2025.07.12 理論班第6回会議

2025年7月12日、名古屋大学文学部講義棟130室にて第6回理論班会議を開催した。

 中村靖子先生は、ピエール・ブルデューのハビトゥス概念を起点に、個人の内的表象と言語・文化の構造的関係について再検討した。ハビトゥスとは、個人の内部に形成される行動傾向であり、他の環境や集団においても持続・転移する一方で、周囲との齟齬を通して更新もされうる。すなわち、「構造化された構造」であると同時に、「構造化する構造」として、社会的構造を再生産し続けるという二重性を持つ。後半では、このハビトゥスの二重構造的な性格を踏まえ、言語や文化もまた同様の構造を持った表象形成システムとして捉えられることが指摘された。特に内部表象形成システム(概念中枢)をめぐるイメージの変遷や、18世紀言語起源論争において議論された言語と情動の関係をもとに、個々の経験や思考を意味づけ、意味を交換し、それを超個人的・超時代的に共有するための媒体、保管場所としての言語・文化の役割について論じた。

 鄭弯弯先生は、「語彙の多様性によるジャンル推定に必要なテキスト長」と題し、語彙の多様性を測定する複数の指標について、ジャンルごとに語彙の多様性を安定的に再現するために、必要とされるテキストの長さに着目した実証的研究を報告した。語彙多様性指標には現在、異なり語数と延べ語数に基づくタイプ・トークン系の指標、語の集中度を測る分布型指標、統計的処理に基づく指標などの種類がある。この研究では、これらの指標に基づくジャンル判別が実際にどの程度テキスト長に左右されるかを検証するため、政治演説や自然会話、ニュース、小説という4つのジャンルのテキストを用い、語彙の多様性に基づく、これらのジャンルを安定して判別するために必要なテキストの長さをそれぞれの指標ごとに分析した。

 鈴木麗璽先生は、二次元平面の距離で人同士の心理的・社会的関係の強さを表現した社会的粒子群モデルの研究について報告した。大規模言語モデル(LLM)を用いて、人間の被験者を用いた、連続的な社会相互作用における協力行動創発理解のためのオンライン実験フレームワークと類似したモデルを作成した。LLMを用いない従来のモデルでは、エージェントの行動ルールが固定されていたのに対して、このモデルではエージェントはBig Five性格特性に基づいてそれぞれ異なる行動パラメーターを付与され、さらに自身の周囲の状況と他者の過去の戦略履歴に基づいて行動を選択した。実験結果としては、エージェントが保持する記憶の長さが長いほど全体として裏切りに偏る傾向があることが示された。この結果を踏まえモデルの思考能力の高さや性格特性の設定方法による影響を考慮しつつ、記憶と性格特性が行動に及ぼす影響について議論がなされた。

 大平健太先生・大平徹先生は、非自励系の遅れ微分方程式の解を求める研究に関して、国内外で発表してきたこれまでの研究成果と、それらの研究の今後の展望について報告した。具体的には、第5班の大平英樹先生との共同研究の成果として、遅れを伴う非自励系において、セルフ・フィードバックを持つ二つのユニットを、クロス・フォードバックに繋ぎかえることで、振幅の巨大拡張現象をもたらし、かつ系が安定するようなモデルが得られることを示した。また、亀の甲羅の隆起を表す数理モデルを作成する数理生物学の研究、追跡と逃避の数理モデルに関する研究、量子もつれの解き方に関する研究など、現在関わっている研究の内容と成果を示し、リズムや集団、存在、現象などを説明する言語としての数学の役割について考察した。

 田村哲樹先生は、これまでの研究成果を報告しつつ、現代における民主主義のあり方を問い直す複数の視点を紹介した。例えば、「情報化社会において民主主義は「民主主義」であり続けられるか」という観点から、「人工知能民主主義」との共生/共棲のあり方を探究した。あるいは、資本主義による民主主義の制限を4つに区分し、それぞれに対して熟議民主主義がどのように対抗しうるかを検討した。これらの議論の中で、政治理論において中心に置かれがちな問い、すなわちどのような人間であるべきかという問いに帰結することなく、政治の仕組みそのもののあり方を問うことの重要性が強調された。教育の観点からは、教室内や課外活動における民主的な自治の実践などに着目し、民主主義を国家レベルでの代表制民主主義に限定しない、また教育の場を学校に限定しないシティズンシップ教育のあり方について議論した。

