2025.3.28-29 2024年度全体研究集会(春)

 当プロジェクト発の研究成果が続々と報告されました。その筆頭が、ちょうど全体研究集会の開催日当日に発刊された書籍、「ことば×データサイエンス【AAA叢書第1巻】」(春風社)になります。この他にも、AAAメンバーによる今後の書籍計画や論文発表についての報告が相次いで行われ、さらなる発展に期待がかかります。

「ことば×データサイエンス【AAA叢書第1巻】」(春風社) 中村靖子、鄭弯弯(編)

 本会では、特別講演のゲストとして、慶應義塾大学の大澤博隆先生、京都大学の小茄子川歩先生にお越しいただきました。先生方にはそれぞれ、「セッション2:未来への物語」、「セッション4:古代からの物語」と対比的なセッションテーマの中で講演していただき、大変興味深いディスカッションが行われました。内容の一部を紹介します。

🌟大澤博隆 先生 「SFセンターと想像学」

「ロボットに抱っこされたとき、感動しました」

 学生時代、ロボットがシンプルなアルゴリズムで動くのを知っていながらなお、「あぁ、いいな」と、意外な感想を抱いたと言います。専門分野のヒューマンエージェントインタラクションの道へ進むことを決めたきっかけとなりました。たとえば日常的な家電も、“便利な道具”を超えて、“他者としての人工物”にできるのではないか?人と道具の間に、今までに無かったような相互作用を可能とすることで、単なる人間の身体拡張に終わらない、どこか他者性を感じさせるようなエージェントの開発に研究として取り組みました。

 現在、ロボット技術や人工知能は目覚ましい発展を遂げ、人間社会に深く入り込みつつあります。そう遠くない未来において、こうした技術とどう向き合い共生することができるのか、私たちの想像力が試されています。「人間の想像力は機械共生社会において、どうあるべきか?」このリサーチクエスチョンを掲げた研究テーマ「ポストヒューマン社会のための想像学」は、科学技術振興機構の「課題設定による先導的人文学・社会科学研究推進事業」の「学術知共創プログラム」において、2024年度の研究テーマとして採択されました。この中では特に、科学技術と社会のあり方を探るジャンルとして誕生したサイエンスフィクション(SF)が、その問いの答えを探る大きな可能性として鍵を握っています。

🌟小茄子川歩 先生 「人類史におけるもう一つの『文明』、そして『バッファ』について」

 文明の発展と聞くと、人びとのどのような営みを想像するでしょうか。狩猟採集生活から農耕牧畜生活へ、やがて余剰がうまれ、小さな農村は大きな都市へと発展する。そして管理運営機構が生まれ、中央集権的な国家が誕生し、支配階級の人びとのもと、第一次産業に従事する人びとだけでなく、工人や商人、神官といった専門職業人がさまざまな活動がおこなうようになる。たとえばこうした発展段階的なプロセスを想像してしまうのではないでしょうか。

 マルセル・モースの「文明」論を発展的に継承したデヴィット・グレーバーとデヴィット・ウェングロウは、それとは異なる「文明」のあり方を説きました。歴史的状況や歴史地理的状況、社会学的状況、文化的状況、そして生態学的状況と、各地・時代の人びとがおかれたさまざまな「状況」に、人びとがボトムアップ式に「政治」的に対応するなかで「文明」は創りだされます。「文明」間において交流や借用の拒絶がありつつも、どの「文明」が野蛮、未開などというのではなく、さまざまな「形態(フォルム)」の「文明」が当たり前のように併存します。「文明」とは、必ずしも中央集権的な国家に向かうことを意味するのではなく、“自発的連合による組織化を可能にする「政治」的知恵や相互扶助の特性こそが「文明」である”と考えます。いわば、ボトムアップで成り立つ「文明」といえるでしょうか。

 その代表的なものとして、比較考古学が専門の小茄子川先生が研究を進めるのがインダス「文明」社会です。中でも紀元前約2600~2400年ごろ、インダス平原において人びとは、その「状況」への「政治」的な対応として、大きな都市にのみ集住せず、人口をひろく散在させたがゆえに、各地方には多様な文化社会が根付いていました。発掘調査の成果からは、ここに国家的権力や支配・暴力の痕跡は見当たらないそうです。また同時代に交流のあった、すでに国家段階にあったと考えられるメソポタミア文明社会に同化されることもありませんでした。このときのメソポタミア文明社会との交流において、“バッファ”の役割を果たしていたのではないかとされるのが、パキスタンの世界遺産となっている古代都市遺跡、モヘンジョダロです。乾季に人びとが集まる交易センターとなっていたのではないかと推察されますが、雨期時には大規模な洪水の危険性が高まるため、季節的に解体されることを前提とした「都市」であったと考えられます。メソポタミア文明社会の財や知、価値をはじめとしたさまざまな情報が、“バッファ”としてのモヘンジョダロを経由することで、インダス平原の伝統的な在地社会文化に適した「かたち」に転換され、そして借用されていたのではないか、という説が紹介されました。

(文責・綾塚達郎)

2025.3.28 第6回研究集会 セッション2「未来への物語」

講演:大澤博隆先生「SFセンターと想像学」

冒頭ではSF(science fiction、あるいは“speculative fiction”)と学術のつながりに注目しつつ、ヒューマンエージェントインタラクション、つまり道具ではなく他者としての人工物との相互作用について、これまでの研究の概要を説明した。例えば、デバイスをキャラクター化することで、デバイスの使い方を直感的にユーザーに説明する研究や、社会的なゲームにおける人工知能についての研究を通して、さまざまな技術ユーザーにどのような想像と行動を引き起こすのかを紹介した。

 こうした研究をもとに、「SFとは何か?」という問いを立て、SFが「知見ではなく手法」として、「科学的な推論・技術を用いて提示された設定やそこでの社会・人々を描いた物語群」として、「科学普及手段」として、あるいは「イノベーションの源泉」として、学術にどのような影響をもたらしてきたのかが論じられた。特に、SFを作る過程をアイデア出しに応用する手法である「SFプロトタイピング」によって、社会的圧力を比較的受けにくい形で、社会構造の変化による価値観の転換について議論しやすい場が作られる事例が紹介された。

