2024.3.31 第4回全体集会 理論班セッション

 金信行先生は現在までの研究成果として、H. ミアレの論文『ホーキング Inc.』(2014)を基に、科学技術社会論(Science, technology and society, STS)におけるアクターネットワーク理論(Actor-network-theory, ANT)の役割について提案されました。金先生は、知識生産におけるAI技術と人間の関係を考察する上で、人間・非人間を含めた声なきアクターを、知識生産のネットワークを構成するものとして捉え直す枠組みとしてANTの重要性を指摘しています。また今後の目標として、ブロックチェーンとそれを基盤とするNFT(Non-Fungible Token:非代替性トークン)が、デジタルアートにもたらす影響についてELSI(Ethical, Legal and Social Issues: 倫理的・法的・社会的課題)の観点から研究するという展望を示されました。

 討論ではアクターネットワーク理論による記述の限界が指摘され、それをいかにして乗り越えるべきかが議題となりました。

 田村哲樹先生は、「「方法論的国家主義」なき熟議的民主主義のために」というタイトルで、従来の熟議システム論についての批判的な考察を発表されました。熟議民主主義の現実的な制度化を検討する上で、これまで熟議システム論の立場からはフォーラム中心的な熟議民主主義の捉え方が批判されてきました。田村先生はこうした批判の意義と射程を確認した上で、そこでもなお国家や政府を中心とした民主主義観が前提とされていることが指摘され、そうした方法論的国家主義を乗り越えるために、従来の「マクローミクロ」図式によらない、「同時並行的」に作動する複数の熟議システムという、修正された熟議システム論を提案されました。

 討論では、熟議システムの構成単位について疑問が投げかけられ、いかにして熟議システム論においてシステムの境界線を規定するのかについて議論がなされました。

 大平徹先生・大平健太先生は、手に乗せた棒のバランスを取る課題や、目を閉じた状態で身体を直立に保つという課題において、身体に一定のリズムを持った刺激を与えることが課題の実行を容易にする場合があることを示した実験を紹介し、生物にとって自己フィードバックの遅れが持つ積極的な意義を考察されました。また、複数の振動による遅れの相互作用が個々の振動よりも遥かに大きな振動を生み出す現象を数学的に記述する試みとして、解を持たないとされる従来の遅れ微分方程式に対し、解を持つ、あるいは高い精度で解を推定できる新たな遅れ微分方程式を提案されました。

 討論では、ノイズとなる刺激を与えることがクローズドなフィードバックループ(鋭敏性)を緩める働きを持つという点に関心が集まりました。

 鄭弯弯先生は、「文学作品の感情分析の予備実験」と題し、既存の言語モデルが文学作品の感情分析に適応可能かを検討した研究を紹介されました。『グリム童話』「七羽のカラス」の日本語テクストについて、複数の言語モデルを用いて文ごとのセンチメントスコアを算出し、それぞれのモデルによって算出されたスコアを、テクストから読み取れる感情の変化、及び各文のベクトルと比較し、それぞれの言語モデルの特徴や欠点を指摘するとともに、文学作品の感情分析に適した新たな言語モデル構築を構築する必要性やそれに向けての課題を示されました。

 これに対しオーディエンスからは、テクストの感情分析において「感情」とはだれの感情なのかという疑問が寄せられ白熱した議論が交わされました。

 平田周先生は、この研究会の理論的柱となっている、ブルデューとラトゥールの2つの社会学的立場をどのように調停するべきかという問題について報告されました。平田先生は個人の行為に先立つ知覚や評価の図式が社会環境によって形成されると主張するブルデューの「社会的なものの社会学」と、人間と非人間のアクターの「集合体」の記述によって社会を捉えようとするラトゥールの「連関の社会学」を比較して両者の争点をまとめ、両者の議論を接続する必要性があることを示し、その接続のための条件についての考察を発表されました。

(文責:大阪大学 人文学研究科 博士前期課程2年  葉柳朝佳音)

