名古屋大学×金沢21世紀美術館共催シンポジウム

🌟前半の部 

2014年11月4日、名古屋大学にて、金沢21世紀美術館との共催で国際シンポジウム「すべてのものとダンスを踊って−共感のエコロジー−」が開催されました(於:東山キャンパス坂田・平田ホール)。本シンポジウムは、11月2により同美術館で始まった同タイトルの展覧会にあわせて開催されたもので、パリ社会科学高等研究院(EHESS)のエマヌエーレ・コッチャ氏に基調講演をしていただき、ディスカッションには同館の館長である長谷川祐子氏、キュレーターの本橋仁氏、および本プロジェクトのメンバー5人が登壇しました。

 冒頭では、佐久間淳一名古屋大学副総長が挨拶をしました。「共感のエコロジー」というテーマのもと、芸術、人文学、に限らず多様な分野から研究者が集う本シンポジウムが、本プロジェクトの意義の社会発信の場となるとともに、アートと学術の連携の場として実り多いものとなることを期待する旨を述べました。

 続いて中村靖子代表が本シンポジウムの趣旨説明を行いました。「詩的に人間は住まう」というヘルダーリンの言葉を引用し、言語や音、リズムを介して他者との柔軟な関係性を築いていく人間の営みを、身体の感覚と運動を通して他者と共振する、人とモノのダンスとして理解する必要があることを述べ、本プロジェクトの目的と金沢21世紀美術館のこの展覧会に共通の問題設定を提示しました。

 その後、コッチャ氏から「Metropolitan Nature: How Nature builds Cities」という題で基調講演をしていただきました。ゲーム「ポケットモンスター」を例に、ポケモン図鑑、モンスターボールなどのハイテク機器を介して、遊びの中で自然との関わり方を学ぶ子どもたちの姿から、人と自然との精神的な関わりが常に芸術とテクノロジーに媒介されていることを示し、この観点から人と自然が関わる場としての美術館の役割についてお話いただきました。

 「共感のエコロジー」を副題に持つ展覧会では、美術館がまるで一つの都市のようになり、あらゆる生き物が、単にお互いを見せ合うのではなく、同じリズムを共有して「踊る」ような共生の場を提供するという構想が紹介されています。コッチャ氏は、「いまや話すためのテクノロジーではなく、見るためのテクノロジーが必要である」と述べ、我々が他者の目を通して見ることによって、自らの身体を超えて他者と共感する場としての自然を開くことができるとし、本シンポジウムの主題となる新たなエコロジーの思想を提示されました。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士前期課程2年  葉柳朝佳音)

🌟後半の部

コッチャ先生による基調講演の後、休憩を挟んで、登壇者の方々によりそれぞれのご専門の視点から今回のシンポジウムのテーマに関するお話がされました。

・長谷川祐子館長(金沢21世紀美術館館長・美術史)

 長谷川館長は、今回のご自身の立場であるキュレーターとしての役割についてまずご紹介になり、コッチャ先生との出会いから今回のシンポジウムの趣旨である「ダンス」がどのようなヒントから得られたのかを述べられました。また、美術館の色々な役割のひとつとして、差異ばかりに注目するのではなく、共通の点を探っていく場となることが重要であると述べられました。その後、展覧会のパンフレットにも記載されているダイアグラムをもとに、展覧会のコンセプトについて説明されました。そして、実際に展示されている作品の一部に触れながら、今回の展覧会において、他の存在とどのようにダンスが踊られているのかを紹介されました。

・本橋仁先生(金沢21世紀美術館キュレーター・建築史)

 本橋先生は、「エコロジカルパラダイム―建築の観点から」と題して、建築との関連からお話されました。本橋先生は最近のトレンドである木造建築を例にあげ、建築における「環境・自然・木造」という結びつけが短絡的であり、今一度本当にそれが共生であるのかといったことを考える必要があると述べられました。本橋先生は、昨今のトレンド以前から自然との共生を目指した木造建築を行ってきた存在として、設計集団Team ZOOを挙げ、彼らの建築作品を紹介しながら、そのルーツについて触れ、自然と比率の問題がモダニズム建築にはもともと含有されていたことを示唆されました。そして、これからの課題として、自然の本質的な概念が無機質なモダニズム建築に含有されていることを再検証する必要があると述べられました。

・池野絢子先生(青山学院大学・美術史)

 池野先生は、今回の展覧会の感想と交えて以下の3点についてお話されました。まず、「物質主義の問い直し」として、資本主義の恩恵を受けた「豊かな芸術」に対抗するイタリアの芸術運動「アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)」が有する資本主義の再考、人間中心主義に対する問い直しなどといった意義を今回の展覧会の作品群が、同じように持っているように感じたと所感を述べられました。次に、「大気と呼吸の芸術」として、コッチャ先生の『植物の生の哲学』からの影響にも触れつつ、ご自身の今の研究対象である呼吸、大気を用いた美術について説明されました。そして最後にディスカッションへ向けて、「共感と政治」として、マリア・フェルナンダ・カルドーゾによる《芸術の起源について I-II》を取り上げ、蜘蛛の踊りを見た際のご自身の感想も踏まえ、他者との共感の問題が他種間との政治とも関わることなのではないかと問題提起されました。

・岩崎陽一先生(名古屋大学・インド哲学)

 岩崎先生は「すべてのものとダンスを踊る―シャクンタラー」として、インドの劇作家であるカーリダーサの作品『シャクンタラー』から詩を紹介されました。カーリダーサの作品では、人間と共に植物、動物、太陽や月といった様々なものが寄り集まっているといった点が今回のテーマである「すべてのものとダンスを」ということに結びつくと述べられました。そして、翻訳だけでは理解しえないことから、原文のサンスクリットで詩を実際に詠み上げられました。最後に、植物は通常、インド思想において魂を持たない人間の仲間とはされないものであるが、植物もまた「息」をする「いきもの」であり、植物を含めた様々なものがダンスをする様子がインド思想に見いだせると述べられました。

・高橋秀之先生(大阪大学・ヒューマンエージェントインタラクション)

 高橋先生は「人間と機械のダンスが生み出すふしぎな冒険」と題して、人間とロボットの関係についてお話されました。高橋先生は、人間とロボットの関係として、人間がロボットに何か「してもらう」だけでなく、人間には他者に何か「してあげたい欲」が存在することに着目し、その欲求を満たしてくれるようなロボットとそれを用いた研究結果とを紹介されました。高橋先生は、「してあげたい」と「してもらいたい」のバランスが重要だとして、コミュニケーションを媒介として制御することで、人間とロボット(機械)が対等な関係になる未来を作っていくことを提案されました。機械に依存するのではない仕組みをつくることで両者の対等な関係をつくることが、他者の主観世界を共有して、自分の世界の拡大、ひいては新たな文化を生み出すことに繋がると述べられました。

