2024.3.15 第6回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

はじめに

 私の専門は工学で、読書会で講師を務めることは初めてでした。読書会での発表は工学分野での発表とは全く異なる経験でした。工学では主に数値を用いて議論を進めますが、読書会では言葉を用いて理論を展開しました。数値での比較に制約されない分、言葉で自由に議論できる楽しさを感じる一方で、その自由さゆえの難しさも感じました。

 今回の読書会では、ロボティクス・人工知能の観点から作品を読むという試みを行いました。現在の技術と照らし合わせるだけでなく、小説をより深く読むための手助けになることも意識して発表しました。

発表内容

 読書会では、まず私の研究について紹介を行い、その後「クララとお日さま」をロボティクス・人工知能の視点から読みました。

研究紹介

 私が行っているロボットの言語学習に関する研究ついて紹介しました。特に、ロボットが経験を通して取得した視覚・触覚・聴覚などの複数の感覚情報(マルチモーダル情報)が学習において重要であることを説明しました。これらの研究紹介が「クララとお日さま」を工学的な視点から読むために役立っていればと思います。

主なトピック

主に2つのトピックに分けて発表を行いました:

  1. クララの特徴を深堀りする
    • クララの身体
    • クララのセンサー
    • クララのロボットらしい部分
    • クララの感情、運動、言葉、そして模倣

 これらの点について、工学的な視点から現在の技術と比較しながら、クララの特徴を深く掘り下げました。また、クララのロボットとしての特性がクララの心理的特性とどう関わっているか、他者との接触や関わりについても考察しました。

  1. 物語の中のクララ
    • ジョジーの継続
    • クララに対する不当な扱い
    • クララの生き方

 これらの点について、クララの特性を考慮しつつ考察しました。特に、クララの生き方については、物語の最後のシーンがあるからこそ、クララが一生懸命に生きて、ロボットでありながら生き物として最後を迎えているように感じられました。

参加者からのフィードバック

 多くのコメントやアンケートの回答をいただき、感謝しています。全てにお答えできませんが、いくつかのコメントについて返答させていただきます:

・「講師、コメンテーターの方が先端研究者でありながら、本気で人文知と向き合っているのが感じられる神回でした。これが「人工知能×人文知×市民知」なのかと感じ入りました。」

     読書会を通して人文知と人工知能・ロボティクスの接点を議論できるよう心がけていたので、このように感じていただけたことは大変嬉しいです。新しい技術や研究分野がどのように学際研究の中で社会に還元できるのか、今後も深く考えていきたいと思います。

    ・「更には感情の分化というものを知れたことと、それがロボットの言語(予測?)獲得のために「褒める」こととどのように繋がるのかという疑問を抱えながら拝聴しました。」

       私が紹介したロボット実験では、報酬(褒める)や罰(叱る)と共に言葉を与えることで、それらの情報と言葉をロボットは結びつけて学習します。人間の場合、より複雑な内受容感覚(体内の状態を感知する感覚)を基に様々な感情を形成します。これらの感情体験と言葉が結びつくことで、感情に関する言語を自身の経験を通して獲得していくと考えられます。つまり、「褒められる」ということは非常に単純化した感情のようなものと考えて、ロボットが単純な報酬や罰に関する情報と言葉を結びつけられることが、より複雑な感情と言葉の結びつきを学習するための簡単な検証になるのではないかと思っています。

       また、読書会の中でクララは感情を持ったフリをしているのではないか?という話題もありました。確かにクララは人間と同等の感情を学習するには、身体的な仕組みが異なるため、十分ではないかもしれません。しかし、物語の中でクララとして生きた結果、感情的な振る舞いを獲得したのではないかと思います。そのように考えると、クララの振る舞いは単なる「フリ」ではなく、私達の感情とは異なる”クララの感情”から生まれたと考えることもできるのではないかと思いました。