2024.3.30-31 2023年度全体研究集会(春)

 2022年8月11日、12日に最初のキックオフミーティングが開催されてから早くも1年半。2024年3月30日、31日に全体研究集会が開催されました。

 現在進行中の研究も、一部では成果のまとめ、発表が盛んに行われるようになってきました。その一つが、2024年3月14日から15日にかけてローマ・トル・ヴェルガータ大学にて「Anthropocene Calling」と題したローマ国際会議です。今回の全体研究集会では、京都大学の二宮望(RA)さんより報告がありました。

失われたラファエロ・サンティ(1483年~1520年)の素描にもとづく、16世紀(1475年ごろ~1534年ごろ)の版画家・マルカントニオ・ライモンディの版画《パリスの審判》
フランスの画家、エドゥアール・マネ(1832年~1883年)による《草上の昼食》。ラファエロの《パリスの審判》の右下に描かれている3名を参考に制作されたとされる

 日本からは、中村靖子先生、大平英樹先生、武田宙也先生、池野絢子先生、山本哲也先生、二宮望先生、岡田温司先生(本プロジェクトによるご招待)が参加しました。ローマ国際会議では、「人新世」のあり方を浮き彫りにするようなそれぞれの研究が発表され、活発な議論が交わされました。そのうちの一つ、二宮さんの発表は、美術史家・ヴァールブルクの研究についてでした。盛期ルネサンスを代表する画家・ラファエロが描いた《パリスの審判》をもとに、同時期の版画家・ライモンディによって制作された銅版画があります。19世紀の画家・マネはこの作品を参考にして《草上の昼食》を描き上げました。これを見たヴァールブルクは、時代を経るごとに太陽の神や雷の神といった、神の存在が描かれなくなっていくことに着目。ここに、科学の進歩によって自然を飼いならしていく様を見出したのでした。二宮さんは、「神が描かれなくなっていった背景にはもっと複雑な事情があるのでは」、と話しつつも、ヴァールブルクを例に文明と自然の変わりゆく関係性について話題提供を行いました。

 全体研究集会ではその後も大変興味深い発表と活発な議論が続きました。南谷先生がオーガナイズした第3班の発表では、奈良先端科学技術大学院大学の日永田智絵先生、大阪大学の大道麻由さんがご来訪されました。それぞれ、「感情モデルの開発~感情理解に向けた構成論的アプローチ~」、「物語を共有するロボット」と題した研究発表が行われました。

 2024年度も、ハワイパネルや世界哲学会議など、世界をまたにかけてAAAプロジェクトメンバーが活躍する予定です。

(文責:綾塚達郎)

2024.2.22 第3班の第5回班別会議

2024年2月22日、オンライン(Zoom)にて第3班の第4回班別会議が開催されました。(参加者/敬称略:池田慎之介、和泉悠、大平英樹、ソニア・ザン、鄭弯弯、中村靖子、南谷奉良、宮澤和貴)本班別会議では各班員の2023年度の進捗報告に加えて、班員である宮澤和貴先生が登壇される共催企画の第6回終わらない読書会についての打ち合わせ、次期テキストマイニング講習会及び叢書刊行企画会議の日程調整が行われました。2023年度の第三班の活動成果は極めて順調で、ロボット、生成AI、痛みと可傷性、主体化と言語獲得のモチーフを通じて、当初の目的である班員間の異なるディシプリンを研究内容面で関連させることが実現しつつあります。また、予定していた年2回の班別研究会議と第4班との合同研究会も実施することができ、着実に人文知と自然科学の連携が取れてきていることを実感できています。

