芸術」の四つの研究分野に紐づいた副題が掲げられたが、第二回となる今回は「人間、動物、機械」といった研究対象を副題の中心とし、より領域横断が可能となった議論が促進された。

ポスター

 シンポジウムでは、まず中村代表から開会の辞が述べられた。さらに、会場であるアスティーノ修道院の管理を担うMIA財団の評議員Rodeschini評議員より、日本とイタリア間の学術協力に対する賛辞と歓迎の辞が述べられた。また、本シンポジウムがベルガモ大学とMIA財団の初の協働の場となったことにも言及された。シンポジウム参加者には、AAAプロジェクト第五班のグループリーダー武田をはじめとするプロジェクトメンバーが、そしてベルガモ大学、ローマ大学トル・ヴェルガータ校、東ピエモンテ大学、スイスのザンクト・ガレン大学の研究者が名を連ね、人文科学から自然科学に至るまで多様で幅広い専門分野の研究者が集い、それぞれの知見に基づいた発表と活発な討議が行われた。さらに、議論は英語、イタリア語、日本語を取り混ぜて行われ、日本とイタリアにおける学術

的協力の深化が確認された(報告文末尾のリストを参照のこと)。本報告書では、三日にわたるシンポジウムで設けられた六つのセッション――自然1、自然2、人間と動物、ロボットと感情、人間・機械・ハビトゥス、芸術とエコロジー――を概観し、それぞれの発表内容を簡潔に要約する。なお、登壇者の氏名については敬称略とする。

会場

 セッション「自然1」では、人新世における人間と自然の関係がどのように再構築されるべきかを、宗教・哲学・地政学の視点から考察した。岡田の発表では、中世キリスト教における復活、輪廻、変容の思想を通じ、固定化されない自然観について検討された。従来のキリスト教的復活は不変の自己を前提とするが、異端とされた変容の概念こそが、現代のエコロジー思考により適合することが示された。参照された作品にはベルガモのコッレオーニ礼拝堂における寄木細工の宗教画や、ベルガモで活躍し影響を与えた画家ロレンツォ・ロットの作品等が取り上げられた。Terrosiの発表では、人新世における自然の人間化、人間の自然化、技術の自律化という三つの疎外が提示された。そして人間・自然・技術間における関係性を批判的に切り離し、個々の存在論を捉え直すことで、それらの関係性を再構築することが検討された。Luisettiの議論では、地球と生命体の関係、および地球を変容させる力を指すジオ・パワー(Geopower)の概念を基軸に、植民地主義的な自然観の克服が論じられた。人新世における地球が直面している環境問題に対し、すべての人間が同等に関与しているのではなく、その起源には植民地主義によるプランテーション新世(Plantationocene)があり、自然は単なる資源ではないことが強調された。これらのテーマを表現しているアーティスト、カロリーナ・カイセドや下道基行の作品が参照された。

 セッション「自然2」における発表では、崇高(Sublime)の概念を軸に、人新世における美学・哲学的視点から論じられた。武田は写真家、畠山直哉の作品を対象とし、そのテーマである崇高について分析した。畠山の作品では自然と人間、自然と技術の関係を同等のものと扱う点に、ロマン主義的な崇高の概念とは異なる要素が見出されることを指摘した。そしてニコラ・ブリオーの人新世的崇高(Anthropocenic Sublime)を参照に、人間と自然の現代的な関係性を捉え直し、人新世における崇高の新たなあり方を提示した。Patellaは一八世紀以降、重要視されてきた自然に対する美的感受性、つまり崇高の概念に焦点をあてた。従来の崇高論では自然を他者性として畏怖する視点(感傷的崇高)と、主体の鏡として内面化する視点(形而上的崇高)が見出される。そして環境危機を背景とした現代においては、不気味さ(Uncanny)が新たな生態学的感情として表出していることを指摘し、三つの崇高の形態を提示した。Heritierは、法と美学の視点から、人間の本質に関する三つの概念(1.homo homini lupus, 2.homo homini deus, 3.homo homini homo)から、プラトンのコーラや京都学派の議論を手がかりに、人間中心主義における自由と責任の新たな基盤、そして多元的社会の基盤について論じた。

