2025.3.12-14 国際シンポジウム「Anthropocene Calling II: Humans, Animals, Machines」

2025年3月12日から3月14日にかけて、イタリアのベルガモ大学の連携施設アスティーノ修道院(Monastero di Astino)にて、国際シンポジウム「Anthropocene Calling II: Humans, Animals, Machines」が開催された。本シンポジウムは2024年にローマ大学トル・ヴェルガータ校で行われた国際会議の継続として、「人新世」を主題にすえ、人間中心主義がもたらす諸問題について多角的な検討を行うことを目的としたものである。第一回会議では「自然、技術、言語文化、芸術」の四つの研究分野に紐づいた副題が掲げられたが、第二回となる今回は「人間、動物、機械」といった研究対象を副題の中心とし、より領域横断が可能となった議論が促進された。

ポスター

 シンポジウムでは、まず中村代表から開会の辞が述べられた。さらに、会場であるアスティーノ修道院の管理を担うMIA財団の評議員Rodeschini評議員より、日本とイタリア間の学術協力に対する賛辞と歓迎の辞が述べられた。また、本シンポジウムがベルガモ大学とMIA財団の初の協働の場となったことにも言及された。シンポジウム参加者には、AAAプロジェクト第五班のグループリーダー武田をはじめとするプロジェクトメンバーが、そしてベルガモ大学、ローマ大学トル・ヴェルガータ校、東ピエモンテ大学、スイスのザンクト・ガレン大学の研究者が名を連ね、人文科学から自然科学に至るまで多様で幅広い専門分野の研究者が集い、それぞれの知見に基づいた発表と活発な討議が行われた。さらに、議論は英語、イタリア語、日本語を取り混ぜて行われ、日本とイタリアにおける学術

的協力の深化が確認された(報告文末尾のリストを参照のこと)。本報告書では、三日にわたるシンポジウムで設けられた六つのセッション――自然1、自然2、人間と動物、ロボットと感情、人間・機械・ハビトゥス、芸術とエコロジー――を概観し、それぞれの発表内容を簡潔に要約する。なお、登壇者の氏名については敬称略とする。

会場

 セッション「自然1」では、人新世における人間と自然の関係がどのように再構築されるべきかを、宗教・哲学・地政学の視点から考察した。岡田の発表では、中世キリスト教における復活、輪廻、変容の思想を通じ、固定化されない自然観について検討された。従来のキリスト教的復活は不変の自己を前提とするが、異端とされた変容の概念こそが、現代のエコロジー思考により適合することが示された。参照された作品にはベルガモのコッレオーニ礼拝堂における寄木細工の宗教画や、ベルガモで活躍し影響を与えた画家ロレンツォ・ロットの作品等が取り上げられた。Terrosiの発表では、人新世における自然の人間化、人間の自然化、技術の自律化という三つの疎外が提示された。そして人間・自然・技術間における関係性を批判的に切り離し、個々の存在論を捉え直すことで、それらの関係性を再構築することが検討された。Luisettiの議論では、地球と生命体の関係、および地球を変容させる力を指すジオ・パワー(Geopower)の概念を基軸に、植民地主義的な自然観の克服が論じられた。人新世における地球が直面している環境問題に対し、すべての人間が同等に関与しているのではなく、その起源には植民地主義によるプランテーション新世(Plantationocene)があり、自然は単なる資源ではないことが強調された。これらのテーマを表現しているアーティスト、カロリーナ・カイセドや下道基行の作品が参照された。

 セッション「自然2」における発表では、崇高(Sublime)の概念を軸に、人新世における美学・哲学的視点から論じられた。武田は写真家、畠山直哉の作品を対象とし、そのテーマである崇高について分析した。畠山の作品では自然と人間、自然と技術の関係を同等のものと扱う点に、ロマン主義的な崇高の概念とは異なる要素が見出されることを指摘した。そしてニコラ・ブリオーの人新世的崇高(Anthropocenic Sublime)を参照に、人間と自然の現代的な関係性を捉え直し、人新世における崇高の新たなあり方を提示した。Patellaは一八世紀以降、重要視されてきた自然に対する美的感受性、つまり崇高の概念に焦点をあてた。従来の崇高論では自然を他者性として畏怖する視点(感傷的崇高)と、主体の鏡として内面化する視点(形而上的崇高)が見出される。そして環境危機を背景とした現代においては、不気味さ(Uncanny)が新たな生態学的感情として表出していることを指摘し、三つの崇高の形態を提示した。Heritierは、法と美学の視点から、人間の本質に関する三つの概念(1.homo homini lupus, 2.homo homini deus, 3.homo homini homo)から、プラトンのコーラや京都学派の議論を手がかりに、人間中心主義における自由と責任の新たな基盤、そして多元的社会の基盤について論じた。

 セッション「人間と動物」では、動物やゾンビをはじめとするノン・ヒューマン的な生命と人間の関係性について、イメージ学、ポスト・アポカリプス的表象、共感といった視座から、多様な考察が展開された。二宮は、動物における美的な視覚的表現に焦点を当て、イメージの創造を、種を超えた現象として再考した。そしてダーウィンやポルトマンの議論をもとに、動物もまた創造表現を行う可能性を示唆した。福田は、日本のサブカルチャーにおけるアポカリプスとゾンビの表象を分析するため、特にセカイ系やポスト・セカイ系として分類される作品を取り上げた。社会の再建や原因追求ではなく、崩壊した世界における個人の生き方が強調される点に日本特有のアプローチが見出される。斉藤は行動予測の動的プロセスである共感を主題とし、自己参照的共感と認知的共感が行動予測にどのように寄与するかを調査した。具体的には強化学習モデルを用い、実験参加者が人間のパートナーとノン・ヒューマンのエージェントの意思決定を予測する課題に取り組んだ。その結果、感情的共感と認知的共感という二つの学習プロセスがあることが示され、人間の意思決定の理解において重要な役割を果たしていることが明らかとなった。

 セッション「ロボットと感情」では、人工エージェントと人間の間に生じる感情の認知について、心理学・哲学的な視点から分析が展開された。和泉は、概念空間と(反)敬称の意味論を参照し、脱人間化のレトリックが単に人間性の否定にあるわけではなく、社会的階級における序列を引き下げる格下げ行為にあることを示した。その上で、ノン・ヒューマン的な人工エージェントにおいても言語的に脱人間化されうることを明らかにした。池田は心理学的視点より、人間には幼少期より人間を優先して認識する本能的傾向が見られることを示し、人間が本質的にAIやロボットを自然に受け入れることの困難さを述べた。その克服としてロボットやAIと共存するためには、習慣化された行動様式であるハビトゥスの重要性を論じた。中村・鄭はテキストマイニング手法を用い、フロイトの全著作を分析し、その思想の発展的変遷を明らかにした。k-meansクラスタリングによる分析では第一期(1886-1901)、第二期(1905-1919)、第三期(1919-1939)の時期区分が割り出され、情動、リビドー、衝動という主要な概念の進化が確認された。また構造的トピックモデル(STM)ではフロイトの理論における二つの転換点(1900年、1907年)が示された。その結果、フロイトの持続的なテーマである不安(angst)における主体が、女性から子供へ、さらに人間全般へと拡張していったことが明らかとなった。