🌟南谷奉良

2023年5月31日に実施したテキストマイニング講習会(講師:鄭弯弯氏)と第3・4班合同企画『悪口ってなんだろう』(和泉悠著)合評会の成果を通して、Kazuo Ishiguro, Klara and the Sunについてのテキストマイニング分析を8月27-28日の第3回研究集会で発表した。業績成果としては、第三班のキーワードである「痛み」に関連した論文を、京大英文学会誌のAlbionに投稿し、2023年11月に掲載された。共催企画の「終わらない読書会」の第5回目を実施し、伊藤琢麻氏(ソルボンヌ・ヌーヴェル大学博士課程)と、コメンテーターとして森田俊吾氏(奈良女子大学・専任講師)を招聘して若手研究者のネットワークの拡大を図り、生成AIによる作詩の可能性とダダイズムの特質を議論した。同読書会については第6回目を3/15に開催し、本班員の宮澤和貴氏を講師として、Klara and the Sunをロボットの言語・概念学習の観点から読みなおしを行う予定である。人工知能関連では、人文知を活用した生成AIをテーマとする京都大学公開シンポジウムを12/10に開催し、オーガナイザーを務めた。同シンポジウムには、AAAの第5班の山本哲也氏をパネリストの一人として招聘し、科学技術史、ゲーム文化学、地理学、英文学、臨床心理学・心理情報学の観点から、生成AIの多様な応用可能性と諸問題について議論を行った。生成AIについては開発の速度が極めて早いことから、関連する主要な出来事と応用可能性と問題についてフォローアップする必要があり、「孤独とロボット」の問題を研究しているソニア・ザン氏(大阪大学人類学部招聘研究員)にニュースのリスト化作業を時系列順に進めてもらっている。

🌟和泉悠

2023年前半に開始した、児童向けアニメ作品『ひろがるスカイ プリキュア』『ポケットモンスター』の会話文書き起こしデータの作成を後半においても進めた。それぞれ30話程度の書き起こしを行い、あわせて1万5000件程度の発話データを収集した。今後分析を進めていく。

 デジタル社会における有毒・有害な言語についての研究成果をまとめ、AAAの他のメンバーとともに国際会議にて発表する準備をおこなった。2024年度に開催される2つの国際会議に、要旨を提出し、採択された(World Congress of Philosophy in Rome 2024年8月、The 12th East-West Philosophers’ Conference 2024年5月)

 ヘイトスピーチといったオンライン上の有毒・有害な言語に対抗するひとつの手段として、ホープスピーチと呼ばれる言語の側面についての研究が英語や南アジアの言語を対象として始まっているが、日本語を対象とした研究はまだ存在しない。そこで日本語YouTubeコメントで構成されるデータセットを作成した。その成果は言語処理学会30回年次大会(2024年3月)で発表される。

🌟池田慎之介

2023年度は、2022年度に実施した2件の研究を査読付き国際誌に投稿した。1件はSocial Psychology and Society誌に採択となり、現在印刷中である。もう1件はPsychologia誌に採択され、既にAdvance online publicationとして公刊されている。また,ChatGPTがヒトの意思決定に及ぼす影響について新たに1件の調査研究を実施し、現在得られた結果を解析中である。更に、他班の2名と共同研究計画を立て,民間財団の助成へと申請を行った。この研究は、VR環境下で個人のセクシャリティの変容を検討するものであ、AAAプロジェクトでの研究を押し広げるものとなる。加えて、今年度より着任した金沢大学において、子ども研究を行うための環境を構築した。これにより次年度からは,スムーズに子どもを対象とした実験が行えるようになった。

🌟 宮澤和貴

第41回日本ロボット学会学術講演会にてオーガナイズドセッション「OS20:大規模言語モデルとロボティクス」を開催した。1件の基調講演と、7件の一般発表が行われ、大規模言語モデルとロボティクスの接点について幅広く議論した。今後は言語に限らず視覚や聴覚、ロボットの制御についても議論を広げていく。また、性格を付与したChatGPTによる対話誘導に関する研究を進めた。ポジティブやネガティブなどの性格を付与したChatGPTを用いて、ChatGPT同士での対話実験を行い、対話相手の発言をポジティブに誘導できるかを検証した。さらに、大規模言語モデルへの罵倒に関する研究の準備を進めた。ロボットの身体に根ざした痛みの理解に先立ち、大規模言語モデルが言語的な痛みをどのように理解し、痛みを伴う言葉がどのようにモデルの出力に影響を及ぼすのかを検証する予定である。