 セッション「人間と動物」では、動物やゾンビをはじめとするノン・ヒューマン的な生命と人間の関係性について、イメージ学、ポスト・アポカリプス的表象、共感といった視座から、多様な考察が展開された。二宮は、動物における美的な視覚的表現に焦点を当て、イメージの創造を、種を超えた現象として再考した。そしてダーウィンやポルトマンの議論をもとに、動物もまた創造表現を行う可能性を示唆した。福田は、日本のサブカルチャーにおけるアポカリプスとゾンビの表象を分析するため、特にセカイ系やポスト・セカイ系として分類される作品を取り上げた。社会の再建や原因追求ではなく、崩壊した世界における個人の生き方が強調される点に日本特有のアプローチが見出される。斉藤は行動予測の動的プロセスである共感を主題とし、自己参照的共感と認知的共感が行動予測にどのように寄与するかを調査した。具体的には強化学習モデルを用い、実験参加者が人間のパートナーとノン・ヒューマンのエージェントの意思決定を予測する課題に取り組んだ。その結果、感情的共感と認知的共感という二つの学習プロセスがあることが示され、人間の意思決定の理解において重要な役割を果たしていることが明らかとなった。

 セッション「ロボットと感情」では、人工エージェントと人間の間に生じる感情の認知について、心理学・哲学的な視点から分析が展開された。和泉は、概念空間と(反)敬称の意味論を参照し、脱人間化のレトリックが単に人間性の否定にあるわけではなく、社会的階級における序列を引き下げる格下げ行為にあることを示した。その上で、ノン・ヒューマン的な人工エージェントにおいても言語的に脱人間化されうることを明らかにした。池田は心理学的視点より、人間には幼少期より人間を優先して認識する本能的傾向が見られることを示し、人間が本質的にAIやロボットを自然に受け入れることの困難さを述べた。その克服としてロボットやAIと共存するためには、習慣化された行動様式であるハビトゥスの重要性を論じた。中村・鄭はテキストマイニング手法を用い、フロイトの全著作を分析し、その思想の発展的変遷を明らかにした。k-meansクラスタリングによる分析では第一期(1886-1901)、第二期(1905-1919)、第三期(1919-1939)の時期区分が割り出され、情動、リビドー、衝動という主要な概念の進化が確認された。また構造的トピックモデル(STM)ではフロイトの理論における二つの転換点(1900年、1907年)が示された。その結果、フロイトの持続的なテーマである不安(angst)における主体が、女性から子供へ、さらに人間全般へと拡張していったことが明らかとなった。

 セッション「人間・機械・ハビトゥス」では、人間の行動様式であるハビトゥスがAIや機械技術の発展によってどのように変化し、形成されていくのかが議論された。山本は、技術革新が進み、生活のあらゆる場面で活用されているデータ生成を担う生成AIを取り上げ、生成AIと人間の創造性を取り上げた。そして初音ミクや人格設定を行ったChatGPTと人間の関係性などを例に、生成AIとの共存が精神的健康に与える影響を検討し、新たなハビトゥスの形成について論じた。大平は、神経科学者ジャン=ピエール・シャンジューの論文「ハビトゥスの神経基盤」で主張される、脳内に実装され、身体化されるハビトゥスがどのように形成され、維持され、共有されるのか、その神経メカニズムを明らかにするため、神経科学的視点より考察を行った。その結果、金銭的報酬に関する学習・意思決定と、社会規範や行動の学習・意思決定が、大脳基底核の線条体など、共通する脳領域に依存していることが明らかとなった。さらにはベイズ脳理論の観点から、新たな情報に適応し、世界モデルを構築するメカニズムについても検討した。Verdicchioは、コンピューターが人間をはるかに超える知性を獲得し、人新世を終焉させるマシノシーン(Machinocene)という概念を通じ、断絶する人間と機械の関係ではなく、人間が機械的思考へと適応していく未来像を提示し、人新世の延長としての機械時代を提示した。具体的には歌手Charli XCXや俳優Karla Sofía Gascónらとメディアとの関係やインスタグラムの投稿などを例として取り上げた。本セッションでは、AI時代における人間の適応と進化によって生まれる新たなハビトゥスの可能性について、人間の思考や行動が機械と共にどのように変容するのかを問う議論が展開された。

