2026.1.23 第3回

発表内容のまとめ

 シャノンの情報理論やポパーの3世界論を援用し、生成AIのある未来社会がどうなるのか、ChatGPTの流行から見る知能の構造と〈人間性〉への拡張、養老孟司氏とAI養老先生が導く<自己>と<生>のかたち、という2部で構成しました。生成AIの普及を「記号接地」と「心的世界」という観点から捉え直し、人間の知能と人間性がどのように変容しうるのかを検討しました。

(1) ChatGPTの流行から見る知能の構造と〈人間性〉への拡張

     AI社会と記号接地問題について議論しました。まず現代社会における生成AIの位置づけを解釈するために、企業活動で生成AIがどのように活用され始めているかを簡単に紹介し、LLMがIA(Intelligence amplification)ツールとして機能するようになったことを説明しました。AIすなわち人工知能は、文字通り知能活動をアウトソースするものですが、IAすなわち知能増幅は、既にある知能活動を増幅するものです。ChatGPTは、人間にとってAIとしてもIAとしても機能する実用的なツールとして世界初と言って良いサービスだったと考えられます。

     次に、シャノンの情報理論では意図的に意味論を排除することで数学理論を完成させた点を紹介し、ポパーの3世界論を援用しながら人文芸術のような表現活動と生成AIが行っている形式的な情報処理との違いを説明することを試みました。


    人文芸術のような表現活動は、自分の中にしかない心的世界を創作物として情報化することで他者と共有することを試みる活動と説明できます。他者の創作物を解釈して自分の中に意味を立ち上げ、心的世界を広げていくことは、人文学の魅力の一面だと捉えることができます。一方、生成AIは既存の情報を形式的に処理して新たな情報を生成しているため、心的世界を介在させていない点で本質的に異なります。

     このような文脈でAI社会と記号接地問題について考えてみると、AIが記号接地しないという議論は、AIは心的世界を介在していない、という問題に読み替えることができます。AIのインプットは既に情報化された記号であり、それを形式的に情報処理しているに過ぎないためです。そのように解釈すると、現代人も記号接地しなくなってきているのではないか、という直感的な認識を説明することができるのではないか、と指摘しました。

    • 養老孟司氏とAI養老先生が導く<自己>と<生>のかたち

     未来のAI社会について議論しました。まずリアル・リアリティとは何か、シミュレーション仮説を援用しつつ、物理世界は感覚やセンサーを通して推測することしかできない存在であることを説明しました。私たちのリアリティは自分の中にしかなく、一人ひとりの心的世界に構築されたリアリティによって一人ひとりの行動が変わります。情報化社会の先にAI社会が訪れると、私たちのリアリティは情報メディアやAIの生成物による影響が極めて大きくなります。効率的にリアリティを広げる可能性を持つ一方で、物理世界とリアリティとの相互作用が薄まってしまうことによる影響を考慮する必要性を指摘しました。

     次に、知の巨人ともいわれている養老孟司氏とそのAIアバター(デジタルヒューマン)を題材に、予測能力としての知能について考察しました。AI研究の第一人者ともいわれている松尾豊氏は、「『知能の本質』とは『予測能力』のことだと思う」と発言されています。知性を持つとされる人間の発言を、現在のLLMはどこまで予測できるのか、人間の予測との違いはどこにあるのか、実際の人間の発言とは何が違うのか、分析しました。具体的には、大阪・関西万博会場で開かれた養老孟司氏が自身のAIと対面したイベントで「AIアバターが社会実装されたら」というテーマで語られた内容について、研究会参加者に推測してもらい、違いを分析しました。

     LLMも人間も、養老孟司氏の思想を捉えた発言予測をする、という共通点が見られました。LLMによる予測は実践的議論だったのに対し、人の予測は本質に踏み込んだ哲学的議論を予測している傾向がありました。これは、客観的統計的な情報を生成するLLMの性質と、研究会参加者の興味関心、という視点から説明することができます。 他方、実際の発言は、一人称視点で自身の感覚や生き方を軸に発言し、AI社会については前提自体をずらして軽やかに言及していました。ここに、前半で述べた「心的世界を創作物として情報化する」という、人間に固有の活動を垣間見ることができ、人が遊んだり学んだりすることの意味に対し、示唆を得られたのではないかと考えます。

    (2)フィードバックについての省察

     記号接地問題、自然と人工、心的世界の情報化等、様々なフィードバックをいただきました。論点が伝わるかどうか不安もありましたが、参加者の皆さまに思考を深めるフィードバックを多数いただき、大変嬉しく思います。

    • 現代社会では人間も記号接地が希薄化しているという指摘について

     記号接地の希薄化は人間の歴史の中でずっと起こり続けていることだと思う、というようなコメントをいただき、少し考察してみました。

     記号接地問題というと、「リンゴ」のような物理対象を例に議論されることが多いですが、現実社会で私たちが用いる記号には、それとは性質が異なる概念的な記号が多く存在します。例えば、『戦後80年を迎えた今、日本人は「戦争」という記号の接地度が下がっているだろう。』という文に対し、多くの方はあまり違和感を持たない気がします。「戦争」は、様々な具体的な出来事・状況・体験・感情・国と国との緊張状態…をわずか6バイト程度の情報量に圧縮した記号です。このような記号の接地問題は、「リンゴ」のような物理世界と一対一対応した記号とは明確に分けて考える必要がありそうです。心的世界を記号化した「痛み」のようなものとも異なります。