・山本哲也先生(徳島大学・臨床心理情報学)

 山本先生は「デジタルと踊る共感のエコロジー―人とバーチャルキャラクターが共鳴する時代へ」と題して、人間とバーチャルキャラクターの関係についてお話されました。まず最初に山本先生は、ダンスとテクノロジーの共通点として、「境界を越えて、人々の繋がりをもたらす」ことを挙げ、デジタル技術とダンスの融合が人間に何をもたらすのかの一例として、バーチャルキャラクターと一緒に阿波踊りを踊る「AR阿波踊り」を紹介されました。また、バーチャルキャラクターとの生活がどのような影響をもたらすのかということに関して、生成AIを活用して開発された柔軟に対話可能なバーチャルキャラクターについても紹介されました。バーチャルキャラクターとの対話による影響の検証結果として、対話前後で悩みの軽減、幸せ気分の上昇といった効果があったと報告されました。そして最後に、今後の研究の可能性として人とバーチャルキャラクターの共鳴が起こりうるということを指摘されました。

・伊東剛史先生(東京外国語大学・感情史)

 伊東先生は、シンポジウムのタイトル『すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー』に着目したお話をされました。まず、タイトルの「と」に着目し、今回のテーマにおける「と」を他の言葉に変えるとどう関係性が変化するのか、といったことを述べられました。次に、「共感」を取り上げ、「共感」が包摂や拡散などの様々な要素が表裏一体である色々な側面を有するものであると指摘されました。そして最後に、「踊って」に着目し、「舞を舞う」のような重言と促音言葉にリズム・間が生じるように感じられ、生の連続性が想起されるのではないかと述べられました。

 各登壇者のお話の後で、ディスカッションタイムが設けられました。まず、コッチャ先生が登壇者の方々のお話に応じる形でコメントをされました。コッチャ先生は、今回のシンポジウムのような大学と美術館のコラボがどのような意味を持つのかということを問題として挙げ、多様なものを学術的に1つに収束させようとする傾向が大学にはあると指摘し、新しい知のあり方を見直すことがコラボの最初に必要だと述べられました。たとえば、哲学者が現状のように本や論文を出版するのみではなく、他の表現、言語、形で表現をすることの必要性が例として挙げられました。また、高橋先生と山本先生のお話にあったロボットやバーチャルキャラクターとの関係について、人間の心理に合わせて表現しようとするような犬や猫といったペットに対する態度と似た部分があるのではないかと指摘されました。そして、「すべてのものとダンス」をするために必要なこととして、人間に共通な新しい文化、地球規模での文化、言語を作る必要があると主張し、大学がそのプラットフォームとなる必要があると述べられました。

 最後には、フロアからの質問や登壇者同士でのディスカッションが行われ、周藤芳幸先生(名古屋大学人文学研究科研究科長)の閉会挨拶をもって、シンポジウムは幕を閉じました。

(文責:名古屋大学人文学研究科博士後期課程1年 田中基規)

[第9回案内]NEW!

🌟開催日時:2024年11月22日(金)20:00〜22:30
🌟講師:飯島雄太郎(翻訳家・大学講師)
🌟コメンテーター:暴力と破滅の運び手(会社員/小説家)
🌟テキスト:トーマス・ベルンハルト 『推敲』 河出書房新社、 2021

(※読書会のメインテキストは『推敲』ですが、第二部では最新訳『石灰工場』 (2024 年 9 月刊)にも触れていただきます)

名古屋大学×金沢21世紀美術館共催シンポジウム

題目:「すべてのものとダンスを踊ってー共感のエコロジー」

期間:2024年11月4日(祝日・月) 10:00~13:00 

会場:名古屋大学東山キャンパス 坂田・平田ホール(愛知県名古屋市千種区不老町 理学南館)*同時通訳有り、事前予約不要、参加費無料

関連リンク:

名古屋大学 × 金沢21世紀美術館 共催シンポジウム「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」|イベント|金沢21世紀美術館 | 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa. (kanazawa21.jp)

すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー|金沢21世紀美術館 | 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa. (kanazawa21.jp)

ご挨拶

このたび、人文知共創センターは、金沢21世紀美術館との共催でシンポジウムを開催することになりましたので、ご案内申しあげます。

 金沢21世紀美術館は、今年で創立20周年を迎えます。その記念イベントの一環として、11月2日より、金沢21世紀美術館では、展覧会「すべてのものとダンスを踊って——共感のエコロジー」が開催されます。
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1821
すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー|金沢21世紀美術館 | 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa.
石川県金沢市にある現代美術館です。来館情報、展覧会、イベント、教育普及プログラム、コレクションの紹介など。www.kanazawa21.jp

 この展覧会は、思想をアートで実践するという点でも、非常に革新的な内容となっており、1人でも多くの方に、展覧会にもお足を運んでいただけるよう、この名古屋で、展覧会の趣旨と意義を発信することになりました。

 人文知共創センターが推進する学術知共創プロジェクト「人間・社会・自然の来歴と未来:「人新世」における人間性の根本を問う」 ( 「AAAプロジェクト」 )は、理論的柱の1つとしてラトゥールの思想を据えており、美術館館長の長谷川祐子さんは、晩年のラトゥールと共に仕事をされた経験もあり、今回の展示にはその思想が反映されています。

 展覧会のコ・キュレーターを務めるエマニュエール・コッチャ氏(パリ社会科学高等研究院)は、植物の哲学で著名な方で、アガンベンの弟子でもあり、『メタモルフォーゼの哲学』などの著作が翻訳されています。

 本シンポジウムではコッチャさんに基調講演「Metropolitan Nature: How Nature builds Cities」をしていただき、続くディスカッションでは、館長、キュレーター、そして私どものプロジェクトより、感情史、美術史、インド哲学、認知科学とロボティクス、臨床心理情報学の研究者が参加し、それぞれの観点から展覧会を照射し、これに照応してコッチャ氏からコメントをいただきます。

 是非とも多くの方においでいただけますよう、ご来場をお待ちしております。               

人文知共創センター 中村靖子

共通世界の構築への誘い――ラトゥールとキュレーション

 戦争/地球環境問題/貧困を始めとした様々な危機を抱える現代において、私たちはかつてないほどの「分断」を経験しています。この地球規模での危機および「分断」状況において、私たちが人間/非人間のような種別を問わず地球に住まう存在として共に在り続けるためのグランドデザインの構築は、事態が刻一刻と深刻化するなかで地球に住まう私たち誰しもにとって喫緊の課題であるといえるでしょう。