 セッション「芸術とエコロジー」では、芸術を通じた生命性や環境への新たな視点が探求された。飯沼はリジア・クラークの作品《Bichos》を取り上げ、記号論的アニミズムの観点から分析し、無機物である芸術作品がどのように生命力を宿し得るかについて考察した。鑑賞者が作品を動かすことで生まれる生き物のような特性に着目し、アニミズムの概念を芸術に適用することで、作品の自律性獲得の可能性を提示した。池野は、地球全体を覆い、人間を取り巻く大気や空気をテーマに、人新世時代の現代アートを考察した。まず三上晴子の作品では人間の生活圏を構成する空気とその限界について考察し、そしてブルーノ・ラトゥールの「クリティカル・ゾーンズ」展から、人間とノン・ヒューマンを含むすべてのアクターの行為によって大気が構成されるというラトゥールの思想を分析した。大気は不可視の周囲環境であるだけではなく、テクノロジーや社会、人間との関係性の中で構築されていることを、人新世において再認識する必要があることが確認された。

 総括すれば、本シンポジウムでは、人新世における人間と人間を取り巻く自然環境、および生成AIをはじめとする技術社会という大きな枠組みの中で論が展開された。第一に、人間がノン・ヒューマン的存在とどのように関わっているのか、あるいは関わり方に変化が生じてきているのか、その関係性の変化や相互作用の模索について捉え直すことが試みられた。その対象として人間、動物、自然、機械の本質についての再考が行われた。第二に、人間は生得的に認知することが難しいロボットや生成AIとの新たな関係性が構築される中で、人間らしさや人間との類似性を見出すなど、新たなハビトゥスの探求を行うことが論じられ、それらとの共存可能性といったテーマが深く議論された。これらの発表成果は、人文学、自然科学、社会科学からの学際的視野によって、人間中心主義の限界を再考し、持続可能な社会の構築に向けた新たな知見を深めるものであった。

 さらに国際シンポジウム後には、ミラノのブレラ絵画館およびトリノのロンブローゾ犯罪人類学博物館などを訪問する機会が設けられた。ブレラ絵画館の収蔵作品は、これまで人類が周囲環境とどのように関わってきたかを象徴するものであり、また、ロンブローゾ博物館に展示される心理学的実験器具は、現代のAI技術の先駆とも捉えうるものである。ベルガモにおける国際シンポジウムでは、人新世における現在と未来について主に論じられたが、ミラノやトリノでの実地見学では過去の蓄積により、人新世における人間と環境の関係を改めて考察する契機となった。

 本シンポジウムでの議論を踏まえ、現在進行形の人新世において、今後も一層の活発な研究と議論の継続が求められるであろう。

【シンポジウム 参加者リスト(発表順)】
– Atsushi OKADA, Professor, Kyoto Seika University
– Roberto TERROSI, Researcher, University of Rome Tor Vergata
– Federico LUISETTI, Associate professor, University of St. Gallen
– Giuseppe PATELLA, Professor, University of Rome Tor Vergata

– Paolo HERITIER, Professor, University of Eastern Piedmont

– Nozomu NINOMIYA, JSPS Postdoctoral Fellow / The University of Tokyo
– Asako FUKUDA, Assistant Professor, Professional Institute of International Fashion

– Natsuki SAITO, Researcher, Nagoya University

– Yu IZUMI, Associate professor, Nanzan University / RIKEN AIP
– Shinnosuke IKEDA, Associate professor, Kanazawa University
– Yasuko NAKAMURA, Professor, Nagoya University
– Wanwan ZHENG, Assistant Professor, Nagoya University

– Tetsuya YAMAMOTO, Associate professor, Tokushima University


– Hideki OHIRA, Professor, Nagoya University

– Mario VERDICCHIO, Associate professor, University of Bergamo

– Yoko IINUMA, PhD student, Kyoto University

– Ayako IKENO, Associate professor, Aoyama Gakuin University



(文責:飯沼洋子〔京都大学大学院人間・環境学研究科〕)