 平田周先生は「ブルデューの⺠族学――批判のプラグマティック社会学および感情史の観点から」と題し、ブルデューのハビトゥス論をもとに、文化資本とハビトゥスの関係結びつきがいかに「文化的正統性」の体系を支え、教育制度などを通じて社会的再生産を担っているかを論じた。これにより、文化的卓越性が無意識的に継承され、階層的差異の正当化に寄与する構造が可視化された。発表の後半では、ボルタンスキーによるブルデュー批判を踏まえ、⾏為主体(acteur)」に代わって「⾏為者(agent」 という⾔葉を⽤いることをハビトゥス概念の「まずい使い方」として批判し、アクターが不確実性に直⾯することで、 新しい何かを伴った⾏為を⽣み出す可能性を認めることの重要性を強調した。また、法律的規範に対するハビトゥスの原理的対抗軸として、行為者が直感的に共有する名誉や正義感といった、慣習の中で公式化される以前から存在している「感覚」に着目する視点が挙げられた。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士後期課程1年  葉柳朝佳音)

第11回案内

🌟開催日時:2025 年 8 月 22 日(金)20:00〜22:30
🌟講師:葉柳朝佳音(大阪大学 科学技術社会論・博士後期課程)
🌟コメンテーター:根木颯也(立教大学 大学院人工知能科学研究科)
🌟テキスト:ヤーコプ・フォン・ユクスキュル ・クリサート『生物から見た世界』日高敏隆・羽田節子訳, 岩波文庫, 2005 年

2025.3.28-29 2024年度全体研究集会(春)

 当プロジェクト発の研究成果が続々と報告されました。その筆頭が、ちょうど全体研究集会の開催日当日に発刊された書籍、「ことば×データサイエンス【AAA叢書第1巻】」(春風社)になります。この他にも、AAAメンバーによる今後の書籍計画や論文発表についての報告が相次いで行われ、さらなる発展に期待がかかります。

「ことば×データサイエンス【AAA叢書第1巻】」(春風社) 中村靖子、鄭弯弯(編)

 本会では、特別講演のゲストとして、慶應義塾大学の大澤博隆先生、京都大学の小茄子川歩先生にお越しいただきました。先生方にはそれぞれ、「セッション2:未来への物語」、「セッション4:古代からの物語」と対比的なセッションテーマの中で講演していただき、大変興味深いディスカッションが行われました。内容の一部を紹介します。

🌟大澤博隆 先生 「SFセンターと想像学」

「ロボットに抱っこされたとき、感動しました」

 学生時代、ロボットがシンプルなアルゴリズムで動くのを知っていながらなお、「あぁ、いいな」と、意外な感想を抱いたと言います。専門分野のヒューマンエージェントインタラクションの道へ進むことを決めたきっかけとなりました。たとえば日常的な家電も、“便利な道具”を超えて、“他者としての人工物”にできるのではないか?人と道具の間に、今までに無かったような相互作用を可能とすることで、単なる人間の身体拡張に終わらない、どこか他者性を感じさせるようなエージェントの開発に研究として取り組みました。

 現在、ロボット技術や人工知能は目覚ましい発展を遂げ、人間社会に深く入り込みつつあります。そう遠くない未来において、こうした技術とどう向き合い共生することができるのか、私たちの想像力が試されています。「人間の想像力は機械共生社会において、どうあるべきか?」このリサーチクエスチョンを掲げた研究テーマ「ポストヒューマン社会のための想像学」は、科学技術振興機構の「課題設定による先導的人文学・社会科学研究推進事業」の「学術知共創プログラム」において、2024年度の研究テーマとして採択されました。この中では特に、科学技術と社会のあり方を探るジャンルとして誕生したサイエンスフィクション(SF)が、その問いの答えを探る大きな可能性として鍵を握っています。

🌟小茄子川歩 先生 「人類史におけるもう一つの『文明』、そして『バッファ』について」

 文明の発展と聞くと、人びとのどのような営みを想像するでしょうか。狩猟採集生活から農耕牧畜生活へ、やがて余剰がうまれ、小さな農村は大きな都市へと発展する。そして管理運営機構が生まれ、中央集権的な国家が誕生し、支配階級の人びとのもと、第一次産業に従事する人びとだけでなく、工人や商人、神官といった専門職業人がさまざまな活動がおこなうようになる。たとえばこうした発展段階的なプロセスを想像してしまうのではないでしょうか。