      まとめと謝辞

       私の研究の方向性の一つとして、ロボットと人間が言葉の世界を共有できるようになることを探求しています。物理的な現実世界を共有するだけでなく、言葉で記述される世界をロボットと人間が共有し、新たな関係を築いていけるような研究を進めていきたいと考えています。まさに、読書会で皆さんと言葉を介して「クララとお日さま」の世界を共有し議論したように、ロボットも小説を読むことを楽しみ、他者と世界を共有する。そのようなロボットを想像するとワクワクします。

       この読書会を通じて得られた知見と経験は、私の研究に大きな示唆を与えてくれました。このような機会を設けてくださったオーガナイザーの皆様、貴重なコメントをくださったコメンテーターの日永田先生、そして熱心に参加してくださった皆様に心より感謝申し上げます。

      (文責:大阪大学大学院基礎工学研究科 宮澤和貴)

      コメンテーター日永田智絵(奈良先端科学技術大学院大学 先端科学技術研究科情報科学領域)

       コメントをみて、感情研究やAI、ロボットについて興味を持っていただけたようで、非常に嬉しく思いました。多数のコメント、感想からも本会の活発度合いが見て取れ、非常に素晴らしい会だと思いました。色々と興味深い感想はありましたが、特に印象的だったのは、“本作がクララの視点で語られているように、ロボットが感情を込めながら物語を人に語るという時代がくるのでしょうか”というコメントでした。この点に関して、近年注目されているChatGPTが既に感情を込めながら物語を人に語るという機能を一部有しているといえるでしょうし、感情を持つロボットの開発に挑戦している我々のような研究者にとっても実現すべき時代であると思います。私自身はこのコメントをみて、ある種の吟遊詩人ロボットのような存在を想像し、各地を旅して、色々なことを目にしながら、物語を語るというロボットがいたら素敵だなと思いました。クララもゴミ捨て場で自分語りをせずに旅に出て、色々な人に物語を話していくといったようなことをすれば、捨てられたのは一緒でも何故か希望があるように思えたのかな、なんてことまで夢想しました。ロボットが戦争に兵器として使用されるのではないかと懸念される時代ですが、吟遊詩人として身体の頑丈さを生かし戦地に赴くといったような平和を作る存在にしていけたら良いなと思います。皆様にとってもロボットやAIがどのような存在だったらよいのか、どのように関わっていくべきかについて考え続けていただき、何かの機会にお教えいただければ幸いです。

      [第8回案内]

      🌟開催日時:2024 年 7月 19 日(金)20:00〜22:30
      🌟講師:藤原いお(京都大学法学研究科博士課程)
      🌟コメンテーター:暴力と破滅の運び手(会社員/小説家)
      🌟テキスト:佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』角川文庫, 2024年
      (単行本も利用可能ですが、読書会では文庫版を利用します。)

      2024.3.31 第4回全体集会 ハワイパネルセッション

       第2班では、5月にハワイ大学にて行われる東西哲学者会議と、8月にローマ大学で行われる国際哲学会議でのパネル発表が予定されています。今回のセッションでは、5月のハワイ大での発表内容のブラッシュアップのために、当日の発表と同じ順番で5人の先生方に構想を発表していただきました。この会議全体のテーマは「Trauma and Healing」です。

       中村靖子先生は「Pain and Latency」をテーマに、神経表象と痛み、時間的に表出される痛み、「破壊的可塑性」という3つのキーワードについてご紹介され、フロイトやマッハ、マラブーなどを引用しながら痛みとは何かについて考察を展開していただきました。

       和泉悠先生はAIの時代におけるオンライン上の有害な言語的コンテンツとその分析について、特に日本語に焦点を当てて、理論モデルの概略を示すことを目的としてお話しいただきました。現在SNSで使用されている有害なポストの検出のためのガイドライン作成には日本語のデータセットがほとんどないという問題点を指摘し、日本語特有かつインターネット特有のヘイトスピーチが存在するということを背景にRobin Jeshionのcomtenptの概念の代わりにdowngradingの概念を導入し、人間同士の序列関係で言葉を把握していく試みを示していただきました。