2025.3.29 第6回研究集会 セッション3: ジェンダー&セクシュアリティーー通念・多様性・越境

名古屋大学・東山キャンパスで行われたAAAプロジェクト第6回研究集会2日目(2025/3/29)セッション3では、第4班から3名が発表を行った。

🌟鳥山定嗣先生

 鳥山先生はまず、第4班の今後の予定について全体に共有した。具体的には、叢書第4巻の出版スケジュールと構成の計画を、ついで2026年の7月か9月に国際シンポジウムを開催予定であることを報告した。また自身のこれまでの成果としてフランス詩の脚韻におけるジェンダーについての研究を挙げ、今後はバルトの「中性」概念を出発点に言語学や哲学の知見を取り入れ、より広く言語とセクシュアリティの関係を考察したいと述べた。

🌟マリ=ノエル・ボーヴィウ先生

 ボーヴィウ先生は「明治期日本における西洋のアフォリズムと女性嫌悪」と題してこれまでの成果と今後の展望について報告した。

 まず、研究の大きな枠組みとして、言語と言説におけるジェンダー認識の形成について、歴史・文化背景からのアプローチ、文学研究のアプローチ、社会学的文学研究のアプローチの3点から考察する、というように研究対象と研究手法を共有した。次に、これまでの活動報告として、2023年に開催したシンポジウムの論文集『越境するアフォリズム』(アプレミディ)の出版を挙げた。それから自身の具体的な成果報告を行った。まず、近代日本におけるアフォリズム系の形式についての先行研究を紹介し、西洋のアフォリズムから日本のことわざの形式が考察されていたことや、西洋のアフォリズムが西洋近代思想の輸入とレトリック強化のために紹介されていたことを確認した。次に、西洋のアフォリズムと女性というテーマの関係について、女性嫌悪的な例は古くから存在しているが19世紀フランスにおいては性をめぐる言説が変化したことによって女性を男性とまったく異なる存在として扱うようなアフォリズム集が出版されるなどの変化があったことを指摘した。そして、日本では中江兆民と森鴎外がこのような女性嫌悪的アフォリズム集を翻訳出版している。しかしながら、明治時代の女性をめぐる言説は差別一辺倒なわけではなく、たとえば福沢諭吉は西洋の考えを利用して女性の権利を主張していた。女性嫌悪的なアフォリズムを男性向けに訳している中江も、実は一方で女性の権利を唱えてもいる。以上のような調査結果をもとに、女性嫌悪のテーマの特徴や当時の日本における女性嫌悪的言説との関連、翻訳における社会・政治的背景が及ぼす影響について分析を進めていきたいと今後の展望を述べた。

🌟立木康介先生

 立木先生は「最後にもう一度問いたい「同性婚」の意義」と題して、同性婚をめぐる今日的議論のなかで忘れられつつある「反結婚」の思想にいまいちどスポットを当てた。

 立木先生は世界で同性婚が法制化されてきた事実を好意的に受け止めながらも、結婚制度すなわちモノガミーに基づいて家族を形成するという営みそのものを問い直す言説が近年聞かれなくなったことへの違和感から、フランス同性愛運動に最初期からかかわってきた二人の著者Marie-Josèphe BonnetとAlain Nazeにおける反同性婚の議論を紹介した。1970年代にはじまるフランスの同性愛運動は、基本的に「反結婚」(=反家父長制)であり、その点で、やはり70年代に生まれた女性解放運動(フェミニズム)と連帯していた。しかし80年代になると、ミッテラン政権の誕生、同性愛の脱刑罰化、エイズとの闘いを通じて、そこに変化が刻まれ、同性婚の法制化をめざす動きが生まれるに至った。エイズの犠牲になったのは主にゲイ(男性同性愛者)だったこともあり、この動きはレズビアンを置き去りにする形で進んだ。1999年にPACS(市民連帯協定)が制定される過程では、パートナーシップを兄弟姉妹間にも開くCUC(市民結合契約)が検討されたが、あくまで同性婚を見据えた同性愛者たちの反対で見送られ、結婚に準じる制度としてのPACSに落ち着いた。世紀が変わってからは、極右の反イスラム・イデオロギーに同調し、同性愛を禁じるイスラム文化にたいして西洋文明の優位性を訴える観点から、同性婚を支持し、要求する「ホモナショナリスト」たちも現れた。こうした流れを経て、フランスでは2013年に同性婚の法制化がなされるが、その過程でレズビアンは周縁化され、反結婚・反家族の主張もかき消されていった。同性婚の法制化によって、同性カップルが子供をもつ道が拓かれたことで、今後はこれらのカップルが生殖医療の利用者になりうる。結婚制度と並んで、しかしそれとは別の問題として、生殖医療のあり方についても、なお議論を深める余地があるとの見解が、最後に示された。