 マルセル・モースの「文明」論を発展的に継承したデヴィット・グレーバーとデヴィット・ウェングロウは、それとは異なる「文明」のあり方を説きました。歴史的状況や歴史地理的状況、社会学的状況、文化的状況、そして生態学的状況と、各地・時代の人びとがおかれたさまざまな「状況」に、人びとがボトムアップ式に「政治」的に対応するなかで「文明」は創りだされます。「文明」間において交流や借用の拒絶がありつつも、どの「文明」が野蛮、未開などというのではなく、さまざまな「形態(フォルム)」の「文明」が当たり前のように併存します。「文明」とは、必ずしも中央集権的な国家に向かうことを意味するのではなく、“自発的連合による組織化を可能にする「政治」的知恵や相互扶助の特性こそが「文明」である”と考えます。いわば、ボトムアップで成り立つ「文明」といえるでしょうか。

 その代表的なものとして、比較考古学が専門の小茄子川先生が研究を進めるのがインダス「文明」社会です。中でも紀元前約2600~2400年ごろ、インダス平原において人びとは、その「状況」への「政治」的な対応として、大きな都市にのみ集住せず、人口をひろく散在させたがゆえに、各地方には多様な文化社会が根付いていました。発掘調査の成果からは、ここに国家的権力や支配・暴力の痕跡は見当たらないそうです。また同時代に交流のあった、すでに国家段階にあったと考えられるメソポタミア文明社会に同化されることもありませんでした。このときのメソポタミア文明社会との交流において、“バッファ”の役割を果たしていたのではないかとされるのが、パキスタンの世界遺産となっている古代都市遺跡、モヘンジョダロです。乾季に人びとが集まる交易センターとなっていたのではないかと推察されますが、雨期時には大規模な洪水の危険性が高まるため、季節的に解体されることを前提とした「都市」であったと考えられます。メソポタミア文明社会の財や知、価値をはじめとしたさまざまな情報が、“バッファ”としてのモヘンジョダロを経由することで、インダス平原の伝統的な在地社会文化に適した「かたち」に転換され、そして借用されていたのではないか、という説が紹介されました。

(文責・綾塚達郎)

2025.3.28 第6回研究集会 セッション2「未来への物語」

講演:大澤博隆先生「SFセンターと想像学」

冒頭ではSF(science fiction、あるいは“speculative fiction”)と学術のつながりに注目しつつ、ヒューマンエージェントインタラクション、つまり道具ではなく他者としての人工物との相互作用について、これまでの研究の概要を説明した。例えば、デバイスをキャラクター化することで、デバイスの使い方を直感的にユーザーに説明する研究や、社会的なゲームにおける人工知能についての研究を通して、さまざまな技術ユーザーにどのような想像と行動を引き起こすのかを紹介した。

 こうした研究をもとに、「SFとは何か?」という問いを立て、SFが「知見ではなく手法」として、「科学的な推論・技術を用いて提示された設定やそこでの社会・人々を描いた物語群」として、「科学普及手段」として、あるいは「イノベーションの源泉」として、学術にどのような影響をもたらしてきたのかが論じられた。特に、SFを作る過程をアイデア出しに応用する手法である「SFプロトタイピング」によって、社会的圧力を比較的受けにくい形で、社会構造の変化による価値観の転換について議論しやすい場が作られる事例が紹介された。

コメンテーター①:高橋英之先生

ゲームや展示などを通した個人のSF体験と、体験を通して共有される物語の関係について話題提供が行われた。こうした観点から、媒体の選択において、どこまでを受け取り手の想像に委ねるのか? 物語の受け取り手のリテラシーをどのように考えるか? などが議論された。コメントと応答を通して、個人の体験の没入感やインタラクティブ性と、個人間の物語の共有の両立が注目され、物語と現実を地続きに結びつけることの重要性が強調された。

コメンテーター②:鈴木麗璽先生、加藤真紘さん

鈴木麗璽先生は、大規模言語モデル(LLM)を用いたAIエージェントによる言語の進化生態モデルを例に、オープンエンド性と創造性という観点から話題提供をいただきました。LLMを用いて複雑な価値観をモデル化することで、従来の進化モデルに見られた進化の停滞を解消するという試みについて紹介した。

 加藤真紘さんからは特に、SFプロットを題材とした文化進化モデルの構築について紹介された。LLMにより、複雑な意味を持つ情報の伝達と変容をモデル化が可能になり、エージェントに内在する要因が既存の壁を破る様子を説明するモデルが作成できるようになったことが示された。SFが既存の壁を破って価値観の転換を設定することで、現在の世界に対する違和感に訴える「マイノリティーの文学」としての役割を持つということが指摘された。