 セッション「人間・機械・ハビトゥス」では、人間の行動様式であるハビトゥスがAIや機械技術の発展によってどのように変化し、形成されていくのかが議論された。山本は、技術革新が進み、生活のあらゆる場面で活用されているデータ生成を担う生成AIを取り上げ、生成AIと人間の創造性を取り上げた。そして初音ミクや人格設定を行ったChatGPTと人間の関係性などを例に、生成AIとの共存が精神的健康に与える影響を検討し、新たなハビトゥスの形成について論じた。大平は、神経科学者ジャン=ピエール・シャンジューの論文「ハビトゥスの神経基盤」で主張される、脳内に実装され、身体化されるハビトゥスがどのように形成され、維持され、共有されるのか、その神経メカニズムを明らかにするため、神経科学的視点より考察を行った。その結果、金銭的報酬に関する学習・意思決定と、社会規範や行動の学習・意思決定が、大脳基底核の線条体など、共通する脳領域に依存していることが明らかとなった。さらにはベイズ脳理論の観点から、新たな情報に適応し、世界モデルを構築するメカニズムについても検討した。Verdicchioは、コンピューターが人間をはるかに超える知性を獲得し、人新世を終焉させるマシノシーン(Machinocene)という概念を通じ、断絶する人間と機械の関係ではなく、人間が機械的思考へと適応していく未来像を提示し、人新世の延長としての機械時代を提示した。具体的には歌手Charli XCXや俳優Karla Sofía Gascónらとメディアとの関係やインスタグラムの投稿などを例として取り上げた。本セッションでは、AI時代における人間の適応と進化によって生まれる新たなハビトゥスの可能性について、人間の思考や行動が機械と共にどのように変容するのかを問う議論が展開された。

 セッション「芸術とエコロジー」では、芸術を通じた生命性や環境への新たな視点が探求された。飯沼はリジア・クラークの作品《Bichos》を取り上げ、記号論的アニミズムの観点から分析し、無機物である芸術作品がどのように生命力を宿し得るかについて考察した。鑑賞者が作品を動かすことで生まれる生き物のような特性に着目し、アニミズムの概念を芸術に適用することで、作品の自律性獲得の可能性を提示した。池野は、地球全体を覆い、人間を取り巻く大気や空気をテーマに、人新世時代の現代アートを考察した。まず三上晴子の作品では人間の生活圏を構成する空気とその限界について考察し、そしてブルーノ・ラトゥールの「クリティカル・ゾーンズ」展から、人間とノン・ヒューマンを含むすべてのアクターの行為によって大気が構成されるというラトゥールの思想を分析した。大気は不可視の周囲環境であるだけではなく、テクノロジーや社会、人間との関係性の中で構築されていることを、人新世において再認識する必要があることが確認された。

 総括すれば、本シンポジウムでは、人新世における人間と人間を取り巻く自然環境、および生成AIをはじめとする技術社会という大きな枠組みの中で論が展開された。第一に、人間がノン・ヒューマン的存在とどのように関わっているのか、あるいは関わり方に変化が生じてきているのか、その関係性の変化や相互作用の模索について捉え直すことが試みられた。その対象として人間、動物、自然、機械の本質についての再考が行われた。第二に、人間は生得的に認知することが難しいロボットや生成AIとの新たな関係性が構築される中で、人間らしさや人間との類似性を見出すなど、新たなハビトゥスの探求を行うことが論じられ、それらとの共存可能性といったテーマが深く議論された。これらの発表成果は、人文学、自然科学、社会科学からの学際的視野によって、人間中心主義の限界を再考し、持続可能な社会の構築に向けた新たな知見を深めるものであった。

 さらに国際シンポジウム後には、ミラノのブレラ絵画館およびトリノのロンブローゾ犯罪人類学博物館などを訪問する機会が設けられた。ブレラ絵画館の収蔵作品は、これまで人類が周囲環境とどのように関わってきたかを象徴するものであり、また、ロンブローゾ博物館に展示される心理学的実験器具は、現代のAI技術の先駆とも捉えうるものである。ベルガモにおける国際シンポジウムでは、人新世における現在と未来について主に論じられたが、ミラノやトリノでの実地見学では過去の蓄積により、人新世における人間と環境の関係を改めて考察する契機となった。

 本シンポジウムでの議論を踏まえ、現在進行形の人新世において、今後も一層の活発な研究と議論の継続が求められるであろう。

【シンポジウム 参加者リスト(発表順)】
– Atsushi OKADA, Professor, Kyoto Seika University
– Roberto TERROSI, Researcher, University of Rome Tor Vergata
– Federico LUISETTI, Associate professor, University of St. Gallen
– Giuseppe PATELLA, Professor, University of Rome Tor Vergata

– Paolo HERITIER, Professor, University of Eastern Piedmont

– Nozomu NINOMIYA, JSPS Postdoctoral Fellow / The University of Tokyo
– Asako FUKUDA, Assistant Professor, Professional Institute of International Fashion

– Natsuki SAITO, Researcher, Nagoya University

– Yu IZUMI, Associate professor, Nanzan University / RIKEN AIP
– Shinnosuke IKEDA, Associate professor, Kanazawa University
– Yasuko NAKAMURA, Professor, Nagoya University
– Wanwan ZHENG, Assistant Professor, Nagoya University

– Tetsuya YAMAMOTO, Associate professor, Tokushima University


– Hideki OHIRA, Professor, Nagoya University

– Mario VERDICCHIO, Associate professor, University of Bergamo

– Yoko IINUMA, PhD student, Kyoto University

– Ayako IKENO, Associate professor, Aoyama Gakuin University



(文責:飯沼洋子〔京都大学大学院人間・環境学研究科〕)

2025.3.29 第6回研究集会 セッション3: ジェンダー&セクシュアリティーー通念・多様性・越境

名古屋大学・東山キャンパスで行われたAAAプロジェクト第6回研究集会2日目(2025/3/29)セッション3では、第4班から3名が発表を行った。

🌟鳥山定嗣先生

 鳥山先生はまず、第4班の今後の予定について全体に共有した。具体的には、叢書第4巻の出版スケジュールと構成の計画を、ついで2026年の7月か9月に国際シンポジウムを開催予定であることを報告した。また自身のこれまでの成果としてフランス詩の脚韻におけるジェンダーについての研究を挙げ、今後はバルトの「中性」概念を出発点に言語学や哲学の知見を取り入れ、より広く言語とセクシュアリティの関係を考察したいと述べた。