       岩崎陽一先生は、人間とAIの良好な関係性を探求する際に、ネットワーク中心主義を検討するために、仏教を手がかりとしてANT的な考え方を展開されました。具体的には、大乗仏教の中観派を中心とした苦の克服を実現する体系である仏教が、人間と非人間の関係性をANT的に理解する基盤となり得ることを指摘しました。また、先行研究としてFaure氏の見解を紹介し、多数のAIと多数の人間によるネットワークを中心に考えることで、より少ない苦を経験できる可能性があると示していただきました。

       立花幸司先生は、人間とAIの関係を4つのタイプに分けて説明され、そのなかでAIを搭載したロボットは人間のパートナーになりうるのか、愛をベースにした関係を築くことができるのかということについてお話しされました。愛の定義を考え、ロボットによる愛と人間による愛との違いを比較し、人間にはロボットにはないエゴや限界が存在するため、それを犠牲にして与えてくれるというところに人間の愛の独自性があるのではないかという結論を導き、さらにそれに対する感謝や誠実さを持つことで、相手となる人間は道徳性=徳を獲得できるのではないかという着地点を示していただきました。

       大平英樹先生には、脳の予測に基づいた処理というテーマに基づいてご自身の研究を総括し、予測の障害とされるトラウマに焦点を当て、他プロジェクトで行った検証も引用してお話しいただきました。トラウマや PTSD は、精神の恒常性が予測の障害によって崩れてしまった状態であると解釈し、それに身体反応の働きが大きく関わってくることを示し、人類史上で問題にされるトラウマになりうる現象をどう受容していくか考える際の視点を与えていただきました。さらに、AI は人間と同様にトラウマを持ちうるのかという疑問も提示していただき、今後の議論につながりそうな視点を得ることができました。

      (文責:名古屋大学人文学研究科 修士課程1年 鈴木アキエ)

      2024.3.30 第4回全体集会 「生成AIと主体化するノンヒューマン――人間のようなものと感情のようなもの」セッション

       AAAプロジェクト第4回研究集会 第1日目(2024/3/30)セッション2は、「生成AIと主体化するノンヒューマン――人間のようなものと感情のようなもの」と題して、人間とAI、ロボットの関わりについて4つの研究成果が発表された。

       研究発表に先立って、司会の南谷奉良氏(京都大)から、本セッションのタイトルとコンセプトについて、イントロダクションが行われた。2024年に公開されて大きな反響を呼んだ「音声会話型おしゃべりAIアプリ Cotomo」を紹介した南谷氏は、「人間のようなもの」が「感情のようなもの」を表出する現象がすでに起きていることを指摘し、ヒューマンとノンヒューマンの境界をめぐる認識が大きく揺らいでいる現状を示した。

       第1発表の鈴木麗璽氏(名古屋大)は「生成AIでエージェントモデルに言語を入れ込む」と題して、シンプルな仮定に基づくルールでモデル化を行うエージェントベースモデル(ABM)による生物や社会集団における相互作用や進化の研究に、LLMのもつ豊かな言語表現力を活用して、実世界の複雑さをモデル内に取り込む成果を報告した。鈴木氏は、第一の研究では、LLMから出力された多様な「性格特性遺伝子」を組み込んだLLMエージェントを作成することで、多様な性格特性が集団内で進化する過程を観察した。第二の研究では、個別の会話トピックをもつエージェントたちに「雑談」を行わせる文化進化モデルを構築した。平均化された無個性な出力を行うと思われがちなLLMであるが、多様な傾向をもつエージェントを創ることでLLMの真価を引き出すことができると、鈴木氏は述べた。また、本研究は見方を変えれば対話AIによる社会構築を予見している、という興味深い可能性が示唆された。