全体討論

討論では、マイノリティを語るSFとの関連において、「将来的に人格が失われるのであれば、進化的に不要なものであったと言えるのではないか?」といった疑問が投げかけられた。LLMとの関連では、「フィクションにおいて、欠損を持つことや、不自然な言葉をはなすことで”ロボット”をキャラクターとして強調する手法は、LLMの登場によって機能を失うのか?」、「AIは創造的なものを書くモチベーションを持ちうるのか?」といった議題が持ち上がった。その他、物語の創造と作家の専門性に関する議論や、生成A Iと作家の権利に関する議論がなされた。

 小茄子川歩先生は、あらゆる可能性の中から古代の人間の物語を掘り出す考古学と、現在の世界とは異なる世界の可能性を提示するSFとを結びつけ、セッション2とセッション4に通底するテーマを示した。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士後期課程1年  葉柳朝佳音)

第10回案内

🌟開催日時:2025年5月16日(金)20:00〜22:30
🌟講師:三神弘子(元早稲田大学教授)・小林広直(東洋学園大学准教授)
🌟テキスト:メアリー・コラム『人生と夢と』多田稔監訳、三神弘子・小林広直訳、幻戯書房、2025

2025.3.12-14 国際シンポジウム「Anthropocene Calling II: Humans, Animals, Machines」

2025年3月12日から3月14日にかけて、イタリアのベルガモ大学の連携施設アスティーノ修道院(Monastero di Astino)にて、国際シンポジウム「Anthropocene Calling II: Humans, Animals, Machines」が開催された。本シンポジウムは2024年にローマ大学トル・ヴェルガータ校で行われた国際会議の継続として、「人新世」を主題にすえ、人間中心主義がもたらす諸問題について多角的な検討を行うことを目的としたものである。第一回会議では「自然、技術、言語文化、芸術」の四つの研究分野に紐づいた副題が掲げられたが、第二回となる今回は「人間、動物、機械」といった研究対象を副題の中心とし、より領域横断が可能となった議論が促進された。

ポスター

 シンポジウムでは、まず中村代表から開会の辞が述べられた。さらに、会場であるアスティーノ修道院の管理を担うMIA財団の評議員Rodeschini評議員より、日本とイタリア間の学術協力に対する賛辞と歓迎の辞が述べられた。また、本シンポジウムがベルガモ大学とMIA財団の初の協働の場となったことにも言及された。シンポジウム参加者には、AAAプロジェクト第五班のグループリーダー武田をはじめとするプロジェクトメンバーが、そしてベルガモ大学、ローマ大学トル・ヴェルガータ校、東ピエモンテ大学、スイスのザンクト・ガレン大学の研究者が名を連ね、人文科学から自然科学に至るまで多様で幅広い専門分野の研究者が集い、それぞれの知見に基づいた発表と活発な討議が行われた。さらに、議論は英語、イタリア語、日本語を取り混ぜて行われ、日本とイタリアにおける学術

的協力の深化が確認された(報告文末尾のリストを参照のこと)。本報告書では、三日にわたるシンポジウムで設けられた六つのセッション――自然1、自然2、人間と動物、ロボットと感情、人間・機械・ハビトゥス、芸術とエコロジー――を概観し、それぞれの発表内容を簡潔に要約する。なお、登壇者の氏名については敬称略とする。

会場

 セッション「自然1」では、人新世における人間と自然の関係がどのように再構築されるべきかを、宗教・哲学・地政学の視点から考察した。岡田の発表では、中世キリスト教における復活、輪廻、変容の思想を通じ、固定化されない自然観について検討された。従来のキリスト教的復活は不変の自己を前提とするが、異端とされた変容の概念こそが、現代のエコロジー思考により適合することが示された。参照された作品にはベルガモのコッレオーニ礼拝堂における寄木細工の宗教画や、ベルガモで活躍し影響を与えた画家ロレンツォ・ロットの作品等が取り上げられた。Terrosiの発表では、人新世における自然の人間化、人間の自然化、技術の自律化という三つの疎外が提示された。そして人間・自然・技術間における関係性を批判的に切り離し、個々の存在論を捉え直すことで、それらの関係性を再構築することが検討された。Luisettiの議論では、地球と生命体の関係、および地球を変容させる力を指すジオ・パワー(Geopower)の概念を基軸に、植民地主義的な自然観の克服が論じられた。人新世における地球が直面している環境問題に対し、すべての人間が同等に関与しているのではなく、その起源には植民地主義によるプランテーション新世(Plantationocene)があり、自然は単なる資源ではないことが強調された。これらのテーマを表現しているアーティスト、カロリーナ・カイセドや下道基行の作品が参照された。