コメンテーター①:高橋英之先生

ゲームや展示などを通した個人のSF体験と、体験を通して共有される物語の関係について話題提供が行われた。こうした観点から、媒体の選択において、どこまでを受け取り手の想像に委ねるのか? 物語の受け取り手のリテラシーをどのように考えるか? などが議論された。コメントと応答を通して、個人の体験の没入感やインタラクティブ性と、個人間の物語の共有の両立が注目され、物語と現実を地続きに結びつけることの重要性が強調された。

コメンテーター②:鈴木麗璽先生、加藤真紘さん

鈴木麗璽先生は、大規模言語モデル(LLM)を用いたAIエージェントによる言語の進化生態モデルを例に、オープンエンド性と創造性という観点から話題提供をいただきました。LLMを用いて複雑な価値観をモデル化することで、従来の進化モデルに見られた進化の停滞を解消するという試みについて紹介した。

 加藤真紘さんからは特に、SFプロットを題材とした文化進化モデルの構築について紹介された。LLMにより、複雑な意味を持つ情報の伝達と変容をモデル化が可能になり、エージェントに内在する要因が既存の壁を破る様子を説明するモデルが作成できるようになったことが示された。SFが既存の壁を破って価値観の転換を設定することで、現在の世界に対する違和感に訴える「マイノリティーの文学」としての役割を持つということが指摘された。

全体討論

討論では、マイノリティを語るSFとの関連において、「将来的に人格が失われるのであれば、進化的に不要なものであったと言えるのではないか?」といった疑問が投げかけられた。LLMとの関連では、「フィクションにおいて、欠損を持つことや、不自然な言葉をはなすことで”ロボット”をキャラクターとして強調する手法は、LLMの登場によって機能を失うのか?」、「AIは創造的なものを書くモチベーションを持ちうるのか?」といった議題が持ち上がった。その他、物語の創造と作家の専門性に関する議論や、生成A Iと作家の権利に関する議論がなされた。

 小茄子川歩先生は、あらゆる可能性の中から古代の人間の物語を掘り出す考古学と、現在の世界とは異なる世界の可能性を提示するSFとを結びつけ、セッション2とセッション4に通底するテーマを示した。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士後期課程1年  葉柳朝佳音)

[第10回案内]

🌟開催日時:2025年5月16日(金)20:00〜22:30
🌟講師:三神弘子(元早稲田大学教授)・小林広直(東洋学園大学准教授)
🌟テキスト:メアリー・コラム『人生と夢と』多田稔監訳、三神弘子・小林広直訳、幻戯書房、2025

2025.3.12-14 国際シンポジウム「Anthropocene Calling II: Humans, Animals, Machines」

2025年3月12日から3月14日にかけて、イタリアのベルガモ大学の連携施設アスティーノ修道院(Monastero di Astino)にて、国際シンポジウム「Anthropocene Calling II: Humans, Animals, Machines」が開催された。本シンポジウムは2024年にローマ大学トル・ヴェルガータ校で行われた国際会議の継続として、「人新世」を主題にすえ、人間中心主義がもたらす諸問題について多角的な検討を行うことを目的としたものである。第一回会議では「自然、技術、言語文化、芸術」の四つの研究分野に紐づいた副題が掲げられたが、第二回となる今回は「人間、動物、機械」といった研究対象を副題の中心とし、より領域横断が可能となった議論が促進された。

ポスター

 シンポジウムでは、まず中村代表から開会の辞が述べられた。さらに、会場であるアスティーノ修道院の管理を担うMIA財団の評議員Rodeschini評議員より、日本とイタリア間の学術協力に対する賛辞と歓迎の辞が述べられた。また、本シンポジウムがベルガモ大学とMIA財団の初の協働の場となったことにも言及された。シンポジウム参加者には、AAAプロジェクト第五班のグループリーダー武田をはじめとするプロジェクトメンバーが、そしてベルガモ大学、ローマ大学トル・ヴェルガータ校、東ピエモンテ大学、スイスのザンクト・ガレン大学の研究者が名を連ね、人文科学から自然科学に至るまで多様で幅広い専門分野の研究者が集い、それぞれの知見に基づいた発表と活発な討議が行われた。さらに、議論は英語、イタリア語、日本語を取り混ぜて行われ、日本とイタリアにおける学術

的協力の深化が確認された(報告文末尾のリストを参照のこと)。本報告書では、三日にわたるシンポジウムで設けられた六つのセッション――自然1、自然2、人間と動物、ロボットと感情、人間・機械・ハビトゥス、芸術とエコロジー――を概観し、それぞれの発表内容を簡潔に要約する。なお、登壇者の氏名については敬称略とする。

会場

 セッション「自然1」では、人新世における人間と自然の関係がどのように再構築されるべきかを、宗教・哲学・地政学の視点から考察した。岡田の発表では、中世キリスト教における復活、輪廻、変容の思想を通じ、固定化されない自然観について検討された。従来のキリスト教的復活は不変の自己を前提とするが、異端とされた変容の概念こそが、現代のエコロジー思考により適合することが示された。参照された作品にはベルガモのコッレオーニ礼拝堂における寄木細工の宗教画や、ベルガモで活躍し影響を与えた画家ロレンツォ・ロットの作品等が取り上げられた。Terrosiの発表では、人新世における自然の人間化、人間の自然化、技術の自律化という三つの疎外が提示された。そして人間・自然・技術間における関係性を批判的に切り離し、個々の存在論を捉え直すことで、それらの関係性を再構築することが検討された。Luisettiの議論では、地球と生命体の関係、および地球を変容させる力を指すジオ・パワー(Geopower)の概念を基軸に、植民地主義的な自然観の克服が論じられた。人新世における地球が直面している環境問題に対し、すべての人間が同等に関与しているのではなく、その起源には植民地主義によるプランテーション新世(Plantationocene)があり、自然は単なる資源ではないことが強調された。これらのテーマを表現しているアーティスト、カロリーナ・カイセドや下道基行の作品が参照された。