🌟マリ=ノエル・ボーヴィウ先生

 ボーヴィウ先生は「明治期日本における西洋のアフォリズムと女性嫌悪」と題してこれまでの成果と今後の展望について報告した。

 まず、研究の大きな枠組みとして、言語と言説におけるジェンダー認識の形成について、歴史・文化背景からのアプローチ、文学研究のアプローチ、社会学的文学研究のアプローチの3点から考察する、というように研究対象と研究手法を共有した。次に、これまでの活動報告として、2023年に開催したシンポジウムの論文集『越境するアフォリズム』(アプレミディ)の出版を挙げた。それから自身の具体的な成果報告を行った。まず、近代日本におけるアフォリズム系の形式についての先行研究を紹介し、西洋のアフォリズムから日本のことわざの形式が考察されていたことや、西洋のアフォリズムが西洋近代思想の輸入とレトリック強化のために紹介されていたことを確認した。次に、西洋のアフォリズムと女性というテーマの関係について、女性嫌悪的な例は古くから存在しているが19世紀フランスにおいては性をめぐる言説が変化したことによって女性を男性とまったく異なる存在として扱うようなアフォリズム集が出版されるなどの変化があったことを指摘した。そして、日本では中江兆民と森鴎外がこのような女性嫌悪的アフォリズム集を翻訳出版している。しかしながら、明治時代の女性をめぐる言説は差別一辺倒なわけではなく、たとえば福沢諭吉は西洋の考えを利用して女性の権利を主張していた。女性嫌悪的なアフォリズムを男性向けに訳している中江も、実は一方で女性の権利を唱えてもいる。以上のような調査結果をもとに、女性嫌悪のテーマの特徴や当時の日本における女性嫌悪的言説との関連、翻訳における社会・政治的背景が及ぼす影響について分析を進めていきたいと今後の展望を述べた。

🌟立木康介先生

 立木先生は「最後にもう一度問いたい「同性婚」の意義」と題して、同性婚をめぐる今日的議論のなかで忘れられつつある「反結婚」の思想にいまいちどスポットを当てた。

 立木先生は世界で同性婚が法制化されてきた事実を好意的に受け止めながらも、結婚制度すなわちモノガミーに基づいて家族を形成するという営みそのものを問い直す言説が近年聞かれなくなったことへの違和感から、フランス同性愛運動に最初期からかかわってきた二人の著者Marie-Josèphe BonnetとAlain Nazeにおける反同性婚の議論を紹介した。1970年代にはじまるフランスの同性愛運動は、基本的に「反結婚」(=反家父長制)であり、その点で、やはり70年代に生まれた女性解放運動(フェミニズム)と連帯していた。しかし80年代になると、ミッテラン政権の誕生、同性愛の脱刑罰化、エイズとの闘いを通じて、そこに変化が刻まれ、同性婚の法制化をめざす動きが生まれるに至った。エイズの犠牲になったのは主にゲイ(男性同性愛者)だったこともあり、この動きはレズビアンを置き去りにする形で進んだ。1999年にPACS(市民連帯協定)が制定される過程では、パートナーシップを兄弟姉妹間にも開くCUC(市民結合契約)が検討されたが、あくまで同性婚を見据えた同性愛者たちの反対で見送られ、結婚に準じる制度としてのPACSに落ち着いた。世紀が変わってからは、極右の反イスラム・イデオロギーに同調し、同性愛を禁じるイスラム文化にたいして西洋文明の優位性を訴える観点から、同性婚を支持し、要求する「ホモナショナリスト」たちも現れた。こうした流れを経て、フランスでは2013年に同性婚の法制化がなされるが、その過程でレズビアンは周縁化され、反結婚・反家族の主張もかき消されていった。同性婚の法制化によって、同性カップルが子供をもつ道が拓かれたことで、今後はこれらのカップルが生殖医療の利用者になりうる。結婚制度と並んで、しかしそれとは別の問題として、生殖医療のあり方についても、なお議論を深める余地があるとの見解が、最後に示された。

🌟坂口菊恵先生

 坂口先生は、人文社会学的なアプローチと、相対すると考えられがちな自然科学を背景とした世界認識の融和について、セックス/ジェンダーの多様性を題材に科学史を交えて論じた。

 「ジェンダー」は社会構築主義的な立場から、生物学的な世界観を否定する文脈で用いられがちである。しかしながら、「ジェンダー」という語を言語学の用語を超えて性のありさまを表現するために使い始めたのは性科学者John Moneyであった。Moneyは染色体がXかYかでは2分できない性発達の多様性を表現するために「ジェンダー」という語を導入した。すなわち、ジェンダーとは発達神経内分泌学の概念であった。Moneyはジェンダー・ロール(性役割)発達におよぼす環境の影響を強く見積もり過ぎていたため、「Moneyの双子」としてしられる重大な人権侵害事件のみならず、性分化の特異性(Differences in Sex Development)を持つ子どもたちの治療指針を策定し、残した負の影響も大きかった。

 一方で、以降の行動生物学的な研究がジェンダー・アイデンティティの成因をうまくとらえられなかったのは、客観的な記述のできない内観の存在を説明要因から排除した、近現代科学的世界観に共通する問題である。現在、身体内外からの情報インプットと、それに対する内的イメージとのすり合わせを中心に認知発達の多様性を記述する、自由エネルギー理論(ベイズ脳モデル)を用いてジェンダー・ロール(外向きの表現)とジェンダー・アイデンティティ(内的経験)の異同を論じる途がひらけている。

 ベイズ脳モデルに依拠すると、ASDやサヴァン症候群に見られる「予測をうまく使えない脳」構造と、社会の期待するジェンダー・ロールに自己意識(ジェンダー・アイデンティティ)をうまく同一化できない脳構造が類似しているとして、成人期の性別違和を感覚処理の観点から説明する道筋を示した。次に、そのような感覚処理の特異性と職業選択との関係を明らかにするために実施した調査について報告し、研究者と非研究者のあいだで感覚過敏・鈍麻の差があまり出なかったという分析結果と、感受性という指標が従来型の神経発達症とギフテッド型のそれの違いを予測するものとなる可能性があるという展望を示した。

 3人の発表後に質疑応答が行われた。アイデンティティという概念が集団の連帯に及ぼす影響についての質疑応答では、マイノリティの中のマイノリティの声が聞こえなくなってきているという問題が提起された。また、定型発達とはそもそも何であるのかという問いかけも行われた。1日目の講演者である大澤先生からはマイノリティをフィクションで描く際の倫理について立木先生に質問がなされ、当事者でなくとも当事者のことを深く語れるフィクションの力を重視するべきであり、現実・虚構・真実の3項で考えていくべきだという回答がなされた。

(文責:京都大学大学院文学研究科博士後期課程2年 西村真悟)

2024.11.30 第1回創発知研究会(Auroral: Emerging Assembly)発表要旨

2024年11月30日(土)に第一回創発知研究会を京都大学(@文学研究科部構内 文系学部校舎1F 多目的交流スペース「ぶんこも」)で開催しました。若手研究者のネットワーク形成と異分野間研究の可能性を模索する第一回では、南谷奉良(京大) 、金信行(北陸大) 、鄭弯弯(名大) 、鳥山定嗣(京大)が世話人を務め、15名の研究者の専門分野とその分野を学ぶための参考文献を紹介し、質疑応答を行いました今回の研究会では英米文学、現代アート、表象文化、インド哲学、哲学思想史、感情心理学、数学、機械学習、人工生命といった多様なアプローチが紹介されました。異分野融合の難しさは方法論や使用する概念の相違、問題意識の共有などがありますが、今回の研究会では無理に領域を重ねるのではなく、多様な異分野の研究を知ることからはじめました。以下に、各研究者からの発表内容要旨を紹介いたします。

第一研究発表

  1. 平井尚生(京都大学/英米文学、作家ヴァージニア・ウルフ、ジェンダー・フェミニズム)