[第6回案内]

🌟開催日時:2024 年 3 月 15 日(金)20:00〜22:30
🌟講師:宮澤和貴(大阪大学 大学院基礎工学研究科 助教)
🌟コメンテーター:日永田智絵(奈良先端科学技術大学院大学 先端科学技術研究科情 報科学領域 助教)
🌟テキスト:カズオ・イシグロ『クララとお日さま』土屋政雄訳(早川書房 2021 年) (※文庫本も利用できますが、読書会での参照時には単行本に準拠します。)

中村代表が人社委員会で報告してきました

 科学技術・学術審議会学術分科会 人文学・社会科学特別委員会(第 21 回)において、中村代表が人文知共創センターの活動について報告しました。https://www.mext.go.jp/content/20240126-mxt_sinkou01-000033699_00.pdf

 これに関して、名古屋大学人文学研究科の周藤芳幸研究科長が「研究科長だより」で紹介して下さいました。

1 ⽉ 26 ⽇には、⽂科省の科学技術・学術審議会学術分科会の第 21 回⼈⽂学・社会科学特別委員会がオンラインで開催され、中村先⽣が「⼈⽂知共創を⽬指すために」というタイトルで講演をされました。せっかくなので、プログラムの全体を紹介しておくと、はじめに⼀橋⼤学経営管理研究科・イノベーション研究センターの軽部⼤教授から「我が国の⼈⽂学・社会科学の国際的な研究成果のモニタリングについて」という話題提供があり、そこでは、SciVal による分析に研究者へのインタビューを加味することで⼈⽂学・社会科学の研究成果の国際性を可視化する試みが提⽰されていました。おもしろかった(?)のは、「いまどき専⾨書を刊⾏することが研究業績になる分野があることを今回のインタビューで初めて知った」という発⾔で、これには、さっそく井野瀬久美恵さん(イギリス近現代史・ジェンダー史で有名な⻄洋史の⽅)が、「歴史学では研究成果を⼀冊にまとめることが就職にあたって重視されているが、これからは変わっていくのか」、と質問をされていました。これに対しては、「⼈社系と⼀⼝に⾔っても、体系性を重視する分野とそうでない分野(単発的な新知⾒が重視される分野)があり、前者では著書が重視されるのではないか」という返答があり、さらに様々な議論が交わされていました。とくに⽬新しい意⾒があったわけではありませんが、テクノロジー(とりわけ翻訳ツール)の進化が現状では無に等しい⽇本語で書かれた研究の国際的な評価にどのように貢献しうるのか、そもそも評価と資源配分との関係はいかにあるべき かなど、活発な意⾒交換が繰り広げられていて、なかなか刺激的でした。さて、肝⼼の中村先⽣のご報告については、とりわけ⼈⽂知共創センターの活動における中村先⽣の卓抜し たリーダーシップに対して、委員の先⽣⽅から⼝々に賛辞が寄せられていたのが印象的で、私も傍聴しながらとても誇らしく感じた次第です。中村先⽣、岩﨑先⽣、鄭先⽣のご尽⼒に感謝するとともに、引き続き部局として⼈⽂知共創センターの活動を⽀援していきたいと 考えています。

「研究科長だより 19」(2024年2月14日発信)

プロジェクトメンバーの伊東剛史先生、平田周先生、中村靖子先生の論文が『現代思想2023年12月号 特集=感情史』に掲載されました

関連サイト:青土社 ||現代思想:現代思想2023年12月号 特集=感情史 (seidosha.co.jp)