 セッション「自然2」における発表では、崇高(Sublime)の概念を軸に、人新世における美学・哲学的視点から論じられた。武田は写真家、畠山直哉の作品を対象とし、そのテーマである崇高について分析した。畠山の作品では自然と人間、自然と技術の関係を同等のものと扱う点に、ロマン主義的な崇高の概念とは異なる要素が見出されることを指摘した。そしてニコラ・ブリオーの人新世的崇高(Anthropocenic Sublime)を参照に、人間と自然の現代的な関係性を捉え直し、人新世における崇高の新たなあり方を提示した。Patellaは一八世紀以降、重要視されてきた自然に対する美的感受性、つまり崇高の概念に焦点をあてた。従来の崇高論では自然を他者性として畏怖する視点(感傷的崇高)と、主体の鏡として内面化する視点(形而上的崇高)が見出される。そして環境危機を背景とした現代においては、不気味さ(Uncanny)が新たな生態学的感情として表出していることを指摘し、三つの崇高の形態を提示した。Heritierは、法と美学の視点から、人間の本質に関する三つの概念(1.homo homini lupus, 2.homo homini deus, 3.homo homini homo)から、プラトンのコーラや京都学派の議論を手がかりに、人間中心主義における自由と責任の新たな基盤、そして多元的社会の基盤について論じた。

 セッション「人間と動物」では、動物やゾンビをはじめとするノン・ヒューマン的な生命と人間の関係性について、イメージ学、ポスト・アポカリプス的表象、共感といった視座から、多様な考察が展開された。二宮は、動物における美的な視覚的表現に焦点を当て、イメージの創造を、種を超えた現象として再考した。そしてダーウィンやポルトマンの議論をもとに、動物もまた創造表現を行う可能性を示唆した。福田は、日本のサブカルチャーにおけるアポカリプスとゾンビの表象を分析するため、特にセカイ系やポスト・セカイ系として分類される作品を取り上げた。社会の再建や原因追求ではなく、崩壊した世界における個人の生き方が強調される点に日本特有のアプローチが見出される。斉藤は行動予測の動的プロセスである共感を主題とし、自己参照的共感と認知的共感が行動予測にどのように寄与するかを調査した。具体的には強化学習モデルを用い、実験参加者が人間のパートナーとノン・ヒューマンのエージェントの意思決定を予測する課題に取り組んだ。その結果、感情的共感と認知的共感という二つの学習プロセスがあることが示され、人間の意思決定の理解において重要な役割を果たしていることが明らかとなった。

 セッション「ロボットと感情」では、人工エージェントと人間の間に生じる感情の認知について、心理学・哲学的な視点から分析が展開された。和泉は、概念空間と(反)敬称の意味論を参照し、脱人間化のレトリックが単に人間性の否定にあるわけではなく、社会的階級における序列を引き下げる格下げ行為にあることを示した。その上で、ノン・ヒューマン的な人工エージェントにおいても言語的に脱人間化されうることを明らかにした。池田は心理学的視点より、人間には幼少期より人間を優先して認識する本能的傾向が見られることを示し、人間が本質的にAIやロボットを自然に受け入れることの困難さを述べた。その克服としてロボットやAIと共存するためには、習慣化された行動様式であるハビトゥスの重要性を論じた。中村・鄭はテキストマイニング手法を用い、フロイトの全著作を分析し、その思想の発展的変遷を明らかにした。k-meansクラスタリングによる分析では第一期(1886-1901)、第二期(1905-1919)、第三期(1919-1939)の時期区分が割り出され、情動、リビドー、衝動という主要な概念の進化が確認された。また構造的トピックモデル(STM)ではフロイトの理論における二つの転換点(1900年、1907年)が示された。その結果、フロイトの持続的なテーマである不安(angst)における主体が、女性から子供へ、さらに人間全般へと拡張していったことが明らかとなった。