 20世紀英国の作家ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』(1928)を取り上げ、女性の生とフィクション=小説=虚構の関係についてのウルフの思想を論じた。特に、冒頭のオックスブリッジ大学の挿話において、ウルフが引用するチャールズ・ラム「休暇中のオックスフォード」(1820)との比較分析を行った。ラムは階級的・経済的理由から、大学教育を受けられなかったが、変装を通じて大学街に溶け込む一方で、同じく大学教育を受けていないウルフは女性であることから決して大学から受け入れられない。この比較分析を通じて、大学という知的生産の場における男性の特権性と女性の疎外が、フィクション=小説の手法によって、有効に描き出されていることを確認した。また、ラムは「エリア」という筆名を通して自らの個を強く表現している一方で、ウルフは、「メアリー・ビートン」という虚構的一人称にとって、歴史から疎外されてきた女性の普遍的な生を表現していることを明らかにした。

2. 飯沼洋子(京都大学/現代アート、ブラジル人アーティストのリジア・クラークについて研究) 

 第一回創発知研究会では、1960年代から70年代にかけた参加型アートにおける芸術経験の共有可能性について、個人研究の紹介を行いました。参加型アートの黎明期に活躍したブラジル人アーティスト、リジア・クラークの芸術実践では、それまでオブジェとしての芸術作品とそれを見つめる鑑賞者といった対立構図を回避し、鑑賞者の作品参加によって得られる芸術経験こそが作品であるとしました。そこでは参加者個人間、つまり私とあなた、私と周囲環境、主体と客体における関係性の再構築が目指されています。発表ではとくに、芸術実践〈食人よだれ〉を提示し、ブラジル近代芸術思想である「食人思想」と精神分析の理論「移行対象」との関連から、どのような主客の関係性が生じるのかについて簡潔に示しました。

3. 肖軼群(京都大学/現代イギリス小説、カズオ・イシグロ、マキューアンなど)

 肖は、「『変身』の文学とカズオ・イシグロ」というタイトルで発表を行った。ここでいう「変身」とは、英語の”metamorphosis”に由来し、元のアイデンティティと決別し、完全に他者へと変容することを指す。カズオ・イシグロの作品はよく「記憶」や「自己欺瞞」などのテーマから論じられるが、それらのテーマの指向する先は、イシグロ自身の伝記的事実と関連している「変身願望」であると主張する。初期作品では日本人からイギリス人への変容、そして近年の作品ではクローン/ロボットから人間になろうとする姿が取り上げられている。設定上の違いはあれど、変身は一貫した大テーマとして繰り返し描かれている。イシグロは、変身を志向する主人公たちの世界を人物描写に限らず、作品内の環境描写などを含めて、多角的に提示しているとのことを発表で紹介した。

4. 福田安佐子(国際ファッション専門職大学/ゾンビ、ポストヒューマニズム、表象文化論)

 発表では、まずゾンビ映画の歴史を概括した。各時代において描かれたモンスターはいずれも植民地主義や冷戦といった時代において登場した「異質な他者」である。さらに、現代において描かれるゾンビが、「理想の人間」のネガとして並置されることに着目し、その背景にはポストヒューマニズムのある種の「ねじれ」があることを分析した。

第二研究発表

  1. 楠元淳平(京都大学/アメリカ南部の作家ウィリアム・フォークナーの研究)

 本研究では、ウィリアム・フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』(1936)に、従来のフェミニズム理論が依拠しがちであった二分法的思考を乗り越える要素が含まれていることを示す。ジュディス・バトラーが述べるように、女性性の男性性に対する優位を主張するフェミニズムの言説はしばしばそれ自体男性中心主義的な身振りを反復しているが、フォークナーはそうした反復に陥らずに男性中心主義を批判しようと試みている。

2. 葉柳朝佳音(大阪大学/哲学思想史)

 20世紀の生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、生物学は生物を物理・科学的メカニズムに解体することなく、生のプロセス全体を扱うためには必要があると考え。そのために彼は生物身体の機能と構造から、生物が生きる環境との関係性の世界、すなわち環世界を記述しようと試みた。本研究では、ユクスキュルの環世界論について、おもに環世界における生物と主体の定義に注目して分析している。

3. 粥川恭輔(金沢大学/感情心理学、生理心理学)

 人は他者の感情を推定する際に,他者の運動や感覚を自身の脳内でシミュレーションするとされている。その際観察者の顔では他者の表情が模倣される。一方で近年の研究では逆に,表情を変化させると他者の感情の推定に影響を与えることが示唆されている。しかしながら,表情の変化を支える運動野との関係性については明らかになっていない。そこで,本研究では一次運動野の興奮性と感情判断の関係性を調査する。

4. ジャスミン・デッラガーディア(千葉大学/宇宙心理学、宇宙倫理)

未提出

5. 田中基規(名古屋大学/インド哲学、ヒンドゥー教)

 第1回創発知研究会では、自身の研究に関する発表を行った。発表の最初に、私がインド哲学、特にサーンキヤ思想を研究していることを伝えた。そして、サーンキヤ思想の特徴と、そのサーンキヤ思想で原理の一つとして考えられている自我意識に着目して、博士後期課程での研究を行っていることを述べた。最後に、他の参加者がインド哲学に馴染みが薄い可能性も考えて、3冊の研究に関連する新書を紹介した。

第三研究発表

  1. 大平健太(名古屋大学/数学、遅れ微分方程式についての研究)

 微分方程式の説明として、ニュートンの運動方程式を具体例として挙げた。そこで基本的な数学・物理用語の説明も行った。遅れ微分方程式のイメージの説明を行った。初期区間条件を元に物理系が決まっていくことを列車に例えた。遅れ微分方程式の実例としてヘイズの方程式を挙げた。遅れを変化させることで物理系の性質が変化することをグラフで表現した。自身の研究している微分方程式 dX(t)/dt + atX(t) = bX(t-τ) とその解がガウシアンの重ね合わせで書けることを紹介した。物理系の概形もグラフにて紹介。

2. 浜野登(名古屋大学/エージェントベースモデル、文化的ニッチ構築、ゲーム理論、社会的粒子群、人工生命)

 社会的粒子群モデルにおける文化的ニッチ構築について発表を行った。題材としたモデルの概要紹介や問いについて説明し、SNSや仮想空間といった交流の場における個体の環境改変が、社会集団の形成にどのような影響を与えるかを比較実験を通じて示した。代表的な実験設定に基づく複数の結果から得られた傾向を分析し、SNSプラットフォーム等の設計や運営において重要と考えられる環境構築についての示唆について論じた。

3. 高見滉平(大阪大学/機械学習、複数LMMエージェントによる社会規範や価値観の創成)

 高見は,人にとって「良い雑談」を提供できる対話システムの構築を目指し,対話相手のセンチメント(感情の極性)を考慮して発話を選択する発話選択モデルを提案した.本モデルを用いた対話システムに関する被験者実験を実施し,アンケート結果からセンチメントを誘導する発話選択が対話の印象を向上させる可能性が示唆された.また,「良い対話とは何か」という問いを起点に,人間のハビトゥスとAI Alignment(AIの目標や行動の整合)の関連性を考察し,LLM(大規模言語モデル)エージェントにおいて,行動に結びついた価値観の創出が観察される可能性や,それがAI Alignmentに寄与する可能性についても言及した.