     「戦争」も「リンゴ」も同一の記号として扱うと、写真や動画が戦争かどうかを判別できることをもって「AIが戦争を理解した」と解釈することが可能になってしまいます。しかし、この理解は、「戦争」という記号が含む歴史的・社会的・感情的意味を捉えたものではありません。「戦争」のような世界1~3を跨るような記号の接地度を上げることはそう簡単では無さそうです。心的世界は理解し得ないものであり、客観知識世界は大きいため、誰かがその記号を完全に接地している、ということは事実上不可能です。しかし、ある程度の人が分かっていると自認しない限り、その記号は意味を持ちません。これは無知の知とも関連すると思われますが、では無知の知を多くの人間が獲得できるのだろうか、という問いにぶつかりそうです。

     では、記号接地希薄化が生成AIの登場によって質的に変わったことはあるのか、も考えました。生成AIはしばしば「高いIQを持つ」と表現されることがあります。記号接地希薄化の文脈では、「小賢しさ」と表現したくもなる側面もあるかもしれません。中身が無いことが明白でも、それを見破るには相応の目利き力が求められます。今は未だ生成AI黎明期ですが、客観知識世界に「超高IQの」生成AIによる情報が溢れかえれば、求められる目利き力も桁違いに高度なものになるでしょう。これが、現在起ころうとしている質的な変化の一つなのかもしれません。

     ところで、「戦争」のような記号の接地度を上げる手法の一つに、語り部を通して伝承することが有用である、という経験則があります。何故このような経験則が機能してきたのか、もしくはそのように捉えてきたのか、を考え直すことで、AI社会において私たちが社会的に生き続けるヒントがあるように感じます。

    • 自然と人工の境界をコントロール可能性・責任主体の有無で捉えるという解釈について

     親が責任を持つなら「子供」は人工なのか、唯一神の有無で境目が違う、というようなコメントをいただき、自然と人工に分けられない存在としての人間というについて考えました。

     「人工」とは人間の脳が生み出したものであり、身の回りを極限まで「人工」にしたいという欲求が現代の都市型社会を生み出したとも解釈できます。しかし、人間の身体だけ、生老病死だけはコントロールできない存在として残ってしまいます。

     特に、「子供の脳」は社会性を獲得する途上にある存在です。ここには境界線を引いてはいけない聖域が本来はあるような気がしてなりません。子供は、身体も脳も「自然」度が高い存在であるにも関わらず、現代社会では子供は親が責任を持って問題を起こさないようにコントロールすべきである、という社会規範ができつつある点です。老化も同様です。歳を取って身体や脳の「人工」度の維持が困難になってなお、自身や家族が責任を持つことが求められ、程度によっては当たり前のように隔離されます。

     唯一神の有無、という切り口も非常に興味深い視点だと感じます。日本は自然災害大国であり、八百万の神、里山文化といった自然信仰が社会の基盤にありました。このような社会では自然と人工は明確に区別されません。一方で欧米のスタイルは唯一神が前提であることが一般的で、その都市型社会は自然と人工を分類します。この二つの価値観が共存する社会は、直感的にはイメージできなそうです。自然を制御対象とみなす唯一神型の思想と、自然を人間と連続した存在として位置づける自然信仰型の思想は、物理世界のリアルに関する前提が異なるためです。このような自然観の違いは、都市の設計や人間のライフスタイル、人生観に反映されやすく、その延長線上で、少子高齢化やSDGs、Well-beingといった現代社会特有の課題を捉える際の手がかりとして意味があるような気もします。

     予測できないことを面白がることができるのが人間的に感じた、心的世界を情報化したいという欲求はまだ健在だと思う、というようなコメントもいただきました。これらはコントロールできないところに価値があるように思われます。これらをAIに実装させようという知的好奇心や創作意欲もあるでしょうが、「人間性」としての価値が再評価されると良いなと思います。

    謝辞

    南谷先生、そしてご参加いただいた多くの方にお礼申し上げます。哲学的な議論を情報工学の視点から展開して、果たして興味を持ってもらえるのだろうか、と思っていましたが、多くの方に視聴・フィードバックしていただきとても嬉しいです。また、自分が頭の中で漠然と考えていたことをまとめ直す良い機会にもなりました。ありがとうございました。

    2025.11.28 第2回

     第2回「文系のための生成AI研究会」にて、話題提供の機会を得た。当日は「ルソー手稿研究での使用例」および「大規模講義での生成AI利用の試み」という二つのトピックについて発表を行った。ここでは、当日の発表内容を要約しつつ、アンケートや質疑応答で得られたフィードバックを通じて浮き彫りになった、生成AI時代の人文学と教育が直面する課題について報告する。