 この課題へ対処する上で鍵となるのは、脱人間中心主義的思想の旗手として名を馳せたブリュノ・ラトゥールの思想実践です。科学活動の営みを人間/非人間の絶え間ない相互連関として捉え直すアクターネットワーク理論(ANT)の視座を確立したラトゥールは主著『虚構の近代』(1991年)において、人間の社会/非人間の自然、そして社会と自然を区別する近代/これらを区別しない非近代という、弁別的な思考様式それ自体が近代人の偶像であると大胆にも宣言します。近代の象徴ともいえる科学そして近代そのものの人間中心主義を解体し、脱人間中心主義的な枠組みへと再構築するラトゥールは、2000年代以降展覧会制作者としてキュレーション実践へと身を投じます。ラトゥールはドイツのカールスルーエ・アート・アンド・メディア・センター(ZKM)において、「Iconoclash」(2002年)/「Making Things Public」(2005年)/「Reset Modernity!」(2016年)/「Critical Zones」(2020年)といった数多くのキュレーションを手掛けましたが、ラトゥールのキュレーション実践の焦点は参加者それぞれの視点を還元することなく全員が参加可能な共通世界を構築することにありました。ラトゥールは人間か非人間かを問わず種々の存在がもつれ合い連関する姿をありありと提示することを通じて、オーディエンスを連関が絶え間なく生成変化する共通世界の構築活動へと誘っていたのです(ご関心がある方は、長谷川祐子編[2022年]『新しいエコロジーとアート』を是非ご覧ください)。

 共通世界の構築、これはラトゥールの思想実践と本シンポジウムをつなぐ重要なキーワードとなるでしょう。本シンポジウムは、開館20周年展覧会企画において総合的なエコロジー思想を体現した作品展示および思想の視覚化・可感化を通じた学びの提供を企図する金沢21世紀美術館、そして人間−社会−自然の来歴を辿り直し〈他者や自然との柔らかな均衡〉としての未来を構想する名古屋大学人文知共創センターが協働する共催企画になります。本シンポジウムの開催が、私たちが共に在り続ける共通世界の新たなグランドデザインを提起する上での橋頭堡のみならず、オーディエンスそして未来の他者が地球に住まう存在としてこの共通世界の構築活動へと参画する実践的な契機となることを願ってやみません。

 是非とも多くの方においでいただけますよう、ご来場をお待ちしております。               

北陸大学 金 信行

2024.7.19 第8回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

🌟【1】発表内容のまとめ

はじめに

 今回、18世紀フランドル地方の商家の人々を描いた歴史小説、佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』を課題本としてとりあげました。本書を課題本にした意図は三つあります。なによりもまず、私が読んで、一読者として非常に魅力ある小説と思ったことです。次に、「ヒト・動植物・機械・モノ・自然の境界」というこの読書会のテーマの各要素がこの小説に有意に現れていることです。さらに、第二の点と関連して、良質な歴史小説内の登場人物の心性を丁寧に読むことができれば、我々がただ自らの想像力をもってして手持ちの材料から問うのとは違うかたちで——違う視点を借りて——「ヒト・動植物・機械・モノ・自然の境界」に関して問い直せる可能性があることです。このようにして、この科研プロジェクトに寄与することができるのではないかと考えました。

 私は文学研究者ではなく、専門は18世紀イギリスの政治思想史ですので、その立場から、①「18世紀」に住まう人々の価値観を知ることや、②「調べ物をしながら小説を読む」ことの楽しさを参加者と共有することを目的として発表をしました。こうした目的の設定により、歴史学的な視点を助けとしながら一緒に小説を読み、先に挙げた三点目の意図、「良質な歴史小説内の登場人物の心性を丁寧に読むことで自らの思考を問い直すという効果を果たす」ことがある程度できたと思います。

 私の発表の焦点は主に「18世紀」という時代に関するところにあるため、文学作品のアナライズという面を補っていただきたく、アメリカ合衆国の女性史を題材にした小説で受賞の経験がある小説家の暴力と破滅の運び手さんにコメンテーターをお願いしました。その役割分担はコメンテーターの尽力によって上手く機能しました。ちなみにですが、私と暴力と破滅の運び手さんは、佐藤亜紀さんが2018年に京都大学で行った歴史小説に関する集中講義に一緒に出席していた思い出があります(著者のブログにてその内容は一部掲載されています〈2024年7月現在確認〉)。今回の両者の発表では、時間の制約もありますが、上記の意図や目的を果たすために、「歴史小説とは何か」という重要なテーマには意識的に深くは立ち入らず、あくまで小説内の世界を解説することに専念しました。

発表のながれ

⑴感想を集める

まず、主催者と参加者から広く感想を募りました。この際、参加者が匿名で感想を入力できるAIVISを利用しました。この時点で多くの感想が寄せられたため、発表中にいくつかの論点をとりあげました。特に、小説の舞台、フランス革命のイデオロギー、登場人物の心性(特に、ヤン、ヤネケら主人公たち、またその息子レオ)に関するものが目立ちました。

⑵藤原によるスライド発表

 事前にお送りしていたトピックリストに概ね添いつつ、以下大別して①〜④の論点をお話ししました。また、末尾には「おまけ」として作中の出来事と18世紀ヨーロッパ史とを二列に並べた詳しい年表を付しました。

①小説の舞台(市壁、べギンホフ)における、「境界」と「自由」

 まず、小説の舞台の性格を知るため、作中冒頭に印象的に現れる「市壁」という「境界」と、作中で非常に重要な役割を担うベギンホフの壁・塀という「境界」に着眼して、こうした「境界」によって成立している特殊な「自由」について、歴史的背景を踏まえつつ分析しました。※「境界」という言葉は「終わらない読書会」のテーマに即した分析概念であって、小説で使用されている語ではありません。

A. 都市の特権——「市壁」の内側

 18世紀フランドル地方の大体の状況を紹介したのち、舞台となる時代と場所の特性について小説に即して分析しました。この小説の始まりと終わりは、オーストリア継承戦争後から、低地地方がフランスの支配下に完全に置かれるまでの1748年〜1794年に設定されています。小説の舞台とされる時代が、さまざまな勢力から支配を受けた低地地方の歴史のなかでは相対的に平和な時代であることは、登場人物の幼少の戦争の記憶などからわかるように叙述されていました。舞台である「シント・ヨリス」は、伝統的に都市の「特権的な自由」を維持してきた、それを守り抜いてきたことが描かれています。この「特権」としての「自由」は、物語の最後にはヨーゼフ二世の行政改革や、フランス革命によってもたらされた「自由」と大きく対立することになるでしょう。また、市壁は自由の領域を示すとともに同時に、都市の閉鎖性を示していたことにも触れました。