 セッション「人間・機械・ハビトゥス」では、人間の行動様式であるハビトゥスがAIや機械技術の発展によってどのように変化し、形成されていくのかが議論された。山本は、技術革新が進み、生活のあらゆる場面で活用されているデータ生成を担う生成AIを取り上げ、生成AIと人間の創造性を取り上げた。そして初音ミクや人格設定を行ったChatGPTと人間の関係性などを例に、生成AIとの共存が精神的健康に与える影響を検討し、新たなハビトゥスの形成について論じた。大平は、神経科学者ジャン=ピエール・シャンジューの論文「ハビトゥスの神経基盤」で主張される、脳内に実装され、身体化されるハビトゥスがどのように形成され、維持され、共有されるのか、その神経メカニズムを明らかにするため、神経科学的視点より考察を行った。その結果、金銭的報酬に関する学習・意思決定と、社会規範や行動の学習・意思決定が、大脳基底核の線条体など、共通する脳領域に依存していることが明らかとなった。さらにはベイズ脳理論の観点から、新たな情報に適応し、世界モデルを構築するメカニズムについても検討した。Verdicchioは、コンピューターが人間をはるかに超える知性を獲得し、人新世を終焉させるマシノシーン(Machinocene)という概念を通じ、断絶する人間と機械の関係ではなく、人間が機械的思考へと適応していく未来像を提示し、人新世の延長としての機械時代を提示した。具体的には歌手Charli XCXや俳優Karla Sofía Gascónらとメディアとの関係やインスタグラムの投稿などを例として取り上げた。本セッションでは、AI時代における人間の適応と進化によって生まれる新たなハビトゥスの可能性について、人間の思考や行動が機械と共にどのように変容するのかを問う議論が展開された。

 セッション「芸術とエコロジー」では、芸術を通じた生命性や環境への新たな視点が探求された。飯沼はリジア・クラークの作品《Bichos》を取り上げ、記号論的アニミズムの観点から分析し、無機物である芸術作品がどのように生命力を宿し得るかについて考察した。鑑賞者が作品を動かすことで生まれる生き物のような特性に着目し、アニミズムの概念を芸術に適用することで、作品の自律性獲得の可能性を提示した。池野は、地球全体を覆い、人間を取り巻く大気や空気をテーマに、人新世時代の現代アートを考察した。まず三上晴子の作品では人間の生活圏を構成する空気とその限界について考察し、そしてブルーノ・ラトゥールの「クリティカル・ゾーンズ」展から、人間とノン・ヒューマンを含むすべてのアクターの行為によって大気が構成されるというラトゥールの思想を分析した。大気は不可視の周囲環境であるだけではなく、テクノロジーや社会、人間との関係性の中で構築されていることを、人新世において再認識する必要があることが確認された。

 総括すれば、本シンポジウムでは、人新世における人間と人間を取り巻く自然環境、および生成AIをはじめとする技術社会という大きな枠組みの中で論が展開された。第一に、人間がノン・ヒューマン的存在とどのように関わっているのか、あるいは関わり方に変化が生じてきているのか、その関係性の変化や相互作用の模索について捉え直すことが試みられた。その対象として人間、動物、自然、機械の本質についての再考が行われた。第二に、人間は生得的に認知することが難しいロボットや生成AIとの新たな関係性が構築される中で、人間らしさや人間との類似性を見出すなど、新たなハビトゥスの探求を行うことが論じられ、それらとの共存可能性といったテーマが深く議論された。これらの発表成果は、人文学、自然科学、社会科学からの学際的視野によって、人間中心主義の限界を再考し、持続可能な社会の構築に向けた新たな知見を深めるものであった。

 さらに国際シンポジウム後には、ミラノのブレラ絵画館およびトリノのロンブローゾ犯罪人類学博物館などを訪問する機会が設けられた。ブレラ絵画館の収蔵作品は、これまで人類が周囲環境とどのように関わってきたかを象徴するものであり、また、ロンブローゾ博物館に展示される心理学的実験器具は、現代のAI技術の先駆とも捉えうるものである。ベルガモにおける国際シンポジウムでは、人新世における現在と未来について主に論じられたが、ミラノやトリノでの実地見学では過去の蓄積により、人新世における人間と環境の関係を改めて考察する契機となった。

 本シンポジウムでの議論を踏まえ、現在進行形の人新世において、今後も一層の活発な研究と議論の継続が求められるであろう。

【シンポジウム 参加者リスト(発表順)】
– Atsushi OKADA, Professor, Kyoto Seika University
– Roberto TERROSI, Researcher, University of Rome Tor Vergata
– Federico LUISETTI, Associate professor, University of St. Gallen
– Giuseppe PATELLA, Professor, University of Rome Tor Vergata