🌟坂口菊恵先生

 坂口先生は、人文社会学的なアプローチと、相対すると考えられがちな自然科学を背景とした世界認識の融和について、セックス/ジェンダーの多様性を題材に科学史を交えて論じた。

 「ジェンダー」は社会構築主義的な立場から、生物学的な世界観を否定する文脈で用いられがちである。しかしながら、「ジェンダー」という語を言語学の用語を超えて性のありさまを表現するために使い始めたのは性科学者John Moneyであった。Moneyは染色体がXかYかでは2分できない性発達の多様性を表現するために「ジェンダー」という語を導入した。すなわち、ジェンダーとは発達神経内分泌学の概念であった。Moneyはジェンダー・ロール(性役割)発達におよぼす環境の影響を強く見積もり過ぎていたため、「Moneyの双子」としてしられる重大な人権侵害事件のみならず、性分化の特異性(Differences in Sex Development)を持つ子どもたちの治療指針を策定し、残した負の影響も大きかった。

 一方で、以降の行動生物学的な研究がジェンダー・アイデンティティの成因をうまくとらえられなかったのは、客観的な記述のできない内観の存在を説明要因から排除した、近現代科学的世界観に共通する問題である。現在、身体内外からの情報インプットと、それに対する内的イメージとのすり合わせを中心に認知発達の多様性を記述する、自由エネルギー理論(ベイズ脳モデル)を用いてジェンダー・ロール(外向きの表現)とジェンダー・アイデンティティ(内的経験)の異同を論じる途がひらけている。

 ベイズ脳モデルに依拠すると、ASDやサヴァン症候群に見られる「予測をうまく使えない脳」構造と、社会の期待するジェンダー・ロールに自己意識(ジェンダー・アイデンティティ)をうまく同一化できない脳構造が類似しているとして、成人期の性別違和を感覚処理の観点から説明する道筋を示した。次に、そのような感覚処理の特異性と職業選択との関係を明らかにするために実施した調査について報告し、研究者と非研究者のあいだで感覚過敏・鈍麻の差があまり出なかったという分析結果と、感受性という指標が従来型の神経発達症とギフテッド型のそれの違いを予測するものとなる可能性があるという展望を示した。

 3人の発表後に質疑応答が行われた。アイデンティティという概念が集団の連帯に及ぼす影響についての質疑応答では、マイノリティの中のマイノリティの声が聞こえなくなってきているという問題が提起された。また、定型発達とはそもそも何であるのかという問いかけも行われた。1日目の講演者である大澤先生からはマイノリティをフィクションで描く際の倫理について立木先生に質問がなされ、当事者でなくとも当事者のことを深く語れるフィクションの力を重視するべきであり、現実・虚構・真実の3項で考えていくべきだという回答がなされた。

(文責:京都大学大学院文学研究科博士後期課程2年 西村真悟)

2024.11.30 第1回創発知研究会(Auroral: Emerging Assembly)発表要旨

2024年11月30日(土)に第一回創発知研究会を京都大学(@文学研究科部構内 文系学部校舎1F 多目的交流スペース「ぶんこも」)で開催しました。若手研究者のネットワーク形成と異分野間研究の可能性を模索する第一回では、南谷奉良(京大) 、金信行(北陸大) 、鄭弯弯(名大) 、鳥山定嗣(京大)が世話人を務め、15名の研究者の専門分野とその分野を学ぶための参考文献を紹介し、質疑応答を行いました今回の研究会では英米文学、現代アート、表象文化、インド哲学、哲学思想史、感情心理学、数学、機械学習、人工生命といった多様なアプローチが紹介されました。異分野融合の難しさは方法論や使用する概念の相違、問題意識の共有などがありますが、今回の研究会では無理に領域を重ねるのではなく、多様な異分野の研究を知ることからはじめました。以下に、各研究者からの発表内容要旨を紹介いたします。

第一研究発表

  1. 平井尚生(京都大学/英米文学、作家ヴァージニア・ウルフ、ジェンダー・フェミニズム)