 セッション「自然2」における発表では、崇高(Sublime)の概念を軸に、人新世における美学・哲学的視点から論じられた。武田は写真家、畠山直哉の作品を対象とし、そのテーマである崇高について分析した。畠山の作品では自然と人間、自然と技術の関係を同等のものと扱う点に、ロマン主義的な崇高の概念とは異なる要素が見出されることを指摘した。そしてニコラ・ブリオーの人新世的崇高(Anthropocenic Sublime)を参照に、人間と自然の現代的な関係性を捉え直し、人新世における崇高の新たなあり方を提示した。Patellaは一八世紀以降、重要視されてきた自然に対する美的感受性、つまり崇高の概念に焦点をあてた。従来の崇高論では自然を他者性として畏怖する視点(感傷的崇高)と、主体の鏡として内面化する視点(形而上的崇高)が見出される。そして環境危機を背景とした現代においては、不気味さ(Uncanny)が新たな生態学的感情として表出していることを指摘し、三つの崇高の形態を提示した。Heritierは、法と美学の視点から、人間の本質に関する三つの概念(1.homo homini lupus, 2.homo homini deus, 3.homo homini homo)から、プラトンのコーラや京都学派の議論を手がかりに、人間中心主義における自由と責任の新たな基盤、そして多元的社会の基盤について論じた。

 セッション「人間と動物」では、動物やゾンビをはじめとするノン・ヒューマン的な生命と人間の関係性について、イメージ学、ポスト・アポカリプス的表象、共感といった視座から、多様な考察が展開された。二宮は、動物における美的な視覚的表現に焦点を当て、イメージの創造を、種を超えた現象として再考した。そしてダーウィンやポルトマンの議論をもとに、動物もまた創造表現を行う可能性を示唆した。福田は、日本のサブカルチャーにおけるアポカリプスとゾンビの表象を分析するため、特にセカイ系やポスト・セカイ系として分類される作品を取り上げた。社会の再建や原因追求ではなく、崩壊した世界における個人の生き方が強調される点に日本特有のアプローチが見出される。斉藤は行動予測の動的プロセスである共感を主題とし、自己参照的共感と認知的共感が行動予測にどのように寄与するかを調査した。具体的には強化学習モデルを用い、実験参加者が人間のパートナーとノン・ヒューマンのエージェントの意思決定を予測する課題に取り組んだ。その結果、感情的共感と認知的共感という二つの学習プロセスがあることが示され、人間の意思決定の理解において重要な役割を果たしていることが明らかとなった。

 セッション「ロボットと感情」では、人工エージェントと人間の間に生じる感情の認知について、心理学・哲学的な視点から分析が展開された。和泉は、概念空間と(反)敬称の意味論を参照し、脱人間化のレトリックが単に人間性の否定にあるわけではなく、社会的階級における序列を引き下げる格下げ行為にあることを示した。その上で、ノン・ヒューマン的な人工エージェントにおいても言語的に脱人間化されうることを明らかにした。池田は心理学的視点より、人間には幼少期より人間を優先して認識する本能的傾向が見られることを示し、人間が本質的にAIやロボットを自然に受け入れることの困難さを述べた。その克服としてロボットやAIと共存するためには、習慣化された行動様式であるハビトゥスの重要性を論じた。中村・鄭はテキストマイニング手法を用い、フロイトの全著作を分析し、その思想の発展的変遷を明らかにした。k-meansクラスタリングによる分析では第一期(1886-1901)、第二期(1905-1919)、第三期(1919-1939)の時期区分が割り出され、情動、リビドー、衝動という主要な概念の進化が確認された。また構造的トピックモデル(STM)ではフロイトの理論における二つの転換点(1900年、1907年)が示された。その結果、フロイトの持続的なテーマである不安(angst)における主体が、女性から子供へ、さらに人間全般へと拡張していったことが明らかとなった。

 セッション「人間・機械・ハビトゥス」では、人間の行動様式であるハビトゥスがAIや機械技術の発展によってどのように変化し、形成されていくのかが議論された。山本は、技術革新が進み、生活のあらゆる場面で活用されているデータ生成を担う生成AIを取り上げ、生成AIと人間の創造性を取り上げた。そして初音ミクや人格設定を行ったChatGPTと人間の関係性などを例に、生成AIとの共存が精神的健康に与える影響を検討し、新たなハビトゥスの形成について論じた。大平は、神経科学者ジャン=ピエール・シャンジューの論文「ハビトゥスの神経基盤」で主張される、脳内に実装され、身体化されるハビトゥスがどのように形成され、維持され、共有されるのか、その神経メカニズムを明らかにするため、神経科学的視点より考察を行った。その結果、金銭的報酬に関する学習・意思決定と、社会規範や行動の学習・意思決定が、大脳基底核の線条体など、共通する脳領域に依存していることが明らかとなった。さらにはベイズ脳理論の観点から、新たな情報に適応し、世界モデルを構築するメカニズムについても検討した。Verdicchioは、コンピューターが人間をはるかに超える知性を獲得し、人新世を終焉させるマシノシーン(Machinocene)という概念を通じ、断絶する人間と機械の関係ではなく、人間が機械的思考へと適応していく未来像を提示し、人新世の延長としての機械時代を提示した。具体的には歌手Charli XCXや俳優Karla Sofía Gascónらとメディアとの関係やインスタグラムの投稿などを例として取り上げた。本セッションでは、AI時代における人間の適応と進化によって生まれる新たなハビトゥスの可能性について、人間の思考や行動が機械と共にどのように変容するのかを問う議論が展開された。

 セッション「芸術とエコロジー」では、芸術を通じた生命性や環境への新たな視点が探求された。飯沼はリジア・クラークの作品《Bichos》を取り上げ、記号論的アニミズムの観点から分析し、無機物である芸術作品がどのように生命力を宿し得るかについて考察した。鑑賞者が作品を動かすことで生まれる生き物のような特性に着目し、アニミズムの概念を芸術に適用することで、作品の自律性獲得の可能性を提示した。池野は、地球全体を覆い、人間を取り巻く大気や空気をテーマに、人新世時代の現代アートを考察した。まず三上晴子の作品では人間の生活圏を構成する空気とその限界について考察し、そしてブルーノ・ラトゥールの「クリティカル・ゾーンズ」展から、人間とノン・ヒューマンを含むすべてのアクターの行為によって大気が構成されるというラトゥールの思想を分析した。大気は不可視の周囲環境であるだけではなく、テクノロジーや社会、人間との関係性の中で構築されていることを、人新世において再認識する必要があることが確認された。