– Paolo HERITIER, Professor, University of Eastern Piedmont

– Nozomu NINOMIYA, JSPS Postdoctoral Fellow / The University of Tokyo
– Asako FUKUDA, Assistant Professor, Professional Institute of International Fashion

– Natsuki SAITO, Researcher, Nagoya University

– Yu IZUMI, Associate professor, Nanzan University / RIKEN AIP
– Shinnosuke IKEDA, Associate professor, Kanazawa University
– Yasuko NAKAMURA, Professor, Nagoya University
– Wanwan ZHENG, Assistant Professor, Nagoya University

– Tetsuya YAMAMOTO, Associate professor, Tokushima University


– Hideki OHIRA, Professor, Nagoya University

– Mario VERDICCHIO, Associate professor, University of Bergamo

– Yoko IINUMA, PhD student, Kyoto University

– Ayako IKENO, Associate professor, Aoyama Gakuin University



(文責:飯沼洋子〔京都大学大学院人間・環境学研究科〕)

2025.3.29 第6回研究集会 セッション3: ジェンダー&セクシュアリティーー通念・多様性・越境

名古屋大学・東山キャンパスで行われたAAAプロジェクト第6回研究集会2日目(2025/3/29)セッション3では、第4班から3名が発表を行った。

🌟鳥山定嗣先生

 鳥山先生はまず、第4班の今後の予定について全体に共有した。具体的には、叢書第4巻の出版スケジュールと構成の計画を、ついで2026年の7月か9月に国際シンポジウムを開催予定であることを報告した。また自身のこれまでの成果としてフランス詩の脚韻におけるジェンダーについての研究を挙げ、今後はバルトの「中性」概念を出発点に言語学や哲学の知見を取り入れ、より広く言語とセクシュアリティの関係を考察したいと述べた。

🌟マリ=ノエル・ボーヴィウ先生

 ボーヴィウ先生は「明治期日本における西洋のアフォリズムと女性嫌悪」と題してこれまでの成果と今後の展望について報告した。

 まず、研究の大きな枠組みとして、言語と言説におけるジェンダー認識の形成について、歴史・文化背景からのアプローチ、文学研究のアプローチ、社会学的文学研究のアプローチの3点から考察する、というように研究対象と研究手法を共有した。次に、これまでの活動報告として、2023年に開催したシンポジウムの論文集『越境するアフォリズム』(アプレミディ)の出版を挙げた。それから自身の具体的な成果報告を行った。まず、近代日本におけるアフォリズム系の形式についての先行研究を紹介し、西洋のアフォリズムから日本のことわざの形式が考察されていたことや、西洋のアフォリズムが西洋近代思想の輸入とレトリック強化のために紹介されていたことを確認した。次に、西洋のアフォリズムと女性というテーマの関係について、女性嫌悪的な例は古くから存在しているが19世紀フランスにおいては性をめぐる言説が変化したことによって女性を男性とまったく異なる存在として扱うようなアフォリズム集が出版されるなどの変化があったことを指摘した。そして、日本では中江兆民と森鴎外がこのような女性嫌悪的アフォリズム集を翻訳出版している。しかしながら、明治時代の女性をめぐる言説は差別一辺倒なわけではなく、たとえば福沢諭吉は西洋の考えを利用して女性の権利を主張していた。女性嫌悪的なアフォリズムを男性向けに訳している中江も、実は一方で女性の権利を唱えてもいる。以上のような調査結果をもとに、女性嫌悪のテーマの特徴や当時の日本における女性嫌悪的言説との関連、翻訳における社会・政治的背景が及ぼす影響について分析を進めていきたいと今後の展望を述べた。