4. 浅野誉子(名古屋大学/大規模言語モデル、エージェントモデル、文化進化、ミーム、人工生命)

 LLMに基づく会話エージェント間の相互作用による集団形成と文化進化の理解を目的に構成論的モデルを構築.エージェントは不変の遺伝形質(ポジティブ・ネガティブな単語)と他者から得る文化形質に関する文をLLMで生成し近傍相手と接近離反を繰返す.実験からポジティブ個体はネガティブ個体と比較して集団化する傾向が観察できた.文化形質伝達は,共有文化形質の出現,意味ベクトル分布の多方向への広がりなど多様化を促進した.

5. 福田聡也(大阪大学/LLMエージェントを用いた悪口がもたらす社会的ランクの低下に関しての研究)

 LLMエージェントの主体化についての議論した。現状のLLMエージェントの自律性と主体性の関係について考え、道徳的行為者性と関係があるのではないかと考えた。そこで、LLMエージェントの道徳性を検証するために悪口が与える影響をシミュレーションする手法について検討した。また、人文学の観点では悪口と社会ランクの関連性が大きいと提言されているため、LLMエージェントの世界に社会ランクを導入する手法についても検討した。シミュレーションする際の現状の課題を共有し、それに関して有意義な議論を行うことができた。

2024.11.22 第9回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

🌟南谷先生によるご報告

  当日は南谷先生によるテクスト・マイニング分析から入りました。テキスト・マイニングによってどのような語彙が頻出するのか、全体の構成はどうなっているのかがわかります。ベルンハルトの作品では特定の言葉が音楽的なモチーフのように作品全編にわたって反復的に使用しているのですが、テキスト・マイニングの技術をうまく使えばこうした構造を明らかにできるのではないかと興奮しながら聞きました。

🌟飯島による報告

 その後の私の発表はまずベルンハルトについて概観するところから入りました。その際、心掛けたのは作品の真実性(Atuhenticitiy/Authentizität)へのこだわりを維持した作家としてのベルンハルト像を提示することです。戦後のオーストリアで活動したこと、谷川俊太郎や大江健三郎等と同世代であることに触れた上で、どういった作品を書いていたかの例として1970年に発表された長編『石灰工場』について簡単に触れました。オーストリアの田舎の石灰工場で起こった殺人事件を舞台とする本作ですが、そこでは語り手の「私」が犯人のコンラートや、コンラート周辺の人物の言葉を間接話法によって引用することによって話が展開していきます。

 その際、重要なのがこの「私」がほとんどコメントを挟むことなく引用を展開していくことです。ミステリ風の作りの作品ですが、探偵のように推理したりもしません。そこでは事件を要約することなく起こったままに読者に体験させることが目指されていると言えます。ここに「真実性」へのこだわりの一つの例が見出せるのではないかと思います。

  こうした「真実性」へのこだわりは今回の課題図書である『推敲』にも読み取ることができます。発表では『推敲』が、まさに「真実性」を要とするジャンルである自伝と同時期に執筆されたことに触れ、その上で自伝が本当に真実を伝えるジャンルなのか、否か、というテーマをめぐって展開するメタフィクションとして『推敲』を解釈することを試みました。というのも本作の主人公、ロイトハマーは自伝を作中において執筆しており、作品の後半はこの自伝の復元から構成されているからです。また前半部分ではロイトハマーから自伝を遺稿として託された「私」が遺稿の編集に取り組みます。いわば本作は自伝の執筆者と編集者の物語なのです。

 発表ではまずロイトハマーの人物像に触れました。ロイトハマーが円錐を建てた挙句に最愛の姉の死をもたらしたことに触れ、この人物が独創的であると同時に手前勝手でもあるという、両義的な人物であることを述べました。

 次いでロイトハマーの遺稿の中で何が書かれているのかを論じました。そして自伝の中でロイトハマーの展開している家族に対する恨みつらみはほとんど被害妄想に近いこと、そしてロイトハマーの家族に対する誤解が解消される過程として自伝の執筆過程を捉えることができること、ロイトハマーの自殺はわだかまりが解消されることのメタファーとして解釈できることを述べました。それはまた個人的な覚書である自伝が、表現として自立したものとなる過程を暗示してもいます。

 最後に編集者として語り手の「私」がどのような人物であるかを論じました。そして「私」には編集者としてのやる気が見られないこと、「私」の編集したテクストには誤りが散見されることに触れ、作品の後半を構成するロイトハマーの自伝は遺稿通りではない可能性を指摘しました。『推敲』という作品ではロイトハマーの自伝の執筆が問題となっていますが、そこではロイトハマーの誤解、さらには「私」の編集ミスという形で、実際にあった過去とロイトハマーの遺稿の内容が乖離していることが二重に暗示されています。こうしたズレを示すことによってベルンハルトが自伝という形式に対する批評を行なっていることを述べるとともに、そこにベルンハルトの「真実性」へのこだわりを読み取るという形で発表を締め括りました。

 なお以上のような議論は前田佳一編『モルブス・アウストリアクス』(法政大学出版局 2023年)所収の拙論でより詳細に展開しています。ご関心のある方はぜひご覧ください。

🌟質疑

 その後質疑に移りました。この場ではその場での応答に関して簡単に捕捉するとともに、当日触れられなかった質問にお答えしたいと思います。

・「ベルンハルトは深刻な作家だと思っていたが、そうした捉え方は一般的ではないのか」

 おそらく質疑の場で一番盛り上がったのはこのご質問かな、と思います。こうした深刻な作家としてのベルンハルト像はこれまで散々喧伝されてきたものであり、他の方の質問を見ても同様の見方が共有されているように感じました。

 発表の際の質疑応答でもお答えした通り、私としてはベルンハルトをそれほど深刻な作家だとは思っていません。たしかにベルンハルト作品の登場人物は何やら暗いことを言ったりやったりするのですが、それはあくまでも深刻な人を書いているのであって、ベルンハルト自体が深刻な作家だ、というのは違うだろう、と思っています。

 本発表で取り上げた『推敲』にしてもロイトハマーは破滅的な文章を書き、最終的には自殺を遂げますが、その傍らには「私」という人物がいて、ロイトハマーの言葉の間違いや現実とのズレを暴き出すという構造があります。ロイトハマーという人物は悲劇的であったとしても、ロイトハマーの自殺を単なる悲劇には終わらせない構図が作品には備わっているのです。ベルンハルトの好んだ言葉に「悲劇は喜劇、喜劇は悲劇」という言葉がありますが、本作の構成もまさにこうした悲喜劇的なものと言えるでしょう。こうした悲喜劇性はデビュー作の『凍』以来、ベルンハルトの作品には一貫するものであり、そこにこの作家の苦い味わいもあると私は考えています。(なお悲喜劇というテーマは後年の『古典絵画の巨匠たち』で全面的に展開されています。手に入れにくい本ですが、邦訳もあるので興味のある方はぜひお読みください。)