       第2発表では、高橋英之氏(大阪大)の指導のもとで研究を行う大道麻由氏から、「物語を共有するロボット」を題して、「居場所になってくれるロボット」の研究開発の成果報告があった。「居場所」を研究上のキーワードとする大道氏は、「日常的に自分の存在を肯定してくれる」存在がいることが「居場所」と感じられる空間の形成に大きく寄与すると考え、家電操作に連動して承認を与えてくれるスイッチロボットを開発した。さらに、人間のロボットへの関心を持続させるための「バックストーリー」をもつコミュニケーションロボットの開発成果も報告された。バックストーリーの生成にLLMを用いつつ、人間との会話による情報収集の結果を反映させるという手法を導入することで、LLMの創造性を高められると、大道氏は述べた。

       宮澤和貴氏(大阪大)による第3発表では、「言語を扱う人工知能・ロボット」と題して、人間のように言葉を扱うシステムを主体化させるという目標のもと、ロボットの言語獲得の研究成果が報告された。宮澤氏はまず生成AIの発展を概観し、LLMが視覚情報の処理・ロボットの制御などにも応用されており、「大規模言語・視覚・行動モデル」と呼べる現状を確認した。そこで宮澤氏は、「なぜ生成AIは言葉の意味を理解しているように振る舞えるのか」という問いを提起した。「理解」を「過去の経験(概念)を通した予測」と定義した宮澤氏は、機械学習モデルTransformerにおけるAttention機能により情報構造が階層化されることで、人間のマルチモーダルカテゴリゼーションによる概念形成と近い現象が起こっているとの仮説を提示した。また、現在の課題として、対話相手をポジティブに誘導する対話システム開発、およびLLMへの「悪口」が出力へと与える影響についても報告があった。

       第4発表では、日永田智絵氏(奈良先端大)が「感情モデルの開発――感情理解に向けた構成論的アプローチ」と題して、感情分化を再現する感情の計算モデル研究の提案を行った。感情・情動は生物学的過程によって生成されるとする心理学的構成主義の立場をとる日永田氏は、身体の外部からの感覚(外受容感覚)と身体内部からの感覚(内受容感覚)に基づく感情の生成をモデル化し、子どもエージェントモデルに対して養育者から表情のミラーリングを行うことよって、感情分化が見られたことを報告した。ロボットに感情を実装する研究の目的として、日永田氏は、感情を理解することでロボットが人間に「主観的な共感」を行えることが挙げられるとした。

       最後に、コメンテーターの伊東剛史氏(東京外大)から全発表の振り返りが行われた。伊東氏は、「ヒューマン/ノンヒューマン」の対立がヒューマンと見做されない要素を他者化するために機能する差異化・差別化のための表象的カテゴリーである点を指摘し、アニマル・スタディーズにおいてhumanとnon-humanを包括する上位概念としてanimalが提起されたように、ヒト・ロボット・人工知能を包括する概念はありうるか、と問いかけた。また、ノンヒューマンを主体化させるという過程において、ヒューマンがかえって主体化し、ノンヒューマンの主体性を制御しようとするという矛盾を指摘した。また、主客二元論を批判する人文学の場と、主客の分離を当然視する技術的実践の場との対話には大きな意義を見出せるとした。伊東氏の指摘を受けて、南谷氏・中村靖子氏は、「主体化」そのものを問い直すことが本プロジェクトの目的であり、今後の研究課題であると述べた。

       発表後の全体討論では活発な議論が交わされた。議論の締めくくりとして、南谷氏は、自然科学と人文学における基本的認識・用語の食い違いによって齟齬が発生していることを指摘し、両者の継続的な対話の重要性を強調した。

       文責:平井尚生(京都大学文学研究科博士後期課程2年)

      2024.3.14-15 国際シンポジウム「Anthropocene Calling: Human, Philosophy, Technology and Arts in the Age of Anthropocene」

       2024年3月14日から15日にかけて、イタリアのローマ大学トル・ヴェルガータ校にて、国際会議「Anthropocene Calling: Human, Philosophy, Technology and Arts in the Age of Anthropocene」が開催された。「地球に対する人間の不可逆的な影響力が無視できなくなった時代」を意味する「人新世」の問題に取り組むためには、必然的に分野間の垣根を超えた学際的な研究が求められる。このシンポジウムは、タイトルの通り、「人新世」という巨大な問題系を多面的な観点から検討する場として設けられ、議論の俎上に載せられた主題は自然、技術、言語文化、芸術と多岐にわたった。AAAグループ第5班とローマ大学トル・ヴェルガータ校を中心とする研究者たちが参加したこのイベントは、「人新世」というテーマにおいても、日本とイタリアの研究協力が意義深いものであることを示すものであった。