 総括すれば、本シンポジウムでは、人新世における人間と人間を取り巻く自然環境、および生成AIをはじめとする技術社会という大きな枠組みの中で論が展開された。第一に、人間がノン・ヒューマン的存在とどのように関わっているのか、あるいは関わり方に変化が生じてきているのか、その関係性の変化や相互作用の模索について捉え直すことが試みられた。その対象として人間、動物、自然、機械の本質についての再考が行われた。第二に、人間は生得的に認知することが難しいロボットや生成AIとの新たな関係性が構築される中で、人間らしさや人間との類似性を見出すなど、新たなハビトゥスの探求を行うことが論じられ、それらとの共存可能性といったテーマが深く議論された。これらの発表成果は、人文学、自然科学、社会科学からの学際的視野によって、人間中心主義の限界を再考し、持続可能な社会の構築に向けた新たな知見を深めるものであった。

 さらに国際シンポジウム後には、ミラノのブレラ絵画館およびトリノのロンブローゾ犯罪人類学博物館などを訪問する機会が設けられた。ブレラ絵画館の収蔵作品は、これまで人類が周囲環境とどのように関わってきたかを象徴するものであり、また、ロンブローゾ博物館に展示される心理学的実験器具は、現代のAI技術の先駆とも捉えうるものである。ベルガモにおける国際シンポジウムでは、人新世における現在と未来について主に論じられたが、ミラノやトリノでの実地見学では過去の蓄積により、人新世における人間と環境の関係を改めて考察する契機となった。

 本シンポジウムでの議論を踏まえ、現在進行形の人新世において、今後も一層の活発な研究と議論の継続が求められるであろう。

【シンポジウム 参加者リスト(発表順)】
– Atsushi OKADA, Professor, Kyoto Seika University
– Roberto TERROSI, Researcher, University of Rome Tor Vergata
– Federico LUISETTI, Associate professor, University of St. Gallen
– Giuseppe PATELLA, Professor, University of Rome Tor Vergata

– Paolo HERITIER, Professor, University of Eastern Piedmont

– Nozomu NINOMIYA, JSPS Postdoctoral Fellow / The University of Tokyo
– Asako FUKUDA, Assistant Professor, Professional Institute of International Fashion

– Natsuki SAITO, Researcher, Nagoya University

– Yu IZUMI, Associate professor, Nanzan University / RIKEN AIP
– Shinnosuke IKEDA, Associate professor, Kanazawa University
– Yasuko NAKAMURA, Professor, Nagoya University
– Wanwan ZHENG, Assistant Professor, Nagoya University

– Tetsuya YAMAMOTO, Associate professor, Tokushima University


– Hideki OHIRA, Professor, Nagoya University

– Mario VERDICCHIO, Associate professor, University of Bergamo

– Yoko IINUMA, PhD student, Kyoto University

– Ayako IKENO, Associate professor, Aoyama Gakuin University



(文責:飯沼洋子〔京都大学大学院人間・環境学研究科〕)

2025.3.29 第6回研究集会 セッション3: ジェンダー&セクシュアリティーー通念・多様性・越境

名古屋大学・東山キャンパスで行われたAAAプロジェクト第6回研究集会2日目(2025/3/29)セッション3では、第4班から3名が発表を行った。

🌟鳥山定嗣先生

 鳥山先生はまず、第4班の今後の予定について全体に共有した。具体的には、叢書第4巻の出版スケジュールと構成の計画を、ついで2026年の7月か9月に国際シンポジウムを開催予定であることを報告した。また自身のこれまでの成果としてフランス詩の脚韻におけるジェンダーについての研究を挙げ、今後はバルトの「中性」概念を出発点に言語学や哲学の知見を取り入れ、より広く言語とセクシュアリティの関係を考察したいと述べた。

🌟マリ=ノエル・ボーヴィウ先生

 ボーヴィウ先生は「明治期日本における西洋のアフォリズムと女性嫌悪」と題してこれまでの成果と今後の展望について報告した。

 まず、研究の大きな枠組みとして、言語と言説におけるジェンダー認識の形成について、歴史・文化背景からのアプローチ、文学研究のアプローチ、社会学的文学研究のアプローチの3点から考察する、というように研究対象と研究手法を共有した。次に、これまでの活動報告として、2023年に開催したシンポジウムの論文集『越境するアフォリズム』(アプレミディ)の出版を挙げた。それから自身の具体的な成果報告を行った。まず、近代日本におけるアフォリズム系の形式についての先行研究を紹介し、西洋のアフォリズムから日本のことわざの形式が考察されていたことや、西洋のアフォリズムが西洋近代思想の輸入とレトリック強化のために紹介されていたことを確認した。次に、西洋のアフォリズムと女性というテーマの関係について、女性嫌悪的な例は古くから存在しているが19世紀フランスにおいては性をめぐる言説が変化したことによって女性を男性とまったく異なる存在として扱うようなアフォリズム集が出版されるなどの変化があったことを指摘した。そして、日本では中江兆民と森鴎外がこのような女性嫌悪的アフォリズム集を翻訳出版している。しかしながら、明治時代の女性をめぐる言説は差別一辺倒なわけではなく、たとえば福沢諭吉は西洋の考えを利用して女性の権利を主張していた。女性嫌悪的なアフォリズムを男性向けに訳している中江も、実は一方で女性の権利を唱えてもいる。以上のような調査結果をもとに、女性嫌悪のテーマの特徴や当時の日本における女性嫌悪的言説との関連、翻訳における社会・政治的背景が及ぼす影響について分析を進めていきたいと今後の展望を述べた。

🌟立木康介先生

 立木先生は「最後にもう一度問いたい「同性婚」の意義」と題して、同性婚をめぐる今日的議論のなかで忘れられつつある「反結婚」の思想にいまいちどスポットを当てた。

 立木先生は世界で同性婚が法制化されてきた事実を好意的に受け止めながらも、結婚制度すなわちモノガミーに基づいて家族を形成するという営みそのものを問い直す言説が近年聞かれなくなったことへの違和感から、フランス同性愛運動に最初期からかかわってきた二人の著者Marie-Josèphe BonnetとAlain Nazeにおける反同性婚の議論を紹介した。1970年代にはじまるフランスの同性愛運動は、基本的に「反結婚」(=反家父長制)であり、その点で、やはり70年代に生まれた女性解放運動(フェミニズム)と連帯していた。しかし80年代になると、ミッテラン政権の誕生、同性愛の脱刑罰化、エイズとの闘いを通じて、そこに変化が刻まれ、同性婚の法制化をめざす動きが生まれるに至った。エイズの犠牲になったのは主にゲイ(男性同性愛者)だったこともあり、この動きはレズビアンを置き去りにする形で進んだ。1999年にPACS(市民連帯協定)が制定される過程では、パートナーシップを兄弟姉妹間にも開くCUC(市民結合契約)が検討されたが、あくまで同性婚を見据えた同性愛者たちの反対で見送られ、結婚に準じる制度としてのPACSに落ち着いた。世紀が変わってからは、極右の反イスラム・イデオロギーに同調し、同性愛を禁じるイスラム文化にたいして西洋文明の優位性を訴える観点から、同性婚を支持し、要求する「ホモナショナリスト」たちも現れた。こうした流れを経て、フランスでは2013年に同性婚の法制化がなされるが、その過程でレズビアンは周縁化され、反結婚・反家族の主張もかき消されていった。同性婚の法制化によって、同性カップルが子供をもつ道が拓かれたことで、今後はこれらのカップルが生殖医療の利用者になりうる。結婚制度と並んで、しかしそれとは別の問題として、生殖医療のあり方についても、なお議論を深める余地があるとの見解が、最後に示された。

