2023.7.28 第3回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

🌟発表題目:『ある島の可能性』、あるいはミシェル・ウエルベックの読み難さ

(1) 発表内容のまとめ 

 2023年7月28日の発表では、フランスの現代作家ミシェル・ウエルベックによる長編小説『ある島の可能性』について、その作品制作上の文脈、作品の構造、登場人物の(とりわけ性的な)言説、翻訳では現れにくいフランス語の修辞といった各要素に関して、読者が直面する読み難さに焦点を当てました。

 上記発表内容を選択した理由は、『ある島の可能性』のみならず、ウエルベックという作家があまりに単純化された形──たとえば、現代社会への悪辣な批判者、禁忌を厭わない口さがのない作家、などといった定型──で消費され過ぎているのではないかという発表者自身の当惑と、実際に当作品を読了した方々からの感想を踏まえてのことです。たしかに本作は露悪的で俗悪な言説が目につきますが、丁寧な読解を試みるならば、また違った位相が浮かび上がる作品として描かれています。その最たる特徴として、たとえばこの小説の冒頭と末尾が、同作家の詩作品で頻繁に用いられるフランス詩法で描かれている点などが挙げられるでしょう。読むことに抵抗感を感じるほどの文章と、ほとんど美学的と言ってよい詩的探求を目指す文章が混在する『ある島の可能性』という作品は、非文学性と文学性が緻密な駆け引きを繰り広げる作品とみなしえます。

 もちろん、この観点から存命作家であるウエルベックが文学的であるか否かを議論することは時期尚早に違いありません。とはいえ、一般的に言っても、戦略的に書かれた作品をその文学的側面を無視して消費することは、あきらかに愚かなことです。このことは、おそらく作品自体が訴えていることでもあります。というのもこの小説の本筋は、先人が書き残した文章を、その人物のクローンたちが世代を重ねながら熟読し注釈を加えていくという物語だからです。本作で描かれる彼らクローン人間たちによる、その薄弱な生を賭した読書行為は、真剣になにかを読むという行為について考えさせられます。つまり、ある種の読書という行為は、単なる消費活動ではないのだと切実に訴えかけているように思われるのです。

 「終わらない読書会」という場に合わせたかのような結論となりましたが、これはいくつかの先行研究と、作家自身による本作発表後のインタビューや、刊行された往復書簡を傍証に辿り着く形になりました。見方を変えれば本発表は、一作品だけを読んでも理解し難い部分が多く残るというこの作家の特徴を浮き彫りにした形になったと思います。

(2) フィードバックについての省察―文学研究と読書会との狭間で

 発表者と同じくウエルベックを研究する西村真悟さん、主催者であるStephensの南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんらから、大変鋭いコメントを頂戴しました。ここにそれらを再掲することは、各人のコメントの豊かさと、文字数の問題から残念ながら叶いませんが、当日応答しきれなかった南谷さんからの「触覚・痛みの感覚」「島という主題と植民地主義」についての指摘はあえてここに記させていただきます。この指摘は、作品分析に腐心しがちな発表者にとって、作品を開放的に語る視座の重要性を改めて開いてくれるものだからです。

 開放的議論という観点から言えば、今回の発表での最大の収穫は、多くの参加者の方々からのコメントを頂戴したことです。「終わらない読書会」第二回にならい、発表の一週間ほど前に読書ガイド代わりのトピックリストを作成・配布し、読書会の序盤にそれを踏まえたコメントを、さらに発表後に改めて発表に対するコメントをと、二段構えで多くのご意見を頂戴しました。読書会という双方向的な場とはいえ、質疑応答が活気づいたのは、作品の強さと、参加者の方々の熱意、そして会の運営方法に大きく依存していると思います。この場を借りてみなさまに感謝申し上げます。また、当日、発表後の鋭い質問にはどうにか応答できましたが、会序盤のコメントについては時間の都合上ほとんど返答ができませんでした。すべてに返答申し上げることは難しいですが、そのうちのいくつかにお応え致します。