🌟立木康介先生

 立木先生は「最後にもう一度問いたい「同性婚」の意義」と題して、同性婚をめぐる今日的議論のなかで忘れられつつある「反結婚」の思想にいまいちどスポットを当てた。

 立木先生は世界で同性婚が法制化されてきた事実を好意的に受け止めながらも、結婚制度すなわちモノガミーに基づいて家族を形成するという営みそのものを問い直す言説が近年聞かれなくなったことへの違和感から、フランス同性愛運動に最初期からかかわってきた二人の著者Marie-Josèphe BonnetとAlain Nazeにおける反同性婚の議論を紹介した。1970年代にはじまるフランスの同性愛運動は、基本的に「反結婚」(=反家父長制)であり、その点で、やはり70年代に生まれた女性解放運動(フェミニズム)と連帯していた。しかし80年代になると、ミッテラン政権の誕生、同性愛の脱刑罰化、エイズとの闘いを通じて、そこに変化が刻まれ、同性婚の法制化をめざす動きが生まれるに至った。エイズの犠牲になったのは主にゲイ(男性同性愛者)だったこともあり、この動きはレズビアンを置き去りにする形で進んだ。1999年にPACS(市民連帯協定)が制定される過程では、パートナーシップを兄弟姉妹間にも開くCUC(市民結合契約)が検討されたが、あくまで同性婚を見据えた同性愛者たちの反対で見送られ、結婚に準じる制度としてのPACSに落ち着いた。世紀が変わってからは、極右の反イスラム・イデオロギーに同調し、同性愛を禁じるイスラム文化にたいして西洋文明の優位性を訴える観点から、同性婚を支持し、要求する「ホモナショナリスト」たちも現れた。こうした流れを経て、フランスでは2013年に同性婚の法制化がなされるが、その過程でレズビアンは周縁化され、反結婚・反家族の主張もかき消されていった。同性婚の法制化によって、同性カップルが子供をもつ道が拓かれたことで、今後はこれらのカップルが生殖医療の利用者になりうる。結婚制度と並んで、しかしそれとは別の問題として、生殖医療のあり方についても、なお議論を深める余地があるとの見解が、最後に示された。

🌟坂口菊恵先生

 坂口先生は、人文社会学的なアプローチと、相対すると考えられがちな自然科学を背景とした世界認識の融和について、セックス/ジェンダーの多様性を題材に科学史を交えて論じた。

 「ジェンダー」は社会構築主義的な立場から、生物学的な世界観を否定する文脈で用いられがちである。しかしながら、「ジェンダー」という語を言語学の用語を超えて性のありさまを表現するために使い始めたのは性科学者John Moneyであった。Moneyは染色体がXかYかでは2分できない性発達の多様性を表現するために「ジェンダー」という語を導入した。すなわち、ジェンダーとは発達神経内分泌学の概念であった。Moneyはジェンダー・ロール(性役割)発達におよぼす環境の影響を強く見積もり過ぎていたため、「Moneyの双子」としてしられる重大な人権侵害事件のみならず、性分化の特異性(Differences in Sex Development)を持つ子どもたちの治療指針を策定し、残した負の影響も大きかった。

 一方で、以降の行動生物学的な研究がジェンダー・アイデンティティの成因をうまくとらえられなかったのは、客観的な記述のできない内観の存在を説明要因から排除した、近現代科学的世界観に共通する問題である。現在、身体内外からの情報インプットと、それに対する内的イメージとのすり合わせを中心に認知発達の多様性を記述する、自由エネルギー理論(ベイズ脳モデル)を用いてジェンダー・ロール(外向きの表現)とジェンダー・アイデンティティ(内的経験)の異同を論じる途がひらけている。

 ベイズ脳モデルに依拠すると、ASDやサヴァン症候群に見られる「予測をうまく使えない脳」構造と、社会の期待するジェンダー・ロールに自己意識(ジェンダー・アイデンティティ)をうまく同一化できない脳構造が類似しているとして、成人期の性別違和を感覚処理の観点から説明する道筋を示した。次に、そのような感覚処理の特異性と職業選択との関係を明らかにするために実施した調査について報告し、研究者と非研究者のあいだで感覚過敏・鈍麻の差があまり出なかったという分析結果と、感受性という指標が従来型の神経発達症とギフテッド型のそれの違いを予測するものとなる可能性があるという展望を示した。

 3人の発表後に質疑応答が行われた。アイデンティティという概念が集団の連帯に及ぼす影響についての質疑応答では、マイノリティの中のマイノリティの声が聞こえなくなってきているという問題が提起された。また、定型発達とはそもそも何であるのかという問いかけも行われた。1日目の講演者である大澤先生からはマイノリティをフィクションで描く際の倫理について立木先生に質問がなされ、当事者でなくとも当事者のことを深く語れるフィクションの力を重視するべきであり、現実・虚構・真実の3項で考えていくべきだという回答がなされた。

(文責:京都大学大学院文学研究科博士後期課程2年 西村真悟)