・「オラシオ・カステジャーノス・モヤとの関係について知りたい」

 モヤに関しては質問者の方の方がご存知だと思うので補足することはないのですが、以下のページにベルンハルトに影響を受けた作家の一覧が載っています。ドイツ語ではありますが、ご関心ありましたらご覧ください。

https://globalbernhard.univie.ac.at

・「「精神的」という言葉の原語が気になる。」

 精神的という言葉の原語はおそらくほぼ間違いなくGeistです。ベルンハルトを日本に紹介したパイオニアである池田信雄は通常知識人と訳されるGeistesmenschenという言葉を精神的人間と訳しました。私もそれに倣ってGeistは精神と訳すようにしています。精神という訳語の方が大袈裟でベルンハルトのユーモラスな一面がより伝わるかな、と思っています。

 なお質疑応答中に「ベルンハルトの作家として活動期間はわずか10数年だ」という発言を何度かしてしまったのですが、これは間違いでした。『凍』の出版から数えると約25年のキャリアがあります。誤った情報を伝えてしまい、大変申し訳ないです。お詫びして訂正します。

🌟おわりに

 ご参加いただいた方をはじめ、南谷先生、小林先生、平繁先生にお礼申し上げます。『推敲』はかなり読みにくい作品でもあるので、どうなるかな、と思っていましたが、多くの方にご参加いただき、さらには質問までしていただき嬉しいかぎりでした。こうして話す場をいただいことで、普段ベルンハルトについて考えていることをまとめ直すいい機会になったと感じています。ありがとうございました。

(文責:飯島雄太郎)

2024.12.7 理論班第5回会議 

2024年12月7日、名古屋大学文学部本館402室にて第5回理論班会議を開催した。

 「フロイトのテキスト分析」(中村報告)は、活動報告、今後の予定と研究進捗報告の3部構成で行われた。研究進捗報告は、コーパスに含まれる文書数の増加とそれに伴うデータ処理の進展、データの拡張による構造的トピックモデルを用いた新たな発見、トピック分析を通じた語彙解釈の試みを共有した。

 質疑応答では、前期と後期での変化があった他の思想家との比較についてコメントがあった。比較対象の選定や分析方法の妥当性について議論があり、今後の研究に向けたアプローチ法が検討された。

 「脱人間中心的な世界において「政治」はどのように可能か」(田村報告)では、「脱人間中心的な政治」の可能性について、アクターネットワーク理論(ANT)を基盤とした議論が展開された。この報告は、「政治」を人間中心的な枠組みに限定せず、モノやノンヒューマン(非人間的存在)との関係性を組み入れた新たな枠組みの可能性を模索した。

 質疑応答では、モノやノンヒューマンが政治においてエージェントとして機能し得るか、これらの要素を含む「政治」における正当性や責任の分担のあり方、モノやノンヒューマンが「政治」に本質的に貢献する可能性など議論された。

 鈴木は、まず、社会的粒子群モデルにおけるニッチ構築の概念を説明した。相互作用による環境改変とその蓄積が社会集団の挙動に与える影響を観察するために、文化的ニッチと流動的ニッチという二つの主要な要素が紹介された。続いて、囚人のジレンマと鹿狩りゲームを統合的に分析し、性格特性記述から行動傾向を抽出する試みが紹介された。

 質疑応答では、ニッチ構築の概念、主体そのものの構築、エージェントの行動が最適化されるかどうか、ニッチ構築が長期的な協力形成に与える影響と、それが他の環境要因との相互作用など議論された。

 大平健太は、今年度の論文発表と学会活動について報告し、最新の研究進捗として遅れ微分方程式における解の求めについて報告した。この研究では、遅れ微分方程式の解法における新たな手法や解析結果が提示され、今後の展望が示された。

 続いて、大平徹が、動物の表皮における模様形成のダイナミクスについて説明した。特に、成長、季節性、体温といった要因が模様の表出と消減に与える影響について詳細に解説し、シミュレーションを用いて模様形成のダイナミクスを可視化した。

 質疑応答では、大平健太の研究における遅れ微分方程式におけるパラメータの設定やその設定基準、大平徹の提示した生物学的模様形成の、他分野への応用可能性などについて活発な議論が行われた。

 「アクターネットワーク理論とブロックチェーン」(金報告)では、ANTとブロックチェーン(BC)の円滑な社会実装に焦点が当てられた。報告では、Koray ÇalışkanによるDARN(アクター、ネットワーク、装置、表象)のアプローチを用いた分析手法が紹介された。具体例(銃犯罪)を提示し、複雑な社会現象を分散的な作用の集まりとして理解する可能性が示された。

 質疑応答では、BCの活用例とその社会的意義、人間が介在しないBC、BCの実装においてアクターが果たす役割やその影響力について議論が交わされた。

 「感情分析―人間による感情判断のバイアス―」(鄭報告)は、感情分析における「データの主観性」を主な課題として提起した。この問題に対処するため、より信頼性が高いデータを抽出し、それを基に感情分析モデルの構築に取り組んだ。報告では、感情ラベル付けにおける主観性を克服する方法と、感情分析モデルのさらなる改善の可能性が示された。

 「アニミズム、ガイア、マルチスピーシーズ」(平田報告)では、アニミズムの概念とその現代的意義について説明された。アニミズムの思想的基盤としてブルーノ・ラトゥールの非近代観が挙げられ、自然と社会のハイブリッド性が強調された。また、都市を「人間だけのものではない場」として再定義し、他の種との共生が都市設計においても考慮されるべきであるという視点が提示された。

 質疑応答では、一般的な近代観とそれに基づく自然と社会の分離に関する問題、人間と非人間的行為者の関係性やその相互作用、自然と社会のハイブリッド性など活発な議論が交わされた。

 「神経ハビトゥス―ハビトゥスを生成し、維持し、変容する脳と身体のメカニズム―」(大平英樹報告)では、ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」の概念が神経科学的視点から再検討された。報告では、脳を「予測する機械」として捉える立場から、内的モデルによる予測と実際の入力との差異(予測誤差)が行動と知覚を制御する仕組みを詳細に解説した。また、感情と身体の連携や処理流暢性などを用いて、感情の創発と意思決定において予測誤差が果たす役割が議論された。

(敬称略)

(文責: 名古屋大学人文学研究科附属人文知共創センター 鄭弯弯)

名古屋大学×金沢21世紀美術館共催シンポジウム

🌟前半の部 

2014年11月4日、名古屋大学にて、金沢21世紀美術館との共催で国際シンポジウム「すべてのものとダンスを踊って−共感のエコロジー−」が開催されました(於:東山キャンパス坂田・平田ホール)。本シンポジウムは、11月2日より同美術館で始まった同タイトルの展覧会にあわせて開催されたもので、パリ社会科学高等研究院(EHESS)のエマヌエーレ・コッチャ氏に基調講演をしていただき、ディスカッションには同館の館長である長谷川祐子氏、キュレーターの本橋仁氏、および本プロジェクトのメンバー5人が登壇しました。

 冒頭では、佐久間淳一名古屋大学副総長が挨拶をしました。「共感のエコロジー」というテーマのもと、芸術、人文学、に限らず多様な分野から研究者が集う本シンポジウムが、本プロジェクトの意義の社会発信の場となるとともに、アートと学術の連携の場として実り多いものとなることを期待する旨を述べました。