B. 女性たちの自由——べギンホフの壁

 主に上條敏子『ベギン運動の展開とベギンホフの形成 : 単身女性の西欧中世』(2001年、刀水書房)に即しつつ、日本の読者にあまり馴染みがなさそうなべギンという存在や、べギンホフという場所について簡単に説明したのち、作中のべギンにとってべギンホフの塀がどのように機能していたのかを分析しました。女性が自ら生計を立てて、男性から独立して生涯を営むことのできる特権的な空間としてべギン会が書かれていることや、特に「規則破りの規則」という台詞に着目し、自分でその壁の内外を行き来する塩梅を決めるべギンの存在に触れました。こうした「自由」もまた、物語の終わりにフランス革命の「自由」と衝突することになります。

②登場人物らの知性——それぞれの価値観と世界像

 群像劇的な趣のある本作には、登場人物それぞれの「美徳」が、時に彼らの自覚的言明であったり、そうでなかったりする仕方で描かれています。ここでは、注目されがちな二人の主人公、ヤン、ヤネケ以外の人々にも着目するかたちで、登場人物らの知性を分析しました。そうすることで、それぞれの人物が有する世界像やそれぞれの価値観に基づく「自由」のあり方を理解して、小説内に描かれる、我々と似通っていてもどこか違う18世紀人たちの認識を検討しました。

A. ヤネケ

     各章につけられた全部で五つのエピグラフのうち、「コリントの信徒への手紙」、アダム・スミスやヴォルテールに並んで、実在しないテクストが二つ引用されていますが、これらは「ヤネケ」という登場人物によるテクストであると、本テクストとの関係から理解できます。またヤネケが当時実在した科学者と書簡のやり取りをしている描写も各所にみられます。こうした効果を通じて創作された人物があたかも当時の実在の人間であるかのように思わされるという以上に、ヤネケが一人の科学者として当時の「文芸共和国」に参入する仕方・戦略が鮮明となっていることに着目しました。そこで、ヤネケの「仕事」の多彩さをみることで、当時の知的世界の豊かさを歴史的事実を紹介しつつ巡り、女性が出版業界とどのように関わったかに焦点を当てました。また、作中で描かれるヤネケの思想を、「統計学」と「神学」との関係に特に光を当てることで理解しました。この発表の最後で、「完全に無作為で無目的な自然」によって生じる摂理と矛盾しない「自由」というヤネケ哲学の骨子は、人間と動植物との「境界」を取り払ってなお人間を「自由」であるということのできるものであると考えました。

    B. ヤネケ以外の人物

       J. G. A. ポーコックが『野蛮と宗教』で描き出した「複数の啓蒙」のように、作中にはさまざまな出自・来歴を持ちさまざまな知性を有する登場人物たちが出てきます。ここでは、彼らの知性をそれぞれ分析しました。発表の中で個人的に一番気に入っている箇所ですが、長くなってしまうため要約が難しいです。たとえば、亜麻の仲買の仕事を自然相手にした「真剣」な仕事としてやりがいを感じるヤンに対して、ヤネケがその自然を「確率」と言い換えてしまうなど、登場人物のものの見方の違いによって世界像がさまざまに現れることに着目しながら、それぞれのキャラクターとその「美徳」を理解しました。(本発表は特に主な視点人物であるヤン・ヤネケとテオとの関係性に光を当てたところに美徳があると思います。)

      ③時間の感覚——いろいろなサイクル、新しい「未来」

       ここでは、①の政治史的論点も引き継ぎつつ、作中で描かれるさまざまな時間の感覚と、物語最後に現れる二つの革命——フランス革命と産業革命——がもたらした新しい時間の感覚について分析しました。列挙しますと以下になります。亜麻の栽培のサイクル、天文学的な時間のサイクル、確率論、神学。「中世」的な特権を有し、近過去の歴史の感覚を有している都市に流れる時間と、フランス「革命」という新しい事象の対比。イノベーションによる産業構造の転変。

      ④複数の「自由」と「幸いなる魂」

       これまでで見てきたトピックをまとめる形で、「自然」と「自由」(作中、後者は前者(自然本性)に論理的に依存することが多い)という語彙に着目し、本作に見られるさまざまな、時に対立する「自由」を整理しました。以下、簡単に列挙します:都市の自由、田舎の自由、フランス革命の自由(作中ではレオという人物に代表され、都市の自由とべギンの自由と対立します)、べギンの自由、「完全に無作為で無目的な自然」が与える偶然という自由、自らの選択という自由。

       そうした各々の「自然」と「自由」の対立が終盤にむけてどんどん激化していくのですが、それでもやはり本書のタイトルは『喜べ、幸いなる魂よ』です。そのことの意味を、作中に登場する『滅却されて愛を望み欲する素朴な魂の鏡』や、②Aで分析したヤネケの哲学から問い、開いたままにする形で発表を終えました。

      ⑶暴力と破滅の運び手さんによるコメント

      小説のなかに出現する「さまざまな声」(異なる言語や、異なるメディアなど)の多層性と、「マテリアル」に着目し、対比的に表現されている諸要素をていねいに抽出した発表をされていました。実作者としての観点を活かした、小説の構造、叙述に迫る内容だったと思います。詳しくは下のコメンテーターによる報告をご覧ください。

      ⑷質疑など

       発表中にzoomのチャット欄に多くのコメントが寄せられていたため、それらのコメントと、⑴のAIVISで集めた感想などを平繁さんに取り上げていただきつつ、私とコメンテーターの暴力と破滅の運び手さんとで応答しました。たくさんの面白い意見をいただきました。下の【2】の箇所で、事後にいただいた読書会全体の感想とともにまとめます。

      🌟【2】フィードバックについての省察

       読書会後の感想では、課題本は少し読むのにハードルが高く感じたが、今回の読書会を機に読めてよかった、理解が深まった、などという意見をいただきました。私の発表に関して、衒学的と受け取られないか少し不安に感じていましたが、コメンテーターとの役割分担も上手に機能したのか、成功したようでこちらとしても大変嬉しいです。以下、会の最中にいただいたコメント、事後の感想を合わせて、参加者との双方向的なやりとりから生まれた重要なトピックに関して書きます。②以降は当日十分に答えられなかった点を追記していますので、参加された方にぜひ読んでいただきたいです。

      ①フランス革命の「博愛」精神と、レオの女性蔑視は矛盾するのでは?:フランス革命思想史やフランス革命の「心性」を問う研究の複雑な状況をあげつつ、オランプ・ド・グージュの存在に触れることで、博愛精神が男性に限ったものであったと理解する方向を示しました。