    1.発表内容のまとめ:時間の可視化と身体性の回復

    ルソー手稿研究と「時間の記述」

     前半では、専門であるルソー研究におけるAI活用の現状を紹介した。現在、私はルソーの『社会契約論』などの手稿を対象に、その執筆プロセスをデジタル空間上で再現する研究に従事している。書物として出版されたテキストは二次元的でリニアな情報だが、その背後には、ルソーが何度も書き直し、削除し、また書き加えたという「時間」の厚みが存在する。従来の紙媒体での研究(批評型転写など)では表現しきれなかったこの「執筆の時間」を、XMLデータを用いた「生成型転写」という手法で記述し、Z軸(時間軸)として可視化することを目指している。

     この作業において、生成AI(特にGoogleCloudVisionAPIなどのOCR技術)は、手書き文字の解読とデータ化を劇的に効率化させた。しかし、発表の中で私は、ある種の「憂鬱」についても吐露した。それは、かつて研究者が手入力で行っていた「単純作業」がAIに代替されることへの戸惑いである。単純作業の反復は、創造的なアイデアが生まれるための助走期間(エンジン)として機能していた側面がある。そのプロセスをAIが代替したとき、私たち人間は何を為すべきか、という問いを提起した。

    大規模授業における「身体性」

     後半では、100〜200名規模の講義(哲学入門・社会思想概論)における生成AI活用事例を紹介した。大人数の講義では、学生が受動的になりがちで、教員側も個別のフィードバックを行うことが困難である。また、生成AIの普及により、レポート課題におけるコピペや安易な生成が容易になっている現状がある。そこで私は、講義レジュメをAIに読み込ませてワークシートを作成させたり、LMSを活用して学生にキャンパス内を探索させたりする実践を行っている。例えば、ミシェル・フーコーの「規律訓練型権力」とドゥルーズの「管理型権力」を学ぶ回では、学生にスマートフォンを持たせ、学内に潜む「見えないルール」や「権力の作動」を写真に撮って投稿させる課題を課した。ここでの狙いは、生成AIが容易に答えを出力できる時代だからこそ、あえて「足を使い、手を動かす」という身体的な経験を学習に組み込むことにある。AI時代のレポート課題においては、単なる知識のまとめではなく、現場での身体的経験や一次情報の収集を必須とすることで、AIへの丸投げを防ぎつつ、実感を伴う学びを提供できるのではないかと提案した。

    2.フィードバックと考察:効率化の果てに残るもの

     発表後の質疑応答およびアンケート結果からは、参加者の関心が単なるツールの紹介にとどまらず、「人間が行う作業の意味」という本質的な問いに集中していることが確認できた。

    「単純作業」と創造性のパラドックス

     アンケートの中で最も多くの共感を得たトピックの一つが、「単純作業と創造性」の関係であった。参加者からは、「単純作業なしに創造せよと言われても困る」「手書きには思考の憑依のような瞬間がある」といった声が寄せられた。手稿研究における転記作業や、語学学習における反復練習など、一見非効率に見える「単純作業」の中にこそ、対象への没入や身体的なリズム、そして「思考の種」が宿っているという感覚は、多くの人文学徒に共通するもののようだ。生成AIによる効率化は歓迎すべきことだが、それによって「プロセス」そのものがブラックボックス化され、研究や学習の喜び(あるいは苦しみを通じた成長)が失われることへの懸念が共有された点は重要である。私たちは、AIに任せるべき作業と、あえて人間が時間をかけて行うべき作業の境界線を、自覚的に再設定する必要があるだろう。

    教育における「身体性」の再評価

     また、教育実践に関しても、「大規模授業でも一人一人との対話を大事にする姿勢」や「学生を動かす工夫」に対して多くの反応があった。生成AIが高度な言語能力を持つようになった今、「言葉だけで完結する課題」は脆弱になっている。アンケートでも「学生のレポートとChatGPTの利用範囲」や「評価設計」に関する悩みが数多く寄せられていた。私の実践した「キャンパス内で写真を撮る」といった身体性を伴う課題は、AIに対する一つの対抗策であると同時に、AIには不可能な「現場性」を教育に取り戻す試みとして評価されたようだ。デジタルなツール(AI)を使いこなすためにも、むしろフィジカルな経験や対話が重要になるという逆説は、今後の教育カリキュラムを考える上で重要な視点となると確信した。

     結びにかえて今回の研究会を通じて、生成AIは単なる「便利な道具」ではなく、私たちの「知の作法」や「身体性」を問い直す鏡のような存在であると改めて感じた。手稿研究における時間の可視化も、授業における身体的活動も、AIという他者が現れたからこそ、その価値が再発見されたと言える。アンケートでは、「今後扱ってほしいトピック」として、大学教育の制度設計や、研究における倫理的な境界線についての議論を求める声が多く挙がっていた。今後は、個人の実践知の共有にとどまらず、それらを制度や倫理規定としてどのように社会実装していくかという、より大きな枠組みでの議論が必要になるだろう。