🌟坂口菊恵先生

 坂口先生は、人文社会学的なアプローチと、相対すると考えられがちな自然科学を背景とした世界認識の融和について、セックス/ジェンダーの多様性を題材に科学史を交えて論じた。

 「ジェンダー」は社会構築主義的な立場から、生物学的な世界観を否定する文脈で用いられがちである。しかしながら、「ジェンダー」という語を言語学の用語を超えて性のありさまを表現するために使い始めたのは性科学者John Moneyであった。Moneyは染色体がXかYかでは2分できない性発達の多様性を表現するために「ジェンダー」という語を導入した。すなわち、ジェンダーとは発達神経内分泌学の概念であった。Moneyはジェンダー・ロール(性役割)発達におよぼす環境の影響を強く見積もり過ぎていたため、「Moneyの双子」としてしられる重大な人権侵害事件のみならず、性分化の特異性(Differences in Sex Development)を持つ子どもたちの治療指針を策定し、残した負の影響も大きかった。

 一方で、以降の行動生物学的な研究がジェンダー・アイデンティティの成因をうまくとらえられなかったのは、客観的な記述のできない内観の存在を説明要因から排除した、近現代科学的世界観に共通する問題である。現在、身体内外からの情報インプットと、それに対する内的イメージとのすり合わせを中心に認知発達の多様性を記述する、自由エネルギー理論(ベイズ脳モデル)を用いてジェンダー・ロール(外向きの表現)とジェンダー・アイデンティティ(内的経験)の異同を論じる途がひらけている。

 ベイズ脳モデルに依拠すると、ASDやサヴァン症候群に見られる「予測をうまく使えない脳」構造と、社会の期待するジェンダー・ロールに自己意識(ジェンダー・アイデンティティ)をうまく同一化できない脳構造が類似しているとして、成人期の性別違和を感覚処理の観点から説明する道筋を示した。次に、そのような感覚処理の特異性と職業選択との関係を明らかにするために実施した調査について報告し、研究者と非研究者のあいだで感覚過敏・鈍麻の差があまり出なかったという分析結果と、感受性という指標が従来型の神経発達症とギフテッド型のそれの違いを予測するものとなる可能性があるという展望を示した。

 3人の発表後に質疑応答が行われた。アイデンティティという概念が集団の連帯に及ぼす影響についての質疑応答では、マイノリティの中のマイノリティの声が聞こえなくなってきているという問題が提起された。また、定型発達とはそもそも何であるのかという問いかけも行われた。1日目の講演者である大澤先生からはマイノリティをフィクションで描く際の倫理について立木先生に質問がなされ、当事者でなくとも当事者のことを深く語れるフィクションの力を重視するべきであり、現実・虚構・真実の3項で考えていくべきだという回答がなされた。

(文責:京都大学大学院文学研究科博士後期課程2年 西村真悟)

2024.11.30 第1回創発知研究会(Auroral: Emerging Assembly)発表要旨

2024年11月30日(土)に第一回創発知研究会を京都大学(@文学研究科部構内 文系学部校舎1F 多目的交流スペース「ぶんこも」)で開催しました。若手研究者のネットワーク形成と異分野間研究の可能性を模索する第一回では、南谷奉良(京大) 、金信行(北陸大) 、鄭弯弯(名大) 、鳥山定嗣(京大)が世話人を務め、15名の研究者の専門分野とその分野を学ぶための参考文献を紹介し、質疑応答を行いました今回の研究会では英米文学、現代アート、表象文化、インド哲学、哲学思想史、感情心理学、数学、機械学習、人工生命といった多様なアプローチが紹介されました。異分野融合の難しさは方法論や使用する概念の相違、問題意識の共有などがありますが、今回の研究会では無理に領域を重ねるのではなく、多様な異分野の研究を知ることからはじめました。以下に、各研究者からの発表内容要旨を紹介いたします。

第一研究発表

  1. 平井尚生(京都大学/英米文学、作家ヴァージニア・ウルフ、ジェンダー・フェミニズム)

 20世紀英国の作家ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』(1928)を取り上げ、女性の生とフィクション=小説=虚構の関係についてのウルフの思想を論じた。特に、冒頭のオックスブリッジ大学の挿話において、ウルフが引用するチャールズ・ラム「休暇中のオックスフォード」(1820)との比較分析を行った。ラムは階級的・経済的理由から、大学教育を受けられなかったが、変装を通じて大学街に溶け込む一方で、同じく大学教育を受けていないウルフは女性であることから決して大学から受け入れられない。この比較分析を通じて、大学という知的生産の場における男性の特権性と女性の疎外が、フィクション=小説の手法によって、有効に描き出されていることを確認した。また、ラムは「エリア」という筆名を通して自らの個を強く表現している一方で、ウルフは、「メアリー・ビートン」という虚構的一人称にとって、歴史から疎外されてきた女性の普遍的な生を表現していることを明らかにした。

2. 飯沼洋子(京都大学/現代アート、ブラジル人アーティストのリジア・クラークについて研究) 

 第一回創発知研究会では、1960年代から70年代にかけた参加型アートにおける芸術経験の共有可能性について、個人研究の紹介を行いました。参加型アートの黎明期に活躍したブラジル人アーティスト、リジア・クラークの芸術実践では、それまでオブジェとしての芸術作品とそれを見つめる鑑賞者といった対立構図を回避し、鑑賞者の作品参加によって得られる芸術経験こそが作品であるとしました。そこでは参加者個人間、つまり私とあなた、私と周囲環境、主体と客体における関係性の再構築が目指されています。発表ではとくに、芸術実践〈食人よだれ〉を提示し、ブラジル近代芸術思想である「食人思想」と精神分析の理論「移行対象」との関連から、どのような主客の関係性が生じるのかについて簡潔に示しました。