      ②なぜレオがあんな風(行き過ぎたルソー主義者で、農業至上主義かつ女性嫌い)になってしまったのか:この質問は非常に多かったです。私が発表中に「変化」という言葉を安易に用いてしまったことも原因であったような気がします。いわゆるBildungsroman的な弁証法的成長はレオにはありませんよね、というところでお茶を濁しましたが、コメントにはたくさんの推測が寄せられていました。

       この点について追加すべきことがあったように思います。「市壁」は、冒頭でファン・デール氏が述べるようにある種の人間にとっては「息の詰まる」ものであったはずです。レオは周囲の女性たちと軋轢を起こした結果、ついに「シント・ヨリス」を追放され、パリに飛ばされてしまいます。この出来事を、「ジュネーヴ市民」ルソーと、ジュネーヴとの関係や、城門に関するエピソードと比較しながら読み、市壁のなかのシステムや人間関係の閉塞性に馴染むことができなかったレオの生涯を考え直してみると、彼のことがよくわかるかもしれません。

       ちなみに(レオはルソーではありませんが)、ルソーの「女性」に関する思想研究は、現在様々な展開を見せているようです。最近出たものとして、源川まり子「『エミール』第5篇における観察と嘘——「女性の嘘」に関する一考察」(2024年、『日本18世紀学会年報』第39号)を挙げておきます。

      ③ヤネケの哲学的文言について:ヤネケが弁舌を振るう箇所について、参加者からはかなり共感・好意的な意見が多かったように見受けます。今回の発表部分では、ヤネケが院長を一番信頼して、大演説をしていることを指摘しました。参加者からの声を受けて、質疑応答ではヤネケの饒舌さや彼女の話の長さを気にしても良いのではないかと指摘しました。終わった後、もう少し考えを深めたため、以下記しておきます。コメンテーターの発表にあったように、この小説には「複数の声」が響いています。おそらく発話されたものとしてはヤネケの演説が、長さという点ではランキング上位を占めているでしょう。たとえばドストエフスキーの登場人物よりは控えめですが、少し滑稽なものとして取ることもできるのではないでしょうか。もちろんヤネケはヤンと話す時など、適切な長さで自分の話をコントロールしている側面もあるため、むやみやたらに独壇場を作り出してしまう人ではありませんし、発話の長さと速さを戦略的に利用しているシーンもあります。以上、こうした点も指摘できたと思います。

      ④「境界が揺らぐ主題」が今回要素としては十分見えたが強調・整理されていなかったというご指摘:反省いたします。参加者の方が整理して書いてくださったように、「現代と18世紀、男と女、科学と宗教、さまざまな自由、国の境界」などさまざまなトピックを扱いました。

       もう一度発表をやりなおすのであれば、「境界が揺らぐ主題」として、今回はオープンエンドにとどめた本書のタイトルである「幸いなる魂」を中心として組み直したいです。そのためには、「この単純な魂って、一体何なんだろうね。真っ裸にされて昇って行く。善悪の概念さえ引っ剥がされて、昇って行く。」(文庫版、157頁)というヤネケの心中の言葉や、マルグリット・ポーレート『滅却されて愛を望み欲する素朴な魂の鏡』の本作内での役割をいまいちど考え直す必要があると思います。現状力不足ですので、示唆にとどめさせていただきます。

      ⑤18世紀関係の文献:参加者の方から、複合国家論・礫岩国家論に関する文献を知りたいという声をいただきました。この場で2つに絞って挙げさせてただきます。後者は絶版ですので、図書館で探してみてください。

      J・G・A・ポーコック著、犬塚元、安藤裕介、石川敬史、片山文雄、古城毅、中村逸春訳『島々の発見 : 「新しいブリテン史」と政治思想』(名古屋大学出版会、2013年)

      古谷大輔、近藤和彦編『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、2016)

       またCiNiiのページ(https://cir.nii.ac.jp/)から、「複合国家」や「礫岩国家」等で検索をかけて、ご自身の関心ある地域・テーマのものを読んでみてもよいかもしれません。

      反省点

       私の調べが甘く、フランドル地方についての歴史学的質問にいくつか十分に答えることができなかった局面が数回ありました。著者の佐藤亜紀さんが利用したであろう一次資料や、オランダ語を含む二次資料に事前にアクセスしておくべきだったと思います。「18世紀研究の立場から」、と大見得を切っておいて、その点で不足を見せてしまったこと、大変心苦しく思っております。

      謝辞

       まずは、コメンテーターを務めていただきました、暴力と破滅の運び手さんに感謝の意を表したいです。運び手さんとは、事前にたくさん意見交換をしました。私の発表部分も、運び手さんとのやりとりなしには作成できなかったところがあります。

       主催の南谷さん、平繁さん、小林さん、未熟な私の手助けをしてくださり、ありがとうございました。小林さんは私の足早な発表からキーワードを抜き出してくださり、参加者の方々にわかりやすくしてくださりました。平繁さんは参加者から寄せられたたくさんの質問・コメントを整理してくださり、発表者としては応答することに専念できたおかげでより良い応答ができたと感じております。南谷さんには、事前の説明や打ち合わせからお世話になりましたし、南谷さんのおかげで会をスムーズにかつ良い雰囲気で進められて、発表者として安心できました。主催のみなさんの読解やコメントも大変興味深く、もっとお話ししたいと思いました。

       そして何よりも参加者のみなさま、深く感謝いたします。オンラインとはいえ、70名以上の参加者の方の前でお話しすることにとても緊張しましたが、AIVISやzoomチャット欄でコメントをいただくなかで、徐々に一読者として同じフロアに立って一緒にものを考えている喜びが勝り、最終的にはただ愉快に楽しくお話しするという講師の特権を謳歌することができました。皆様からのコメントに非常に刺激を受け、いま『喜べ、幸いなる魂よ』を再読しているところです。

       最後に、これを機に、佐藤亜紀さんの作品はもちろんのこと、18世紀研究や歴史研究、思想史研究に興味をもっていただけたら嬉しく思います。

      2024.8.19 第5回研究集会 理論班セッション 

      🌟大平健太先生・大平徹先生 

      大平健太先生・大平徹先生は、一つの言語としての数学の役割について報告されました。地震の予測、天気予報、コロナ感染の予測などを例に、こうした現実の事象が条件付き確率として数学的にどのように記述されるのか、さらに、予測の基礎となる予兆と、予兆の評価となる予測の結果の相互のフィードバックによって、条件付き確率がどのように変化していくのかを示されました。また、暗号の作成における数学の役割に注目し、数学を応用した技術が歴史に与えたインパクトや、現代社会を支える重要な技術への数学の応用例を紹介されました。