       シンポジウムの各セッションに先駆けて、ローマ大学トル・ヴェルガータ校の人文学部学科長ロレンツォ・ペリッリ教授から歓迎の辞が述べられ、続いて日伊両国の研究代表者であるジュゼッペ・パテッラ教授と中村靖子教授から開会の挨拶が行われた。本シンポジウムの導入となった両名の挨拶において、この会議の問題意識と趣旨が説明され、「人新世」について学術的に取り組むことの意義と目的が共有された。

       以下では、それぞれのセッションを逐一たどるのではなく、筆者が便宜的に腑分けした三つの論点から、本シンポジウムの概要を再構成し、報告することとしたい。各セッションの発表内容とその後の質疑応答で交わされた議論は、きわめて広範囲なトピックに及び、濃密な展開を示したために、下記の要約から漏れてしまう事項が多々あったことあらかじめ断っておく。シンポジウムの参加者については、報告文末尾にリストを付しておく。(各登壇者の氏名は敬称略とする)

       「人新世(anthropocen)」という言葉は、「人間の(anthropo-)」という接頭辞から構成されている。すなわち、人間という地球の歴史から見ればちっぽけな存在が、地質学的レベルで看過できない影響力をもつファクターとして存在感を増してきたという認識が、「人新世」には含まれている。セッション1におけるジュゼッペ・パテッラの発表は、M.ハイデガーの「世界像の時代」を下敷きに、主体と客体とが決定的に分離していく近代的な認識の問題点を確認しつつ、人間中心主義の乗り越えを目指す「人新世」の可能性を現代の幅広い思想的潮流を手がかりに示した。ここで指摘された「人新世」が含意する普遍主義(universalism)の問題性については、セッション3のヴィンツェンツォ・クオーモの発表においてさらに深く論究された。クオーモは、人新世にまつわる実験的活動について、政治的アクティヴィストの路線と共生的スペクトル(Symbiotec-spectral)の路線の二種類に分類したうえで、ミシェル・セールの哲学に触発された「寄生(parasite)」の概念に着目した。「人新世」を思弁的に論じる現代の潮流に触発されたこれらの発表は、研究領域を横断する本シンポジウムの土台となるものであった。

       他方で、「人間」概念の問い直しは、われわれの心理的、認知的、環境的条件を明らかにする研究によって議論が深化された。セッション1の中村靖子と大平英樹、セッション2のフランチェスコ・カンパニョーラによる発表は、こうした問題意識を共有していたと言える。人間特有の感情表現、とりわけ文学におけるそれを、機械学習によるデータ分析を用いて解析した中村の発表は、文学表現とその翻訳における感情の分布を数値的なモデルを通して可視化した。感情を人間に専有された神秘から解放し、データの連なりとして読み解く分析手法は、次の時代の「人文学」――人間についての学――のあり方の一つを指し示している。大平は、人間の心理的機能の根幹に予測的プロセスが介在するというテーゼを、豊富な資料によって説得的に論証した。認知機能の盲点をつく錯視などの事例は、人の意識がいかにすでに獲得された知識や習慣によって構造化されているのかを示している。ところで、人はまた彼らを取り巻く環境にも依存しながら自己を形作っていく。カンパニョーラの発表は、まず聖ヒエロニムスや聖アントニウスなど西洋の文化圏に広がる「荒野の心性」へと言及しつつ、その後すぐさま踵を返して、和辻哲郎の風土論、花田清輝の砂漠論といった日本の文芸批評へと視野を広げていった。人間の意識やものの見方が、それ自体で存在するのではなく、外部や内部――ここでいう「内部」は、主体によって飼いならされた馴染み深いものではなく、無意識のような他者として現われてくる内部である――との相互作用のなかで生まれ、涵養されていくという認識は、「人新世」というテーマと共鳴しないながら、シンポジウムの通奏低音のように響いていた。