 続いて中村靖子代表が本シンポジウムの趣旨説明を行いました。「詩的に人間は住まう」というヘルダーリンの言葉を引用し、言語や音、リズムを介して他者との柔軟な関係性を築いていく人間の営みを、身体の感覚と運動を通して他者と共振する、人とモノのダンスとして理解する必要があることを述べ、本プロジェクトの目的と金沢21世紀美術館のこの展覧会に共通の問題設定を提示しました。

 その後、コッチャ氏から「Metropolitan Nature: How Nature builds Cities」という題で基調講演をしていただきました。ゲーム「ポケットモンスター」を例に、ポケモン図鑑、モンスターボールなどのハイテク機器を介して、遊びの中で自然との関わり方を学ぶ子どもたちの姿から、人と自然との精神的な関わりが常に芸術とテクノロジーに媒介されていることを示し、この観点から人と自然が関わる場としての美術館の役割についてお話いただきました。

 「共感のエコロジー」を副題に持つ展覧会では、美術館がまるで一つの都市のようになり、あらゆる生き物が、単にお互いを見せ合うのではなく、同じリズムを共有して「踊る」ような共生の場を提供するという構想が紹介されています。コッチャ氏は、「いまや話すためのテクノロジーではなく、見るためのテクノロジーが必要である」と述べ、我々が他者の目を通して見ることによって、自らの身体を超えて他者と共感する場としての自然を開くことができるとし、本シンポジウムの主題となる新たなエコロジーの思想を提示されました。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士前期課程2年  葉柳朝佳音)

🌟後半の部

コッチャ先生による基調講演の後、休憩を挟んで、登壇者の方々によりそれぞれのご専門の視点から今回のシンポジウムのテーマに関するお話がされました。

・長谷川祐子館長(金沢21世紀美術館館長・美術史)

 長谷川館長は、今回のご自身の立場であるキュレーターとしての役割についてまずご紹介になり、コッチャ先生との出会いから今回のシンポジウムの趣旨である「ダンス」がどのようなヒントから得られたのかを述べられました。また、美術館の色々な役割のひとつとして、差異ばかりに注目するのではなく、共通の点を探っていく場となることが重要であると述べられました。その後、展覧会のパンフレットにも記載されているダイアグラムをもとに、展覧会のコンセプトについて説明されました。そして、実際に展示されている作品の一部に触れながら、今回の展覧会において、他の存在とどのようにダンスが踊られているのかを紹介されました。

・本橋仁先生(金沢21世紀美術館キュレーター・建築史)

 本橋先生は、「エコロジカルパラダイム―建築の観点から」と題して、建築との関連からお話されました。本橋先生は最近のトレンドである木造建築を例にあげ、建築における「環境・自然・木造」という結びつけが短絡的であり、今一度本当にそれが共生であるのかといったことを考える必要があると述べられました。本橋先生は、昨今のトレンド以前から自然との共生を目指した木造建築を行ってきた存在として、設計集団Team ZOOを挙げ、彼らの建築作品を紹介しながら、そのルーツについて触れ、自然と比率の問題がモダニズム建築にはもともと含有されていたことを示唆されました。そして、これからの課題として、自然の本質的な概念が無機質なモダニズム建築に含有されていることを再検証する必要があると述べられました。

・池野絢子先生(青山学院大学・美術史)

 池野先生は、今回の展覧会の感想と交えて以下の3点についてお話されました。まず、「物質主義の問い直し」として、資本主義の恩恵を受けた「豊かな芸術」に対抗するイタリアの芸術運動「アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)」が有する資本主義の再考、人間中心主義に対する問い直しなどといった意義を今回の展覧会の作品群が、同じように持っているように感じたと所感を述べられました。次に、「大気と呼吸の芸術」として、コッチャ先生の『植物の生の哲学』からの影響にも触れつつ、ご自身の今の研究対象である呼吸、大気を用いた美術について説明されました。そして最後にディスカッションへ向けて、「共感と政治」として、マリア・フェルナンダ・カルドーゾによる《芸術の起源について I-II》を取り上げ、蜘蛛の踊りを見た際のご自身の感想も踏まえ、他者との共感の問題が他種間との政治とも関わることなのではないかと問題提起されました。

・岩崎陽一先生(名古屋大学・インド哲学)

 岩崎先生は「すべてのものとダンスを踊る―シャクンタラー」として、インドの劇作家であるカーリダーサの作品『シャクンタラー』から詩を紹介されました。カーリダーサの作品では、人間と共に植物、動物、太陽や月といった様々なものが寄り集まっているといった点が今回のテーマである「すべてのものとダンスを」ということに結びつくと述べられました。そして、翻訳だけでは理解しえないことから、原文のサンスクリットで詩を実際に詠み上げられました。最後に、植物は通常、インド思想において魂を持たない人間の仲間とはされないものであるが、植物もまた「息」をする「いきもの」であり、植物を含めた様々なものがダンスをする様子がインド思想に見いだせると述べられました。

・高橋英之先生(大阪大学・ヒューマンエージェントインタラクション)

 高橋先生は「人間と機械のダンスが生み出すふしぎな冒険」と題して、人間とロボットの関係についてお話されました。高橋先生は、人間とロボットの関係として、人間がロボットに何か「してもらう」だけでなく、人間には他者に何か「してあげたい欲」が存在することに着目し、その欲求を満たしてくれるようなロボットとそれを用いた研究結果とを紹介されました。高橋先生は、「してあげたい」と「してもらいたい」のバランスが重要だとして、コミュニケーションを媒介として制御することで、人間とロボット(機械)が対等な関係になる未来を作っていくことを提案されました。機械に依存するのではない仕組みをつくることで両者の対等な関係をつくることが、他者の主観世界を共有して、自分の世界の拡大、ひいては新たな文化を生み出すことに繋がると述べられました。

・山本哲也先生(徳島大学・臨床心理情報学)

 山本先生は「デジタルと踊る共感のエコロジー―人とバーチャルキャラクターが共鳴する時代へ」と題して、人間とバーチャルキャラクターの関係についてお話されました。まず最初に山本先生は、ダンスとテクノロジーの共通点として、「境界を越えて、人々の繋がりをもたらす」ことを挙げ、デジタル技術とダンスの融合が人間に何をもたらすのかの一例として、バーチャルキャラクターと一緒に阿波踊りを踊る「AR阿波踊り」を紹介されました。また、バーチャルキャラクターとの生活がどのような影響をもたらすのかということに関して、生成AIを活用して開発された柔軟に対話可能なバーチャルキャラクターについても紹介されました。バーチャルキャラクターとの対話による影響の検証結果として、対話前後で悩みの軽減、幸せ気分の上昇といった効果があったと報告されました。そして最後に、今後の研究の可能性として人とバーチャルキャラクターの共鳴が起こりうるということを指摘されました。

・伊東剛史先生(東京外国語大学・感情史)

 伊東先生は、シンポジウムのタイトル『すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー』に着目したお話をされました。まず、タイトルの「と」に着目し、今回のテーマにおける「と」を他の言葉に変えるとどう関係性が変化するのか、といったことを述べられました。次に、「共感」を取り上げ、「共感」が包摂や拡散などの様々な要素が表裏一体である色々な側面を有するものであると指摘されました。そして最後に、「踊って」に着目し、「舞を舞う」のような重言と促音言葉にリズム・間が生じるように感じられ、生の連続性が想起されるのではないかと述べられました。