      🌟大平英樹先生

       大平英樹先生は、「ハビトゥス(ある種の社会集団で共有される傾向性)を我々はどのように学習するのか」という問いを中心に、構成主義的情動理論の立場から、基本情動説との共通点・相違点を示しつつ、感情とそれに関連して引き起こされるアクションとの関係について分析されました。感情やコア・アフェクトの生成において情報処理の理論が援用可能であることを示した動物実験や、言語モデルを搭載した複数の人工知能(AI)エージェントをバーチャル空間で共同生活させる実験を紹介し、学習によってハビトゥスを獲得するプロセスがAIと人間において酷似している可能性を示唆されました。

      🌟中村靖子先生

       中村靖子先生は、『マルテの手記』の全71の手記のうち、特に恐怖について記述した第19、第47の手記について、複数のモデルでセンチメント分析を行い、その結果をモデルごとに比較するとともに、Chat-GPTを用いた8つの感情(joy, trust, fear, surprise, sadness, disgust, anger, expectation)の判断を基に、センチメントの内容を分析する試みについて報告されました。また、構造的トピックモデルによって可視化された、フロイトの著作の主題の変遷をもとに、中期に主要なトピックとなる“Traum”(夢)、後期の主要なトピックである“Witz”(機知)に再注目し、脳内で起こる情報の圧縮と転換という観点から夢と機知の類似点及び相違点を考察されました。

      🌟田村哲樹先生

       田村哲樹先生は、人間とモノやノン・ヒューマンの集合による行為や現象を、アクターネットワーク理論における「アクター」や「エージェンシー」という概念に基づいて脱人間中心的に記述する場合、政治という観点から見て人間のどのような資質が弱められるのか、反対に政治的なものとして一層強調されるものはなにかを考察されました。その際、AIやロボットが、何らかのモノやノン・ヒューマンの立場を「代表」 するという形で、AIやロボットを人間とモノやノン・ヒューマンの「媒介者(mediator)」として捉え直すことの可能性を検討されました。

      🌟平田周先生

       平田周先生は、ハビトゥスの概念に反省性を取り入れ、ブルデューとラトゥールの社会学的立場を調停したこれまでの研究を踏まえ、ラトゥールが、我々に人間とは異なる生物の存在様態の探求を可能にし、世界を居住可能にするものとして主張する「習慣」という概念を紹介されました。一方で、ラトゥールとは異なる立場から世界の居住者としての人間と動物の関係を考察した論者として、バティスト・モリゾを取り上げ、我々が直面する環境や生物の危機は、自然を受動的なものとして考え、人間以外の生物を世界の居住者から除外しようとする我々の態度にあるとする議論を紹介されました。これらを踏まえ、こうしたモリゾの議論における「追跡」の概念と、ラトゥールの「翻訳」の概念の対応を指摘されました。

       討論では、以下のような観点から第5セッションのそれぞれの報告について、その展開可能性や相互の関連性が議論されました。

      • 言語モデルを搭載したAIが暮らすバーチャル空間において 個々のエージェントに固有の内部状態や個性が育まれているのか、またそれはどのようにして測定可能なのか?
      • 人間によって代弁・代理されることのない、ノン・ヒューマンによる政治について、ロボットやAIなどの人工物をノン・ヒューマンの代理として立てることはノン・ヒューマンの多様性を保証できるのか?
      • 何がハビトゥスに含まれるのか、例えば防災訓練や、コロナ禍における「新しい生活習慣はどうか?
      • ハビトゥスと文化の違いとはなにか?
      • 生物のジェスチャーや自然現象など、ノン・ヒューマン同士の非言語的(人間の言語によらない)コミュニケーションを政治という観点からどのように捉えることができるのか?

      (文責: 大阪大学人文学研究科 博士前期課程2年  葉柳朝佳音)

      2024.8.19 第5回研究集会 セクシュアリティセッション 

       セッション4では「セクシュアリティ」をテーマに鳥山定嗣先生がご発表されました。

      🌟鳥山定嗣先生

       鳥山先生は、言語におけるジェンダーと作家のセクシュアリティの関係をテーマとし、フランスのソネット(十四行詩)、とりわけポール・ヴェルレーヌの詩を取りあげました。言語のジェンダーには、文法上の性(男性名詞・女性名詞・中性名詞)や脚韻の性(女性韻・男性韻)がありますが、性的マイノリティの詩人たちはこれをどのように活用しているのか、「規範からの逸脱」が論点となりました。まずソネットの歴史を概観した上で、正規のソネット(4433)の構造を逆にした倒置ソネット(3344)が19世紀に現れること、美学的な意図でこれを用いる詩人がいる(Auguste Brizeuxは倒置ソネットをピラミッドに喩える)一方、ヴェルレーヌの倒置ソネットには同性愛の主題が読みとれることを、先行研究を紹介しつつ解説されました。また、鷹、白鳥、蛇などの動物のイメージに読みとれる性的含意、ラファエロ《悪魔を倒す聖ミカエル》を想起させるキリスト教的なモチーフ、さらに屈折した自意識の表現と思われる脚韻配置の変則性にも言及されました。

       質疑応答では、フランス式ソネットの特徴(イタリア式ソネットとイギリス式ソネットとの比較)が話題となりました。また、エンブレム詩やコンクリート・ポエムとも関連する論点として、Brizeuxの倒置ソネットに見られる「ピラミッド」のような文化的象徴が男性性や権力を表現する手法と結びついているのではないかという質問に対して、Brizeuxの詩は直接的にジェンダーを問題としているわけではないが、伝統的な形式を覆す美的象徴としてピラミッドという非ヨーロッパ的な形象を用いた可能性があると応じました。また、ヴェルレーヌの詩における白鳥のメタファーをめぐって、絵画ではレダと白鳥(ゼウス)のように、白鳥が男性的な性的象徴として描かれることが多いという指摘に対して、文学では白鳥が女体を暗示する場合もあり、バシュラールの指摘するように、両性具有的な象徴とみなされることを確認されました。

      (文責:京都大学 博士後期課程 飯沼洋子)

      2024.8.19 第5回研究集会 自然とアートセッション 

       2024年8月19日、20日に名古屋大学東山キャンパス文学部本館にて本年度第1回全体集会が開催されました。20日10時から12時にかけて、セッション3では「自然とアート」をテーマに研究発表が行われました。岩崎陽一先生が司会を担当し、金信行先生、武田宙也先生、池野絢子先生、森元斎先生の順番で発表されました。

      🌟金信行先生

       金先生は、金沢二十一世紀美術館が開催する開館20周年記念展覧会「すべてのものとダンスを踊って――共感のエコロジー」(11月2日〜3月16日)における共同イベント企画の発案を募りました。またブリュノ・ラトゥール氏や長谷川裕子氏のキュレーション活動を例に、アクターネットワークを拡張していく社会思想の実践としてのキュレーションのあり方を示しました。そのほか、山梨県立大学地域人材養成センターでのイベントについての企画案も提案されました。