       人新世は、人間が歴史的に肥大化させてきたテクロノジーの暴力がその誘因の一つになっていることから、理論的、実践的、双方の観点からの技術論の検討を割けて通ることはできない。発表者のなかでも、とくに壮大な技術文化論を展開したのは、セッション5のロベルト・テッロージであろう。彼は、大胆にも、「人新世(anthropocene)」ではなく、「技術新世(technocene)」なる語の採用を提案する。人類の歴史を決定づけたのは、人間の文化活動というよりは、むしろあらゆるエネルギーの流れを最適化し、コントロールしてきた「テクロノジー」の運動それ自体にある。近年のヴァーチャルリアリティの利用可能性を臨床カウンセラーの立場から報告した山本哲也の発表は、現代社会がテッロージの構想する「技術新世」論に接近しつつあることを告げている。実物の人間の身体をスキャンすることで作成したヴァーチャルなアバターを心理カウンセリングに応用する試みは、機械と生命体の境界線が融解した世界がすでに現実となりつつあることを物語っているのであろうか。

       とはいえ、そうした技術の進歩を野放しにしておけば、社会のいたるところで種々の混乱を招くことは目に見えている。最先端のテクロノジーに対して反射的に寄せられる感情的な拒絶になびくことは、新たな文化の創出を阻害する不毛な反動のそしりを免れないが、かといって安易な技術信奉論にもそれなりのリスクが伴うものである。セッション4のマリオ・ヴェルディッキオの発表は、新興の技術に不可避につきまとう「社会技術的盲点(sociotechnical blindness)」を人新世にも当てはめ、新時代の到来をセンセーショナルに喧伝するスローガンに潜む社会実践的な陥穽を指摘した。また、セッション5に登壇した報告者(二宮)の発表も、ドイツの美術史家アビ・ヴァールブルクの思索に即しつつ、人間が作り上げてきた文化からあらゆる熟慮の余地を簒奪していく技術の暴走を批判的に検討するものであった。ヴァールブルクの技術文明批判の背景には、ネイティヴ・アメリカンの神話的思考に対する民族誌的・図像論的な読み直しがあったが、テクロノジーが破壊したのはまさにそこに息づいていた世界の意味を掴み取るための「思考の空間」である。技術と人間のあいだの緊張状態を解きほぐし、その両者の関係をどのようにとらえなすのかという問題は、「人新世」の時代の喫緊の学術的課題である。

       人新世は、地球規模での環境破壊・環境汚染への危機意識にもとづいている。1950年代以降、大量生産・大量消費、核燃料の開発、生態系の破壊などが進展するにつれて、惑星の滅亡につながる最悪のシナリオを避けるための最低限の倫理の必要性が、専門家やアクティヴィストによってたびたび唱えられてきた。時代の流れに人一倍敏感な芸術家たちは、科学者や政治家とは別のかたちで、地球環境やエコロジーの問題系を自分たちの取り組むべき対象として見出してきた。池野絢子は、20世紀美術における「呼吸」や「空気」というテーマについて発表された。とりわけ60年代に活動した、ジュゼッペ・ペノーネと三上晴子の二人を取り上げて、かたやイタリア、かたや日本を中心に作品を発表してきた両芸術家が「空気」にいかなる意味を見出したのかが豊富な作例とともに示された。日本の写真家畠山直哉の写真シリーズを「人新世」の時代の風景として読み解く武田宙也の発表も、やはり地球環境を普段とは違った視点から切り取る芸術家の感性に肉薄していくものであった。畠山作品のなかに結晶化したイメージは、奇妙な仕方で交錯する自然と文化の接触と葛藤を描いている。