 各登壇者のお話の後で、ディスカッションタイムが設けられました。まず、コッチャ先生が登壇者の方々のお話に応じる形でコメントをされました。コッチャ先生は、今回のシンポジウムのような大学と美術館のコラボがどのような意味を持つのかということを問題として挙げ、多様なものを学術的に1つに収束させようとする傾向が大学にはあると指摘し、新しい知のあり方を見直すことがコラボの最初に必要だと述べられました。たとえば、哲学者が現状のように本や論文を出版するのみではなく、他の表現、言語、形で表現をすることの必要性が例として挙げられました。また、高橋先生と山本先生のお話にあったロボットやバーチャルキャラクターとの関係について、人間の心理に合わせて表現しようとするような犬や猫といったペットに対する態度と似た部分があるのではないかと指摘されました。そして、「すべてのものとダンス」をするために必要なこととして、人間に共通な新しい文化、地球規模での文化、言語を作る必要があると主張し、大学がそのプラットフォームとなる必要があると述べられました。

 最後には、フロアからの質問や登壇者同士でのディスカッションが行われ、周藤芳幸先生(名古屋大学人文学研究科研究科長)の閉会挨拶をもって、シンポジウムは幕を閉じました。

(文責:名古屋大学人文学研究科博士後期課程1年 田中基規)

[第9回案内]NEW!

🌟開催日時:2024年11月22日(金)20:00〜22:30
🌟講師:飯島雄太郎(翻訳家・大学講師)
🌟コメンテーター:暴力と破滅の運び手(会社員/小説家)
🌟テキスト:トーマス・ベルンハルト 『推敲』 河出書房新社、 2021

(※読書会のメインテキストは『推敲』ですが、第二部では最新訳『石灰工場』 (2024 年 9 月刊)にも触れていただきます)

名古屋大学×金沢21世紀美術館共催シンポジウム

題目:「すべてのものとダンスを踊ってー共感のエコロジー」

期間:2024年11月4日(祝日・月) 10:00~13:00 

会場:名古屋大学東山キャンパス 坂田・平田ホール(愛知県名古屋市千種区不老町 理学南館)*同時通訳有り、事前予約不要、参加費無料

関連リンク:

名古屋大学 × 金沢21世紀美術館 共催シンポジウム「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」|イベント|金沢21世紀美術館 | 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa. (kanazawa21.jp)

すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー|金沢21世紀美術館 | 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa. (kanazawa21.jp)

ご挨拶

このたび、人文知共創センターは、金沢21世紀美術館との共催でシンポジウムを開催することになりましたので、ご案内申しあげます。

 金沢21世紀美術館は、今年で創立20周年を迎えます。その記念イベントの一環として、11月2日より、金沢21世紀美術館では、展覧会「すべてのものとダンスを踊って——共感のエコロジー」が開催されます。
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1821
すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー|金沢21世紀美術館 | 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa.
石川県金沢市にある現代美術館です。来館情報、展覧会、イベント、教育普及プログラム、コレクションの紹介など。www.kanazawa21.jp

 この展覧会は、思想をアートで実践するという点でも、非常に革新的な内容となっており、1人でも多くの方に、展覧会にもお足を運んでいただけるよう、この名古屋で、展覧会の趣旨と意義を発信することになりました。

 人文知共創センターが推進する学術知共創プロジェクト「人間・社会・自然の来歴と未来:「人新世」における人間性の根本を問う」 ( 「AAAプロジェクト」 )は、理論的柱の1つとしてラトゥールの思想を据えており、美術館館長の長谷川祐子さんは、晩年のラトゥールと共に仕事をされた経験もあり、今回の展示にはその思想が反映されています。

 展覧会のコ・キュレーターを務めるエマニュエール・コッチャ氏(パリ社会科学高等研究院)は、植物の哲学で著名な方で、アガンベンの弟子でもあり、『メタモルフォーゼの哲学』などの著作が翻訳されています。

 本シンポジウムではコッチャさんに基調講演「Metropolitan Nature: How Nature builds Cities」をしていただき、続くディスカッションでは、館長、キュレーター、そして私どものプロジェクトより、感情史、美術史、インド哲学、認知科学とロボティクス、臨床心理情報学の研究者が参加し、それぞれの観点から展覧会を照射し、これに照応してコッチャ氏からコメントをいただきます。

 是非とも多くの方においでいただけますよう、ご来場をお待ちしております。               

人文知共創センター 中村靖子

共通世界の構築への誘い――ラトゥールとキュレーション

 戦争/地球環境問題/貧困を始めとした様々な危機を抱える現代において、私たちはかつてないほどの「分断」を経験しています。この地球規模での危機および「分断」状況において、私たちが人間/非人間のような種別を問わず地球に住まう存在として共に在り続けるためのグランドデザインの構築は、事態が刻一刻と深刻化するなかで地球に住まう私たち誰しもにとって喫緊の課題であるといえるでしょう。

 この課題へ対処する上で鍵となるのは、脱人間中心主義的思想の旗手として名を馳せたブリュノ・ラトゥールの思想実践です。科学活動の営みを人間/非人間の絶え間ない相互連関として捉え直すアクターネットワーク理論(ANT)の視座を確立したラトゥールは主著『虚構の近代』(1991年)において、人間の社会/非人間の自然、そして社会と自然を区別する近代/これらを区別しない非近代という、弁別的な思考様式それ自体が近代人の偶像であると大胆にも宣言します。近代の象徴ともいえる科学そして近代そのものの人間中心主義を解体し、脱人間中心主義的な枠組みへと再構築するラトゥールは、2000年代以降展覧会制作者としてキュレーション実践へと身を投じます。ラトゥールはドイツのカールスルーエ・アート・アンド・メディア・センター(ZKM)において、「Iconoclash」(2002年)/「Making Things Public」(2005年)/「Reset Modernity!」(2016年)/「Critical Zones」(2020年)といった数多くのキュレーションを手掛けましたが、ラトゥールのキュレーション実践の焦点は参加者それぞれの視点を還元することなく全員が参加可能な共通世界を構築することにありました。ラトゥールは人間か非人間かを問わず種々の存在がもつれ合い連関する姿をありありと提示することを通じて、オーディエンスを連関が絶え間なく生成変化する共通世界の構築活動へと誘っていたのです(ご関心がある方は、長谷川祐子編[2022年]『新しいエコロジーとアート』を是非ご覧ください)。

 共通世界の構築、これはラトゥールの思想実践と本シンポジウムをつなぐ重要なキーワードとなるでしょう。本シンポジウムは、開館20周年展覧会企画において総合的なエコロジー思想を体現した作品展示および思想の視覚化・可感化を通じた学びの提供を企図する金沢21世紀美術館、そして人間−社会−自然の来歴を辿り直し〈他者や自然との柔らかな均衡〉としての未来を構想する名古屋大学人文知共創センターが協働する共催企画になります。本シンポジウムの開催が、私たちが共に在り続ける共通世界の新たなグランドデザインを提起する上での橋頭堡のみならず、オーディエンスそして未来の他者が地球に住まう存在としてこの共通世界の構築活動へと参画する実践的な契機となることを願ってやみません。

 是非とも多くの方においでいただけますよう、ご来場をお待ちしております。               

北陸大学 金 信行