       質疑応答では、企画案に関して、共同キュレーターの哲学者エマヌエーレ・コッチャ氏や植物学者ステファノ・マンクーゾ氏の招聘から、特に植物や自然を中心としたシンポジウムとなることが確認されました。その際に、自然の暴力性、抑えがたさといった側面もあわせて企画に盛り込むべきだという意見がありました。また食虫植物などを取り上げ、植物の主体性やアクティブな特性を評価し、多様な植物の研究や展示企画が提案されました。

      🌟武田宙也先生

       武田先生は、人新世とも関係し注目を集めているフランスの哲学者かつ精神分析家のフェリックス・ガタリの概念、「エコゾフィー(Ecosophy)」について発表されました。エコゾフィーとは心、社会、環境のエコロジーがそれぞれ相互連関している三位一体のエコロジー思想のことで、その参考例としてラ・ボルド病院を取りあげました。病院では医師と患者の二者関係ではなく、患者を取り巻く環境、人、もの、アクティビティの配置が複合的に絡み合うことで、患者の心のエコロジーに良い影響を与えると考えられ、都度、主体が新しく構築されていくような集合的な主体化が実践される拠点でした。

       質疑応答では、グループとコレクティブの差異についての議論がありました。ジャン=ポール・サルトルのグループでは人々が同じ方向を向くことで生まれる政治的方向性が求められる一方で、ジャン・ウリのコレクティブでは、その場に居合わせただけの有象無象の人々にポジティブな展望が見出されるといった説明がありました。ウリのコレクティブでは役割の固定化を避け、方向性を無化することで、常に新たな意味を持ち続けるという点が強調されました。政治学の観点からは、トップダウンの決定やアッセンブリッジの議論が、集団の多様性や可能性とどのように関連するかについても議論されました。

      🌟池野絢子先生

       池野先生は、1909年にイタリアで興った未来を思考する芸術運動、未来派が提唱したマニフェストの一つ〈機械芸術宣言〉を取りあげ、機械美学をセクシュアリティの問題から検討しました。未来派は過去の芸術を徹底的に否定し、新しい近代社会の速度とダイナミズムの美を追求しましたが、戦争を賛美したために、これまで評価が難しかった芸術運動です。人間は進化すると機械と同一化すると考えていた未来派の思想は、二十世紀における進歩のイデオロギーとして捉え直され、女性の代替物と化した美しい機械に見出されるような「人間―機械」の表象における性が検討されました。さらに未来派の女性アーティストがフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティとは異なるアプローチをとったことや、芸術的な表現における女性的要素の扱いについても言及されました。

       質疑応答では、未来派の機械や戦争賛美と、近代化が遅れた当時のイタリアの現実とが合致しない点が指摘され、コンプレックスに基づく思想である可能性が示唆されました。池野先生は、未来派が現実と適合しない極端な未来像を描くことで、芸術的なビジョンを追求していたと説明しました。

      🌟森元斎先生

       森先生は、芸術における暴力と欲望の関係をテーマに、キャピタリズムやアナーキズムとの関連について発表されました。特に二〇世紀初頭のアバンギャルド芸術運動(未来派、ダダ、シュールレアリスム)に焦点をあて、そのアナーキスト的側面が考察されました。ダダイストやレトリスト、シュールレアリストの活動、ベルリン・ダダとパリ・ダダの差異、フーゴ・バルの資本主義批判、ニーチェの影響についても言及されました。さらに、シチュアシオニスト・インターナショナルや映画、自然との融合についても考察し、アナーキーと芸術の関係およびその政治的影響について、議論されました。

       質疑応答では、アーティストによるコレクティブは政治的になりうるか、また、象徴化を通じて芸術がどのように影響を与えるかについても議論されました。第一次世界大戦はその重要なモデルケースであり、失敗のケースでもあります。アートと政治の関係性や、インドネシアのアーティストによるコレクティブ、ルアンルパの事例における政治性の解釈もまた重要なトピックであることが確認されました。

      (文責:京都大学、博士後期課程 飯沼洋子)

      2024.8.19 第5回研究集会 叢書第2巻セッション 

       名古屋大学・東山キャンパスで行われたAAAプロジェクト第5回研究集会 第1日目(2024/8/19)セッション2は、「生成AIとロボット」と題して、人間とAI、ロボットの関わりについて3つの研究成果が発表された。

      🌟池田慎之介先生

       第1発表の池田慎之介先生(金沢大)はまず、第3班において個人の主体化における脆弱性の意義の解明というテーマが共有されていると述べ、プロジェクト内での班の位置付けを行った。そして、ロボットやAIというトピックを軸にして基礎的知見の共有を行なってきたとこれまでの活動を総括した。その後、池田先生は「ヒトとロボットの“主体的”な共生に向けて」と題して、ロボットとの共生における主体性の重要性を主張する発表を行った。ロボットやAIを道徳的行為者として存在させるためには主体性を付与することが必要であるとしたうえで、認知心理学者マイケル・トマセロの主体性の分類に依拠して、ヒトとロボットの共生においては、とりわけ「共有的主体性」が重要になると主張した。共有的主体性の確立には規範・道徳といったものが重要であり、さらに規範や道徳は他者の脆弱性や痛みへの共感に基づく。ゆえに、ロボット・AIにどうすれば共感できるのか、どうすれば主体的な協働者として認識できるのかを明らかにすることが今後の課題であると述べた。

      🌟宮澤和貴先生

       第2発表の宮澤和貴先生(大阪大)は「言葉を扱うロボット・人工知能」と題して、ロボット・AIにおける実世界に根ざした言語の獲得をめぐる研究について報告した。世界モデルとして言語を獲得することを実世界に根ざした言語の獲得と定義したうえで、マルチモーダル情報と言語情報を統合することで概念モデルを形成して言語を世界モデルに内包させるための研究について紹介した。まず実体を持つロボットの言語学習において複数の感覚情報の関係を学ばせることで、概念の獲得が可能になる道を示した。次に実体を持たない人工知能においては事前学習によって単語の関係を学ばせることで、より汎用性の高い予測が実現できるとした。最後に、大規模言語モデルから大規模マルチモーダルモデルへの発展可能性とその意義を主張した。