🌟伊東剛史先生「ひらかれた感情史のために」pp.26-35

 伊藤先生は、歴史学における、そして歴史学に対する感情史の役割について論じられました。歴史学が構築してきた知識生産のプロセスに私的な感情が入り込む余地を与えることは、史料の批判的読解が感情移入によって侵食されるという危険性を持つ一方で、言論空間において抑圧され、表現されなかった感情へと迫る契機となる。本稿では、こうした感情史の二面性を分析し、感情を歴史叙述のなかにどのように位置づけるべきかを考察されました。

🌟平田周先生「ある「世俗的心理学カテゴリー」が辿り着いたひとつの場所」pp.121-135

 平田先生は、心理学の理論及び実践と、社会との相互作用的な展開という観点から、感情を巡る過去と現在を結びつける枠組みを示されました。まず、イギリスにおける近代化の過程の中で、神学的な概念としての「情念(passion)」や「情感(affection)」に対して、科学的概念としての「感情(emotion)」という心理学的カテゴリーが確立した歴史を概観し、次いで現代の資本主義体制のもとで、心理学が提出した知見が生産活動や日常生活の合理化のための感情を管理する手段として用いられるようになった経緯を分析され、感情に関する歴史的分析が社会の仕組みを考える上で果たす役割を考察されました。

🌟中村靖子先生「言葉と感情、言葉とツール」pp.189-200

 中村先生は第一に、ドイツ語におけるReiz(刺激)という語を巡る生理学の歴史を概観し、神経系が持つ刺激の受容(ネガティブ)と蓄積された興奮の放出(ポジティブ)という2つの原理が、生の根底的な原理として、あるいは感情の基盤として解釈されうることを確認されました。次に、文学作品の言語表現から感情を取り出す試みとして、リルケ『マルテの手記』に対してセンチメント分析を行いました。まず各文のネガティブ、ポジティブ、ニュートラルの確率からなるセンチメントスコアを算出し、そのスコアの推移をテクストから読み取れる主人公マルテの感情の変化と対比することで、マルテが世界からの刺激をどのように受け取り、そうして神経系の内部に蓄積された感情をどのように言語として放出したかのかを考察されました。

 (文責:大阪大学大学院人文学研究科 博士前期課程1 年  葉柳朝佳音 )

2023.12.27 第1班の第3回班別会議

2023年12月27日、名古屋大学人文知共創センター室にて第3回理論班会議が開催されました。

 中村靖子先生は、リルケの小説『マルテの手記』の原文(ドイツ語)に対するセンチメント分析の実践を紹介し、文学作品に対するセンチメント分析の可能性を示されました。この研究をさらに展開させた、鄭先生との共同研究の計画とその進捗についても報告されました。

 鄭弯弯先生は研究の構想として、データを分析する際に有効な変数を抽出する特徴選択の新たなモデルを提案し、解釈性と実用性を向上させること、及び語彙の豊富さの測定に関して語彙の多様性、密度(内容語の割合)、洗練性(高度な単語)という三つの尺度を包括する新しい指標を構築することなどを示されました。また、センチメント分析の実践として、景気の善し悪しについての公式スコア(人間による評価)と、既存のLLMモデル及び新たに作成したモデルによるセンチメントスコアを比較した研究について報告されました。

 鈴木麗璽先生は、日本シリーズ阪神オリックス戦期間におけるSNS上のポストのポジティブ・ネガティブの度合いをセンチメント分析によって数値化し、さらにChatGPTとMusicGenを用いた楽曲生成によってそれを可聴化した実践について報告されました。関連して、大規模言語モデルを用いて自然言語表現と行動戦略を結びつけることで、人間の行動の根底にある性格や嗜好のような、数理モデルで直接扱うことの難しい複雑で高次な特徴をモデルに組み込むアプローチや、文化的な形質やその進化の表現に生成モデルを利用する試みについて発表されました。

 大平健太先生、大平徹先生は、自己フィードバックの遅れにともなう共鳴現象を表現する遅れ微分方程式を提案し、その解の挙動について紹介されました。また、捕食のモデルを表すロトカ・ボルテラ方程式を例に、時計を表す関数が含まれないにも関わらず捕食者(山猫)と被捕食者(うさぎ)の個体数に増減の周期が生じることを示した上で、そこに時間や遅れを導入して両者の相互作用を表現する試みについて紹介して頂きました。