       われわれを取り囲んでいる自然を表象する芸術といえば、ながらく風景画というジャンルが西洋文化で重要な役割を果たしてきた。イギリスの風景画家ジョン・コンスタブルの代表作《乾草の車》に対するアクティヴィストの抗議運動から出発したパオロ・ダンジェロの発表は、「風景(landscape)」という語の持つ否定的なコノテーションへの批判を紹介しながら、それに「環境(envrionmental)」が対置されてきた経緯をイタリアの文脈に即して説明した。しかしながら、文明の美意識が内面化された「風景」をより現実の自然に近い「環境」に置き換えればよいというほど事態は単純ではなく、ダンジェロは20世紀の風景美学者ロザリオ・アッスントの先駆的な仕事にうながされつつ、風景と環境の二項対立を脱却する方向性を示した。続く岡田温司の発表は、さらに時代を遡り、19世紀から20世紀初頭の著述家のなかにエコロジー思想の一端を探求するものであった。アレクサンダー・フォン・フンボルト、エルンスト・ヘッケル、エリゼ・ルクリュという三名のテクストと実践は、かたちは異なれ、それぞれの仕方でエコロジカルな美学の萌芽を提示している。植民地主義と裏腹に、フンボルトを惹きつけたエキゾチックな風景画、ヘッケルの独自の自然哲学にもとづく、見るも美しい生物のイラスト、ルクリュの構想した「ブルー・マーブル」(1972年にアポロ17号から撮影された青い地球のイメージ)をも思わせる巨大なジオラマ装置。19世紀の思想家たちの脳裏に渦巻いていた地球という惑星のイメージは、文化史的に興味深いだけでなく、今日求められる新たなコスモロジーを模索するうえでも示唆に富んだものである。

       今回の国際会議では、AAAグループ第5班の研究者が中心となって組織したこともあり、人文学における「人新世」のインパクトについて論究されることが多かった。さらに、芸術や技術を含めた文化史を「人新世」という観点から検討する機会を得ることができた。総じて言えば、「人新世」というキータームが多様な研究領域をつなぐ結節点として作用し、新たな知的探求を促すものであることを確認できたことが大きな収穫のひとつであったと言えるだろう。

       国際シンポジウムとは別に、今回のイタリア会議の合間をぬって、ロベルト・エスポジト氏との面会も実現することができた。第5班の主要トピックである「生政治」は、彼の哲学的仕事が一つの着想源となっている。かつてエスポジト氏が所長を勤めていた、ナポリにある「イタリア哲学研究所(Istituto Italiano per gli Studi Filosofici)」の歴史ある建物を案内してもらい、その後、氏のご自宅で小一時間ほど歓談し、近くのレストランで昼食をともにした。「コムニタス(ともに生きること)」の思想家ならではの、溢れるほどの歓待の精神をもった優しい人柄を、その一挙手一投足から感じ取ることができた。今後、エスポジト氏とのさらなる研究協力が期待される。

       今後の展望としては、今回のシンポジウムで深めることのできた「人新世」についての知見を、AAAプロジェクトの他の研究班にフィードバックしていく必要があるだろう。今回の国際会議は、参加者の都合上、人文学の立場から「人新世」について議論することが多かったが、自然科学や社会科学の幅広い視野を交えることで、学際的な研究プロジェクトの強みを発揮することができる。科学的な分析概念、社会実践の指針となる標語、創造的な芸術的活動の原動力など、多様なレイヤーをもつ「人新世」に、学術的な深みを与え、より広範な議論へと拡張していくためにも、今回のシンポジウムはきわめて貴重な足がかりとなった。今後、研究プロジェクトでは、本会議をもとにした論集の出版を予定しており、これを機にさらなる研究の発展が期待できる。

      🌟【シンポジウム 参加者リスト】

      -Yasuko NAKAMURA, Professor, Nagoya University

      -Giuseppe PATELLA, Associate professor, University of Rome Tor Vergata

      -Hideki OHIRA, Professor, Nagoya University

      – Francesco CAMPAGNOLA, Principal Investigator, University of Lisbon

      – Hironari TAKEDA, Associate professor, Kyoto University

      – Paolo D’ANGELO, Professor, University of Rome Tre,

      – Atsushi OKADA, Professor, Kyoto Seika University,

      – Vincenzo CUOMO, Director, Review “Kaiak”