      🌟高橋英之先生

       第3発表の高橋英之先生(大阪大)は「現実に侵食するロボット」と題して、人間とロボットがどのような関係を築くべきなのかを論じた。高橋先生は人間には他者に合わせてもらいたいという欲求があることを示す実験を紹介したうえで、他方で他者に何かをしてあげたいという欲求も存在することを指摘し、大道麻由氏(大阪大)の「感謝してくれる家電スイッチ」を紹介した。しかしながら一方向的な関係には無理があるとして、「してあげたい」と「してもらいたい」のバランスが取れた関係をロボットと築くことが重要であると主張した。そのためには「してあげたい」と思えるような存在感をロボットが獲得し人間とロボットが対等な関係になることが必要であり、その方法として人間とは異質な存在としてロボットをデザインするべきだと提言した。方法の具体例として、ロボットの外見と物語(バックストーリー)に注目したアプローチが紹介された。最後に大目標として、虚構と現実の境界面を曖昧にして、社会構造をより動的なものに変容させたいと述べ、そのために中動態的状態を可能にする存在としてロボットを理解することが鍵になると述べた。

       発表後の質疑応答においては、ロボットの主体性に関してトマセロの説が人間中心主義か否か、主体性を獲得したロボットは政治的主体となって政治に参加できるようになるのかといった議論が行われた。また人間の予測通りに行動するロボットの是非についても議論が行われた。

      (文責:京都大学大学院文学研究科博士後期課程2年 西村真悟)

      2024.8.19 第5回研究集会 叢書第1巻セッション 

       8/19-20の2日間にわたり、AAAプロジェクト第5回研究集会が開かれた。初日に行われたセッション1とセッション2との目的は、AAA叢書の第1巻と第2巻の執筆担当者である先生方にその内容の構想を発表していただくことである。

       セッション1では、テキストアナリティクスがテーマとなる叢書第1巻の執筆担当者である4人の先生方による発表が行われた。

      🌟鈴木麗璽先生

       鈴木麗璽先生の発表は、LLMを活用した人工社会におけるテキストの進化ダイナミクスに関する2つの分析事例の紹介である。従来の研究とは異なり、多数のLLMエージェントからなる集団を対象とした研究における出力は自然言語に基づいており、なおかつ膨大であることから、人工社会のテキスト分析に基づく理解が課題となる。1つめの事例は、会話トピックの選好性の文化進化モデルを構築し、言葉の進化ダイナミクスを分析したものである。たとえば、ポジティブ、ネガティブ、ポジティブ・ネガティブの3種の発話をそれぞれ行うように設定した多数のエージェントの動きを分析するといった実験を行うと、ポジティブなエージェントの方が集団を作りやすいことや、ポジティブな発話には「new」といった特定の語が含まれているといった傾向がわかった。こうした分析結果から、言葉の持つ特徴が集団形成のダイナミクスに貢献する可能性があると鈴木先生は述べた。2つめの事例は、LLMを活用し、ゲーム的相互作用における戦略に言葉を利用する分析である。これは、たとえば「強い動物」というようなお題のもと、それぞれ異なる動物の名前のデータを持つエージェントを競わせるとどのような進化のシナリオになるのかを分析するものである。従来の研究では相互作用に限界があるのに対し、LLMを活用したこの研究では、無数に生じうる選択肢から生じる多様・オープンエンドな進化シナリオが期待されると鈴木先生は述べた。

      🌟伊東剛史先生

       伊東剛史先生の発表は、19世紀末の標本採集人に大きな影響を及ぼしたチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ラッセル・ウォレスのそれぞれの探検旅行記である『ビーグル号航海記』と『マレー諸島探検記』とに対して行った感情の動きを分析するセンチメント分析の結果についてである。伊東先生は、まずダーウィンとウォレスとの共通点・相違点について説明し、次に両者の航海記に対するセンチメント分析の結果について報告を行った。分析を行うと、たとえば、ダーウィンとウォレス、両者の旅行記はともに帰国に近づくほどポジティブになるといった結果が出た。また、伊東先生は、旅行記に対する分析結果についての検証として、喜劇であるジェイン・オースティン『高慢と偏見』と悲劇であるトーマス・ハーディ『日陰者ジュード』についても同様の分析を行った。そこに現れる感情の動きが両作品の話の展開に合致することから、旅行記に対する分析結果も信頼性があるのではないかと語った。発表の最後には、研究をより深めるために、これから検討すべきいくつかの課題についての説明がなされた。

      🌟和泉悠先生

       和泉悠先生はカズオ・イシグロの小説『クララとおひさま』の翻訳に見られる「おんな言葉」について、テキストマイニングの手法を用いて分析・考察した結果の発表を行った。和泉先生は、現実の女性の「おんな言葉」の使用率との比較を行う対象として、「おんな言葉」の計量的研究として過去に行われた実態調査の結果を取り上げた。その先行研究の結果と『クララとおひさま』に登場する女性人物のセリフにおける「おんな言葉」を表す「女性的」文末形式の使用割合を比較すると、現実の女性全体では2.9 %であったのに対し、翻訳の女性人物のセリフは94 %と、両者には大きな差異が見られた。和泉先生は、この分析結果に基づき、翻訳で見られるような「おんな言葉」が現実の人間の話し方としてはほとんど見られないということは、「おんな言葉」が女らしさの強調というレベルの話に収まるのではなく、現実の人間との根本的乖離があるのではないかということを示唆した。また発表の締めくくりとして、「おんな言葉」の使用には、読者の世界観を操作する可能性をはじめとする、様々な規範的含意の可能性があるということを指摘した。

      🌟劉雪琴先生

       劉雪琴先生は、中国SF作品である『折りたたみ北京』の日本語訳である中国語からの直接翻訳と英語版を経由した重訳の2つの翻訳を対象とした、比較研究についての発表を行った。劉先生の研究によると、この2つの翻訳に用いられる語種や表現には差異が見られる。たとえば、語種については、直接翻訳は中国語の影響からか、和語や混種語が多い一方、重訳は英単語をそのままカタカナにした外来語が多いという有意な差が見られた。また、他にも、代名詞の使用については、直接翻訳は代名詞の省略が多い一方で、重訳は代名詞をそのまま翻訳したり、人名に置き換えるといった差が見られるという。修飾語については、直接翻訳は原文への忠実度が高く、重訳では省略されている形容詞の使用などが見られ、多様性という点では、直接翻訳の方が重訳より高いということが読み取れた。最後に劉先生は、今後の課題として、人称代名詞の頻度に関する考察が、単なる語彙の問題にとどまらず、物語の視点や話法とも密接に関連するため、さらなる精査・検討が必要となると述べた。

       先生方の発表の後には、質疑応答・討論の時間が設けられた。たとえば、鈴木先生の発表に対して、AIを用いた人工社会の分析が、現実の人間のコピーと言えるのか、といった研究の意義・目的および人間とAIとの関係を問うような質問がされるなど、研究のブラッシュアップに繋がる議論が多く行われた。

      (文責:名古屋大学人文学研究科博士後期課程1年 田中基規)