3. 肖軼群(京都大学/現代イギリス小説、カズオ・イシグロ、マキューアンなど)

 肖は、「『変身』の文学とカズオ・イシグロ」というタイトルで発表を行った。ここでいう「変身」とは、英語の”metamorphosis”に由来し、元のアイデンティティと決別し、完全に他者へと変容することを指す。カズオ・イシグロの作品はよく「記憶」や「自己欺瞞」などのテーマから論じられるが、それらのテーマの指向する先は、イシグロ自身の伝記的事実と関連している「変身願望」であると主張する。初期作品では日本人からイギリス人への変容、そして近年の作品ではクローン/ロボットから人間になろうとする姿が取り上げられている。設定上の違いはあれど、変身は一貫した大テーマとして繰り返し描かれている。イシグロは、変身を志向する主人公たちの世界を人物描写に限らず、作品内の環境描写などを含めて、多角的に提示しているとのことを発表で紹介した。

4. 福田安佐子(国際ファッション専門職大学/ゾンビ、ポストヒューマニズム、表象文化論)

 発表では、まずゾンビ映画の歴史を概括した。各時代において描かれたモンスターはいずれも植民地主義や冷戦といった時代において登場した「異質な他者」である。さらに、現代において描かれるゾンビが、「理想の人間」のネガとして並置されることに着目し、その背景にはポストヒューマニズムのある種の「ねじれ」があることを分析した。

第二研究発表

  1. 楠元淳平(京都大学/アメリカ南部の作家ウィリアム・フォークナーの研究)

 本研究では、ウィリアム・フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』(1936)に、従来のフェミニズム理論が依拠しがちであった二分法的思考を乗り越える要素が含まれていることを示す。ジュディス・バトラーが述べるように、女性性の男性性に対する優位を主張するフェミニズムの言説はしばしばそれ自体男性中心主義的な身振りを反復しているが、フォークナーはそうした反復に陥らずに男性中心主義を批判しようと試みている。

2. 葉柳朝佳音(大阪大学/哲学思想史)

 20世紀の生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、生物学は生物を物理・科学的メカニズムに解体することなく、生のプロセス全体を扱うためには必要があると考え。そのために彼は生物身体の機能と構造から、生物が生きる環境との関係性の世界、すなわち環世界を記述しようと試みた。本研究では、ユクスキュルの環世界論について、おもに環世界における生物と主体の定義に注目して分析している。

3. 粥川恭輔(金沢大学/感情心理学、生理心理学)

 人は他者の感情を推定する際に,他者の運動や感覚を自身の脳内でシミュレーションするとされている。その際観察者の顔では他者の表情が模倣される。一方で近年の研究では逆に,表情を変化させると他者の感情の推定に影響を与えることが示唆されている。しかしながら,表情の変化を支える運動野との関係性については明らかになっていない。そこで,本研究では一次運動野の興奮性と感情判断の関係性を調査する。

4. ジャスミン・デッラガーディア(千葉大学/宇宙心理学、宇宙倫理)

未提出

5. 田中基規(名古屋大学/インド哲学、ヒンドゥー教)

 第1回創発知研究会では、自身の研究に関する発表を行った。発表の最初に、私がインド哲学、特にサーンキヤ思想を研究していることを伝えた。そして、サーンキヤ思想の特徴と、そのサーンキヤ思想で原理の一つとして考えられている自我意識に着目して、博士後期課程での研究を行っていることを述べた。最後に、他の参加者がインド哲学に馴染みが薄い可能性も考えて、3冊の研究に関連する新書を紹介した。

第三研究発表

  1. 大平健太(名古屋大学/数学、遅れ微分方程式についての研究)

 微分方程式の説明として、ニュートンの運動方程式を具体例として挙げた。そこで基本的な数学・物理用語の説明も行った。遅れ微分方程式のイメージの説明を行った。初期区間条件を元に物理系が決まっていくことを列車に例えた。遅れ微分方程式の実例としてヘイズの方程式を挙げた。遅れを変化させることで物理系の性質が変化することをグラフで表現した。自身の研究している微分方程式 dX(t)/dt + atX(t) = bX(t-τ) とその解がガウシアンの重ね合わせで書けることを紹介した。物理系の概形もグラフにて紹介。

2. 浜野登(名古屋大学/エージェントベースモデル、文化的ニッチ構築、ゲーム理論、社会的粒子群、人工生命)

 社会的粒子群モデルにおける文化的ニッチ構築について発表を行った。題材としたモデルの概要紹介や問いについて説明し、SNSや仮想空間といった交流の場における個体の環境改変が、社会集団の形成にどのような影響を与えるかを比較実験を通じて示した。代表的な実験設定に基づく複数の結果から得られた傾向を分析し、SNSプラットフォーム等の設計や運営において重要と考えられる環境構築についての示唆について論じた。

3. 高見滉平(大阪大学/機械学習、複数LMMエージェントによる社会規範や価値観の創成)

 高見は,人にとって「良い雑談」を提供できる対話システムの構築を目指し,対話相手のセンチメント(感情の極性)を考慮して発話を選択する発話選択モデルを提案した.本モデルを用いた対話システムに関する被験者実験を実施し,アンケート結果からセンチメントを誘導する発話選択が対話の印象を向上させる可能性が示唆された.また,「良い対話とは何か」という問いを起点に,人間のハビトゥスとAI Alignment(AIの目標や行動の整合)の関連性を考察し,LLM(大規模言語モデル)エージェントにおいて,行動に結びついた価値観の創出が観察される可能性や,それがAI Alignmentに寄与する可能性についても言及した.

4. 浅野誉子(名古屋大学/大規模言語モデル、エージェントモデル、文化進化、ミーム、人工生命)

 LLMに基づく会話エージェント間の相互作用による集団形成と文化進化の理解を目的に構成論的モデルを構築.エージェントは不変の遺伝形質(ポジティブ・ネガティブな単語)と他者から得る文化形質に関する文をLLMで生成し近傍相手と接近離反を繰返す.実験からポジティブ個体はネガティブ個体と比較して集団化する傾向が観察できた.文化形質伝達は,共有文化形質の出現,意味ベクトル分布の多方向への広がりなど多様化を促進した.