  • 「作家は映画化を目論んでいたのではないか」。ご指摘の通りで、本作は作家自身が監督して映画化するという構想がごく初期段階からあったようです。その制作資金獲得のために出版社を鞍替えしたという経緯もあります。
  • 「スキャンダラスに書くことは、リベラルに反感をもつサイレント・マジョリティへ売り込む戦略ではないか」。発表でも多少触れましたが、ウエルベックは自由(主義)に抵抗感を強くもっている作家であり、その創作意図には「スキャンダル」な真実を暴くというものが含まれているとみなせます。したがって、おそらくこの作家を読む上で、書き方が「スキャンダル」なのか、それとも彼の書いたものが「スキャンダル」なのかについて、慎重に距離を取って考えねばならないと思います。後半の販売戦略(のことでしょうか)については、出版社からの要請と、作家自身の創作哲学が絡み合っているでしょうから、作品読解からだけでは十分な議論は不可能に思われます(実証的研究が待たれます…)。
  • 「人間の描写が、分類に満ちている」。その通りで、この作家の小説では生物学的分類(昆虫描写には、馴染みのない生物学用語がしばしば用いられます)のレベルから、ときとして不愉快なほどの人種的・国籍的ステレオタイプ化のレベルまで、多くの分類的視線が現れます。とりわけこの作家の初期において、個人概念への疑念は顕著であり、その表出のひとつなのかもしれません。実際、人間は有限のタイプに分類可能だという作家自身の思想が小説作品の登場人物に適応されている、という指摘は多くなされています。

 またご指摘のなかには、「研究者の視点と一般読者の視点は異なるという印象があった」というコメントがありました。これは私の作成したトピックリストへの批判的感想と思われますが、重要なご指摘であるため、以下のように応答させていただきます。

 今回の発表を準備するにあたり、私が心掛けたのは単なる研究発表にはすまいということでした(ですので、ご指摘は痛烈な批判として受け止めております)。これは開放的な読書会において「研究者と一般読者を区分けしない」という意味ではなく、むしろ「研究者と一般読者はなにが違うのか」という問いを再考する機会でもありました。私の結論を先に申し上げれば、「研究者と一般読者の差は、読書体験においてはさほど生じない」というものです。これは理論的な省察ではなく、初心に立ち帰り、本作を読みながら疑問点や感想をとめどなく余白に書きつけ、そのメモ書きをリスト化していく段階での実感です。もちろん研究者である以上、専門分野である作品や作家への知識や、文学という学問領域での知識や知見は備えていなければなりません。しかし、ある文学作品を鑑賞するにあたって、そうした知識はさほど役に立つものではないと私は考えます。文学研究者の仕事とは、なにか真なる解釈や読解を提示することではなく、ウンベルト・エーコが述べていたように、作者が言い淀んだり書き忘れたりしたことを補填すること、すなわち『ある島の可能性』の登場人物のように註をつけること以上でも以下でもありません(つまり、研究職の職能とは、読書時の余白への書付をいかに客観的に活字にするかという点にかかっていると思います)。しかし、こうした註は作品を補強する一方で、目にはうるさいという運命を背負っています。

 オンライン読書会という限りなく開かれた場において、こうした註釈を延々とすることは、退屈である以上に、作品鑑賞において邪魔でしかないように思われます。もちろん、註釈自体がある種の知的好奇心を誘発することを否定しているわけではありません。とはいえ、個人的に何かを読み、疑問や感動を携えたとき、そうした註釈が必要かというとはなはだ疑問です。それが理由で、上述の方針を固め、私の研究上の所産というよりも、作品理解の補助線を引くことを心がけた発表をさせていただきました。

 『服従』という、『ある島の可能性』の二作後の作品では、まさに文学研究者である主人公が登場します。彼は専門であるユイスマンスについて全集版の序文を書くことになるのですが、その完成の過程で彼は次のような天啓を得ます。「ぼくは突然、完全にユイスマンスを理解した、それもユイスマンス自身よりもずっと完全に」。この妄想すれすれの確信が主人公に訪れるのは、ユイスマンス作品の読後でも、関連論文の読後でもなく、レストランでメニューの選択に頭を悩ませているときです。文学作品が生の所産でありうるのであれば、その理解は──妄想であれども──やはり知の領域ではなく、生の領域でなしうるのではないか。これは一種の仮説に過ぎませんが、少なくともウエルベックにおける読書の重要性のひとつには数えられる観点です。

 ウエルベックの諸作品で引用ないし言及された書物を丹念に読み、その意図や意味を追求する『ミシェル・ウエルベックの引き出し』の著者であるヴィアールは、「ウエルベックはまともに読まれていない」と発言したことで知られています。今回の発表ではまさにこの読むことについて深く再考する大変よい機会になりました。いただいた多くのご指摘や、ご感想を、今後の研究の活力にしていきたいと思います。ご参加いただいた方々、ご運営いただいたStephensの方々、共催の「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」、コメンテータ―を務めていただいた西村真悟さん、みなさまに改めて感謝申し上げます。(文責:ロレーヌ大学博士過程・東京都立大学客員研究員 八木悠允)