 20世紀英国の作家ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』(1928)を取り上げ、女性の生とフィクション=小説=虚構の関係についてのウルフの思想を論じた。特に、冒頭のオックスブリッジ大学の挿話において、ウルフが引用するチャールズ・ラム「休暇中のオックスフォード」(1820)との比較分析を行った。ラムは階級的・経済的理由から、大学教育を受けられなかったが、変装を通じて大学街に溶け込む一方で、同じく大学教育を受けていないウルフは女性であることから決して大学から受け入れられない。この比較分析を通じて、大学という知的生産の場における男性の特権性と女性の疎外が、フィクション=小説の手法によって、有効に描き出されていることを確認した。また、ラムは「エリア」という筆名を通して自らの個を強く表現している一方で、ウルフは、「メアリー・ビートン」という虚構的一人称にとって、歴史から疎外されてきた女性の普遍的な生を表現していることを明らかにした。

2. 飯沼洋子(京都大学/現代アート、ブラジル人アーティストのリジア・クラークについて研究) 

 第一回創発知研究会では、1960年代から70年代にかけた参加型アートにおける芸術経験の共有可能性について、個人研究の紹介を行いました。参加型アートの黎明期に活躍したブラジル人アーティスト、リジア・クラークの芸術実践では、それまでオブジェとしての芸術作品とそれを見つめる鑑賞者といった対立構図を回避し、鑑賞者の作品参加によって得られる芸術経験こそが作品であるとしました。そこでは参加者個人間、つまり私とあなた、私と周囲環境、主体と客体における関係性の再構築が目指されています。発表ではとくに、芸術実践〈食人よだれ〉を提示し、ブラジル近代芸術思想である「食人思想」と精神分析の理論「移行対象」との関連から、どのような主客の関係性が生じるのかについて簡潔に示しました。

3. 肖軼群(京都大学/現代イギリス小説、カズオ・イシグロ、マキューアンなど)

 肖は、「『変身』の文学とカズオ・イシグロ」というタイトルで発表を行った。ここでいう「変身」とは、英語の”metamorphosis”に由来し、元のアイデンティティと決別し、完全に他者へと変容することを指す。カズオ・イシグロの作品はよく「記憶」や「自己欺瞞」などのテーマから論じられるが、それらのテーマの指向する先は、イシグロ自身の伝記的事実と関連している「変身願望」であると主張する。初期作品では日本人からイギリス人への変容、そして近年の作品ではクローン/ロボットから人間になろうとする姿が取り上げられている。設定上の違いはあれど、変身は一貫した大テーマとして繰り返し描かれている。イシグロは、変身を志向する主人公たちの世界を人物描写に限らず、作品内の環境描写などを含めて、多角的に提示しているとのことを発表で紹介した。

4. 福田安佐子(国際ファッション専門職大学/ゾンビ、ポストヒューマニズム、表象文化論)

 発表では、まずゾンビ映画の歴史を概括した。各時代において描かれたモンスターはいずれも植民地主義や冷戦といった時代において登場した「異質な他者」である。さらに、現代において描かれるゾンビが、「理想の人間」のネガとして並置されることに着目し、その背景にはポストヒューマニズムのある種の「ねじれ」があることを分析した。

第二研究発表

  1. 楠元淳平(京都大学/アメリカ南部の作家ウィリアム・フォークナーの研究)

 本研究では、ウィリアム・フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』(1936)に、従来のフェミニズム理論が依拠しがちであった二分法的思考を乗り越える要素が含まれていることを示す。ジュディス・バトラーが述べるように、女性性の男性性に対する優位を主張するフェミニズムの言説はしばしばそれ自体男性中心主義的な身振りを反復しているが、フォークナーはそうした反復に陥らずに男性中心主義を批判しようと試みている。

2. 葉柳朝佳音(大阪大学/哲学思想史)

 20世紀の生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、生物学は生物を物理・科学的メカニズムに解体することなく、生のプロセス全体を扱うためには必要があると考え。そのために彼は生物身体の機能と構造から、生物が生きる環境との関係性の世界、すなわち環世界を記述しようと試みた。本研究では、ユクスキュルの環世界論について、おもに環世界における生物と主体の定義に注目して分析している。

3. 粥川恭輔(金沢大学/感情心理学、生理心理学)