5. 福田聡也(大阪大学/LLMエージェントを用いた悪口がもたらす社会的ランクの低下に関しての研究)

 LLMエージェントの主体化についての議論した。現状のLLMエージェントの自律性と主体性の関係について考え、道徳的行為者性と関係があるのではないかと考えた。そこで、LLMエージェントの道徳性を検証するために悪口が与える影響をシミュレーションする手法について検討した。また、人文学の観点では悪口と社会ランクの関連性が大きいと提言されているため、LLMエージェントの世界に社会ランクを導入する手法についても検討した。シミュレーションする際の現状の課題を共有し、それに関して有意義な議論を行うことができた。

2024.11.22 第9回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

🌟南谷先生によるご報告

  当日は南谷先生によるテクスト・マイニング分析から入りました。テキスト・マイニングによってどのような語彙が頻出するのか、全体の構成はどうなっているのかがわかります。ベルンハルトの作品では特定の言葉が音楽的なモチーフのように作品全編にわたって反復的に使用しているのですが、テキスト・マイニングの技術をうまく使えばこうした構造を明らかにできるのではないかと興奮しながら聞きました。

🌟飯島による報告

 その後の私の発表はまずベルンハルトについて概観するところから入りました。その際、心掛けたのは作品の真実性(Atuhenticitiy/Authentizität)へのこだわりを維持した作家としてのベルンハルト像を提示することです。戦後のオーストリアで活動したこと、谷川俊太郎や大江健三郎等と同世代であることに触れた上で、どういった作品を書いていたかの例として1970年に発表された長編『石灰工場』について簡単に触れました。オーストリアの田舎の石灰工場で起こった殺人事件を舞台とする本作ですが、そこでは語り手の「私」が犯人のコンラートや、コンラート周辺の人物の言葉を間接話法によって引用することによって話が展開していきます。

 その際、重要なのがこの「私」がほとんどコメントを挟むことなく引用を展開していくことです。ミステリ風の作りの作品ですが、探偵のように推理したりもしません。そこでは事件を要約することなく起こったままに読者に体験させることが目指されていると言えます。ここに「真実性」へのこだわりの一つの例が見出せるのではないかと思います。

  こうした「真実性」へのこだわりは今回の課題図書である『推敲』にも読み取ることができます。発表では『推敲』が、まさに「真実性」を要とするジャンルである自伝と同時期に執筆されたことに触れ、その上で自伝が本当に真実を伝えるジャンルなのか、否か、というテーマをめぐって展開するメタフィクションとして『推敲』を解釈することを試みました。というのも本作の主人公、ロイトハマーは自伝を作中において執筆しており、作品の後半はこの自伝の復元から構成されているからです。また前半部分ではロイトハマーから自伝を遺稿として託された「私」が遺稿の編集に取り組みます。いわば本作は自伝の執筆者と編集者の物語なのです。

 発表ではまずロイトハマーの人物像に触れました。ロイトハマーが円錐を建てた挙句に最愛の姉の死をもたらしたことに触れ、この人物が独創的であると同時に手前勝手でもあるという、両義的な人物であることを述べました。

 次いでロイトハマーの遺稿の中で何が書かれているのかを論じました。そして自伝の中でロイトハマーの展開している家族に対する恨みつらみはほとんど被害妄想に近いこと、そしてロイトハマーの家族に対する誤解が解消される過程として自伝の執筆過程を捉えることができること、ロイトハマーの自殺はわだかまりが解消されることのメタファーとして解釈できることを述べました。それはまた個人的な覚書である自伝が、表現として自立したものとなる過程を暗示してもいます。

 最後に編集者として語り手の「私」がどのような人物であるかを論じました。そして「私」には編集者としてのやる気が見られないこと、「私」の編集したテクストには誤りが散見されることに触れ、作品の後半を構成するロイトハマーの自伝は遺稿通りではない可能性を指摘しました。『推敲』という作品ではロイトハマーの自伝の執筆が問題となっていますが、そこではロイトハマーの誤解、さらには「私」の編集ミスという形で、実際にあった過去とロイトハマーの遺稿の内容が乖離していることが二重に暗示されています。こうしたズレを示すことによってベルンハルトが自伝という形式に対する批評を行なっていることを述べるとともに、そこにベルンハルトの「真実性」へのこだわりを読み取るという形で発表を締め括りました。

 なお以上のような議論は前田佳一編『モルブス・アウストリアクス』(法政大学出版局 2023年)所収の拙論でより詳細に展開しています。ご関心のある方はぜひご覧ください。

🌟質疑

 その後質疑に移りました。この場ではその場での応答に関して簡単に捕捉するとともに、当日触れられなかった質問にお答えしたいと思います。

・「ベルンハルトは深刻な作家だと思っていたが、そうした捉え方は一般的ではないのか」

 おそらく質疑の場で一番盛り上がったのはこのご質問かな、と思います。こうした深刻な作家としてのベルンハルト像はこれまで散々喧伝されてきたものであり、他の方の質問を見ても同様の見方が共有されているように感じました。

 発表の際の質疑応答でもお答えした通り、私としてはベルンハルトをそれほど深刻な作家だとは思っていません。たしかにベルンハルト作品の登場人物は何やら暗いことを言ったりやったりするのですが、それはあくまでも深刻な人を書いているのであって、ベルンハルト自体が深刻な作家だ、というのは違うだろう、と思っています。

 本発表で取り上げた『推敲』にしてもロイトハマーは破滅的な文章を書き、最終的には自殺を遂げますが、その傍らには「私」という人物がいて、ロイトハマーの言葉の間違いや現実とのズレを暴き出すという構造があります。ロイトハマーという人物は悲劇的であったとしても、ロイトハマーの自殺を単なる悲劇には終わらせない構図が作品には備わっているのです。ベルンハルトの好んだ言葉に「悲劇は喜劇、喜劇は悲劇」という言葉がありますが、本作の構成もまさにこうした悲喜劇的なものと言えるでしょう。こうした悲喜劇性はデビュー作の『凍』以来、ベルンハルトの作品には一貫するものであり、そこにこの作家の苦い味わいもあると私は考えています。(なお悲喜劇というテーマは後年の『古典絵画の巨匠たち』で全面的に展開されています。手に入れにくい本ですが、邦訳もあるので興味のある方はぜひお読みください。)