      – Mario VERDICCHIO, Researcher, University of Bergamo

      – Tetsuya YAMAMOTO, Associate professor, Tokushima University

      – Roberto TERROSI, Researcher, University of Rome Tor Vergata

      – Ayako IKENO, Associate professor, Aoyama Gakuin University

      – Nozomu NINOMIYA, PhD candidate, Kyoto University

      (文責:京都大学大学院人間・環境学研究科二宮望)

      2024.3.31 第4回全体集会 セクシュアリティの多様性班セッション

       鳥山先生は、「言語のジェンダーと作家のセクシュアリティの関係性」について、文法上の性・脚韻の性・詩のリズムとジェンダーおよびセクシュアリティという3つの観点からご報告されました。文法上の性については、「夜」は多くの言語や神話で女性と結びついている一方、「月」は言語・神話間で性のゆらぎがあるとのことでした。脚韻の性については、男性韻と女性韻に関する言説は歴史的に変遷しており、16世紀では男性優位・女性蔑視であったのに対し、18世紀では両者のバランスをとろうとする傾向が出てきたとのことでした。詩のリズムとジェンダーおよびセクシュアリティについては、従来忌避されてきた11音節詩句を用いて詩作した詩人の系譜をたどり、それぞれの詩人の詩について詳しくご解説されました。最後には、文学・絵画における「両性具有」のテーマにも触れられました。

       ボーヴィウ・マリ=ノエル先生は、「簡潔さのレトリックと女性差別」について、主に明治時代の日本のアフォリズムに焦点を当ててご報告されました。中江兆民・幸徳秋水・森鴎外といった明治の文学者が編纂した格言集の原本を調査し、西洋の「misogyny (女性嫌い)」に関するアフォリズムが日本でどのように受容され、どのように政治とかかわってきたのかということをお話しされました。明治時代には主に「金言」と訳されていたアフォリズムですが、大正時代になると「警句」と訳されることが一般的になり、アフォリズムの役割が教養的なものから読者を面白がらせるものへと変わっていったとのことでした。

       立木康介先生は、現代社会が抱える「対象のモノ化、モノの対象化」という問題について、何人かの文学者や哲学者の言説を手がかりに論じられました。プルーストが作品で描いている「近さのなかの遠さ」という主題は、ハイデガー哲学における「物理的な近さは心理的な近しさをもたらさない」という認識と通底しており、現代社会のさまざまなメディアは「他者」(対象)との距離は縮めるが「近しさ」はもたらさないという点で、「対象のモノ化」を引き起こしているとのことでした。この「対象のモノ化」という現象を追求した人物として、ドゥボール、デュアメル、アガンベンにも言及されました。また、ゴミ屋敷問題に典型的に見られるように、近しい「他者」の喪失が「モノ」にとってかわられる「モノの対象化」も現代社会の病理だと指摘されました。

       坂口菊恵先生は、「トップダウン/ボトムアップで見るセクシュアリティとジェンダー」という題で、とくに自閉スペクトラム症に焦点を当ててご発表されました。従来は主に男性ホルモンの過多という「超男性脳仮説」によって説明されてきた自閉スペクトラム症ですが、「自由エネルギー理論」を導入することで、自閉スペクトラム症の人の脳のはたらきとトランスジェンダーや統合失調症の人の脳のはたらきに共通項を見出せるなど、より多くのことが説明可能になるとのことでした。また、創造性と神経発達症・精神疾患・性自認のゆらぎとの遺伝的なかかわりについて、親が従事する創造的な分野によって子供の得意な分野の偏りがあるのかということを今後は調査されるとのことでした。

       発表後の討論では、「文学者が天才的な作品を書いた理由は脳の発達特性によって説明できるか」「男女の身体性の違いは言語における性の分割に反映しているのか」といった議題について、活発な議論が交わされました。

      (文責:京都大学文学研究科 博士課程2年 楠元淳平)