 人は他者の感情を推定する際に,他者の運動や感覚を自身の脳内でシミュレーションするとされている。その際観察者の顔では他者の表情が模倣される。一方で近年の研究では逆に,表情を変化させると他者の感情の推定に影響を与えることが示唆されている。しかしながら,表情の変化を支える運動野との関係性については明らかになっていない。そこで,本研究では一次運動野の興奮性と感情判断の関係性を調査する。

4. ジャスミン・デッラガーディア(千葉大学/宇宙心理学、宇宙倫理)

未提出

5. 田中基規(名古屋大学/インド哲学、ヒンドゥー教)

 第1回創発知研究会では、自身の研究に関する発表を行った。発表の最初に、私がインド哲学、特にサーンキヤ思想を研究していることを伝えた。そして、サーンキヤ思想の特徴と、そのサーンキヤ思想で原理の一つとして考えられている自我意識に着目して、博士後期課程での研究を行っていることを述べた。最後に、他の参加者がインド哲学に馴染みが薄い可能性も考えて、3冊の研究に関連する新書を紹介した。

第三研究発表

  1. 大平健太(名古屋大学/数学、遅れ微分方程式についての研究)

 微分方程式の説明として、ニュートンの運動方程式を具体例として挙げた。そこで基本的な数学・物理用語の説明も行った。遅れ微分方程式のイメージの説明を行った。初期区間条件を元に物理系が決まっていくことを列車に例えた。遅れ微分方程式の実例としてヘイズの方程式を挙げた。遅れを変化させることで物理系の性質が変化することをグラフで表現した。自身の研究している微分方程式 dX(t)/dt + atX(t) = bX(t-τ) とその解がガウシアンの重ね合わせで書けることを紹介した。物理系の概形もグラフにて紹介。

2. 浜野登(名古屋大学/エージェントベースモデル、文化的ニッチ構築、ゲーム理論、社会的粒子群、人工生命)

 社会的粒子群モデルにおける文化的ニッチ構築について発表を行った。題材としたモデルの概要紹介や問いについて説明し、SNSや仮想空間といった交流の場における個体の環境改変が、社会集団の形成にどのような影響を与えるかを比較実験を通じて示した。代表的な実験設定に基づく複数の結果から得られた傾向を分析し、SNSプラットフォーム等の設計や運営において重要と考えられる環境構築についての示唆について論じた。

3. 高見滉平(大阪大学/機械学習、複数LMMエージェントによる社会規範や価値観の創成)

 高見は,人にとって「良い雑談」を提供できる対話システムの構築を目指し,対話相手のセンチメント(感情の極性)を考慮して発話を選択する発話選択モデルを提案した.本モデルを用いた対話システムに関する被験者実験を実施し,アンケート結果からセンチメントを誘導する発話選択が対話の印象を向上させる可能性が示唆された.また,「良い対話とは何か」という問いを起点に,人間のハビトゥスとAI Alignment(AIの目標や行動の整合)の関連性を考察し,LLM(大規模言語モデル)エージェントにおいて,行動に結びついた価値観の創出が観察される可能性や,それがAI Alignmentに寄与する可能性についても言及した.

4. 浅野誉子(名古屋大学/大規模言語モデル、エージェントモデル、文化進化、ミーム、人工生命)

 LLMに基づく会話エージェント間の相互作用による集団形成と文化進化の理解を目的に構成論的モデルを構築.エージェントは不変の遺伝形質(ポジティブ・ネガティブな単語)と他者から得る文化形質に関する文をLLMで生成し近傍相手と接近離反を繰返す.実験からポジティブ個体はネガティブ個体と比較して集団化する傾向が観察できた.文化形質伝達は,共有文化形質の出現,意味ベクトル分布の多方向への広がりなど多様化を促進した.

5. 福田聡也(大阪大学/LLMエージェントを用いた悪口がもたらす社会的ランクの低下に関しての研究)

 LLMエージェントの主体化についての議論した。現状のLLMエージェントの自律性と主体性の関係について考え、道徳的行為者性と関係があるのではないかと考えた。そこで、LLMエージェントの道徳性を検証するために悪口が与える影響をシミュレーションする手法について検討した。また、人文学の観点では悪口と社会ランクの関連性が大きいと提言されているため、LLMエージェントの世界に社会ランクを導入する手法についても検討した。シミュレーションする際の現状の課題を共有し、それに関して有意義な議論を行うことができた。