・「オラシオ・カステジャーノス・モヤとの関係について知りたい」

 モヤに関しては質問者の方の方がご存知だと思うので補足することはないのですが、以下のページにベルンハルトに影響を受けた作家の一覧が載っています。ドイツ語ではありますが、ご関心ありましたらご覧ください。

https://globalbernhard.univie.ac.at

・「「精神的」という言葉の原語が気になる。」

 精神的という言葉の原語はおそらくほぼ間違いなくGeistです。ベルンハルトを日本に紹介したパイオニアである池田信雄は通常知識人と訳されるGeistesmenschenという言葉を精神的人間と訳しました。私もそれに倣ってGeistは精神と訳すようにしています。精神という訳語の方が大袈裟でベルンハルトのユーモラスな一面がより伝わるかな、と思っています。

 なお質疑応答中に「ベルンハルトの作家として活動期間はわずか10数年だ」という発言を何度かしてしまったのですが、これは間違いでした。『凍』の出版から数えると約25年のキャリアがあります。誤った情報を伝えてしまい、大変申し訳ないです。お詫びして訂正します。

🌟おわりに

 ご参加いただいた方をはじめ、南谷先生、小林先生、平繁先生にお礼申し上げます。『推敲』はかなり読みにくい作品でもあるので、どうなるかな、と思っていましたが、多くの方にご参加いただき、さらには質問までしていただき嬉しいかぎりでした。こうして話す場をいただいことで、普段ベルンハルトについて考えていることをまとめ直すいい機会になったと感じています。ありがとうございました。

(文責:飯島雄太郎)

2024.12.7 理論班第5回会議 

2024年12月7日、名古屋大学文学部本館402室にて第5回理論班会議を開催した。

 「フロイトのテキスト分析」(中村報告)は、活動報告、今後の予定と研究進捗報告の3部構成で行われた。研究進捗報告は、コーパスに含まれる文書数の増加とそれに伴うデータ処理の進展、データの拡張による構造的トピックモデルを用いた新たな発見、トピック分析を通じた語彙解釈の試みを共有した。

 質疑応答では、前期と後期での変化があった他の思想家との比較についてコメントがあった。比較対象の選定や分析方法の妥当性について議論があり、今後の研究に向けたアプローチ法が検討された。

 「脱人間中心的な世界において「政治」はどのように可能か」(田村報告)では、「脱人間中心的な政治」の可能性について、アクターネットワーク理論(ANT)を基盤とした議論が展開された。この報告は、「政治」を人間中心的な枠組みに限定せず、モノやノンヒューマン(非人間的存在)との関係性を組み入れた新たな枠組みの可能性を模索した。

 質疑応答では、モノやノンヒューマンが政治においてエージェントとして機能し得るか、これらの要素を含む「政治」における正当性や責任の分担のあり方、モノやノンヒューマンが「政治」に本質的に貢献する可能性など議論された。

 鈴木は、まず、社会的粒子群モデルにおけるニッチ構築の概念を説明した。相互作用による環境改変とその蓄積が社会集団の挙動に与える影響を観察するために、文化的ニッチと流動的ニッチという二つの主要な要素が紹介された。続いて、囚人のジレンマと鹿狩りゲームを統合的に分析し、性格特性記述から行動傾向を抽出する試みが紹介された。

 質疑応答では、ニッチ構築の概念、主体そのものの構築、エージェントの行動が最適化されるかどうか、ニッチ構築が長期的な協力形成に与える影響と、それが他の環境要因との相互作用など議論された。

 大平健太は、今年度の論文発表と学会活動について報告し、最新の研究進捗として遅れ微分方程式における解の求めについて報告した。この研究では、遅れ微分方程式の解法における新たな手法や解析結果が提示され、今後の展望が示された。

 続いて、大平徹が、動物の表皮における模様形成のダイナミクスについて説明した。特に、成長、季節性、体温といった要因が模様の表出と消減に与える影響について詳細に解説し、シミュレーションを用いて模様形成のダイナミクスを可視化した。

 質疑応答では、大平健太の研究における遅れ微分方程式におけるパラメータの設定やその設定基準、大平徹の提示した生物学的模様形成の、他分野への応用可能性などについて活発な議論が行われた。

 「アクターネットワーク理論とブロックチェーン」(金報告)では、ANTとブロックチェーン(BC)の円滑な社会実装に焦点が当てられた。報告では、Koray ÇalışkanによるDARN(アクター、ネットワーク、装置、表象)のアプローチを用いた分析手法が紹介された。具体例(銃犯罪)を提示し、複雑な社会現象を分散的な作用の集まりとして理解する可能性が示された。

 質疑応答では、BCの活用例とその社会的意義、人間が介在しないBC、BCの実装においてアクターが果たす役割やその影響力について議論が交わされた。

 「感情分析―人間による感情判断のバイアス―」(鄭報告)は、感情分析における「データの主観性」を主な課題として提起した。この問題に対処するため、より信頼性が高いデータを抽出し、それを基に感情分析モデルの構築に取り組んだ。報告では、感情ラベル付けにおける主観性を克服する方法と、感情分析モデルのさらなる改善の可能性が示された。

 「アニミズム、ガイア、マルチスピーシーズ」(平田報告)では、アニミズムの概念とその現代的意義について説明された。アニミズムの思想的基盤としてブルーノ・ラトゥールの非近代観が挙げられ、自然と社会のハイブリッド性が強調された。また、都市を「人間だけのものではない場」として再定義し、他の種との共生が都市設計においても考慮されるべきであるという視点が提示された。

 質疑応答では、一般的な近代観とそれに基づく自然と社会の分離に関する問題、人間と非人間的行為者の関係性やその相互作用、自然と社会のハイブリッド性など活発な議論が交わされた。

 「神経ハビトゥス―ハビトゥスを生成し、維持し、変容する脳と身体のメカニズム―」(大平英樹報告)では、ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」の概念が神経科学的視点から再検討された。報告では、脳を「予測する機械」として捉える立場から、内的モデルによる予測と実際の入力との差異(予測誤差)が行動と知覚を制御する仕組みを詳細に解説した。また、感情と身体の連携や処理流暢性などを用いて、感情の創発と意思決定において予測誤差が果たす役割が議論された。

(敬称略)

(文責: 名古屋大学人文学研究科附属人文知共創センター 鄭弯弯)