 金信行先生は、イギリスの理論物理学者ホーキングを中心とした知識生産のプロセスを分析したH. ミアレの論文『ホーキング Inc.』を紹介されました。知識生産に関わるアクターを明らかにすることで、AI技術が問い直す人間の役割について検討するとともに、科学における知識生産のプロセスを相対化してきたSTSにいてANTがどのような役割を果たしうるかについて議論されました。

 田村哲樹先生は、情報化社会において、民主主義はいかなる意味で「民主主義」であり続けられるのか、その可能性について論じられました。人工知能民主主義というアイデアを取り上げ、権威主義の危険性及び人間排除の志向性という観点からの批判を受け止めつつ、包括性・代表制・決定性という三つの要素に注目してその民主主義的・非民主主義的性質を分析されました。

 平田周先生は、神学的な概念としての情熱(passion)に対する、科学的概念としての感情(emotion)という語の確立に注目し、感情概念と社会との相互作用的な展開を分析されました。また、現代のフランスにおける感情に関する研究の動向について報告され、アフリカのアニミズムから人間と地球の関係を探求したAchille mbembeの論文 “La communauté terrestre”を紹介されました。

 第3回の会議では、第2回の会議で共有された知見をもとに、そこから分野間の連携をさらに強めるかたちで研究が展開されてきたことが確認されました。それぞれの報告の後の質疑応答では、より具体的で活発な共同研究の構想について議論が行われました。

(文責:大阪大学 人文学研究科 博士前期課程1年  葉柳朝佳音)

2023.11.24 第5回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

共催:「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」発表報告

🌟発表題目:『ムッシュー・アンチピリンの宣言―ダダ宣言集』を読む――「ダダの詩を作るために」をめぐって

(1)発表内容のまとめ

 2023年11月24日の発表では、トリスタン・ツァラ『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』を対象に、「ヒト・動植物・機械・モノ・自然」の境界が揺らぐ時代に誰がどのように詩を作るのかという問いについて考えました。本発表では特に、『かよわい愛とほろにがい愛についてDADAが宣言する』という宣言に収録されている「ダダの詩を作るために」という詩を作るためのプロトコルに焦点をあてました。そして、人間による詩作と生成AIによる詩作を比較するという目的のもと、参加者一人ひとりが詩や言葉について思いめぐらす機会となることを目指しました。

 発表の前半部では、まず、Googleが提供する“Verse by Verse”という生成AIを活用して詩を作るウェブアプリやChat GPTによって作られた詩を紹介しました。私たちが多かれ少なかれ「詩とは何か」を知っているのと同様、生成AIもまた「定型詩」「散文詩」「コンクリート・ポエトリー」といった詩の形式やジャンル、および様々な詩人たちの文体を知っており、文学史の中に蓄積された詩の条件を踏まえながら詩が作られるという点を指摘しました。これに対して、ツァラの提案する「ダダの詩を作るために」の作詩法とは、選んだ言葉を偶然に任せて並べることで詩を作る方法で、統語法や文法が破綻する詩句が生まれる傾向にありました。したがって、私たちや生成AIが思い描く詩とは異なり、秩序のない詩が出来上がります。「価格それは昨日適当でそれから絵画/夢を評価すること眼の時代/絢爛豪華にそらんじてみせようか福音書ジャンルがあいまいになる/集めろ絶頂期想像することと彼は言う宿命色彩の力」(76-77頁)という発表内で取り上げた詩の抜粋からも、その混沌とした言語がうかがえるでしょう。

 こうしたツァラの作詩法は、「否定性」や「説明不可能性」を特徴とするダダの諸宣言と関連しています。だからこそ、まったく意味がなく、理解することのできないデタラメな詩こそがツァラの推奨する詩なのだと、一見すると思われます。しかしながら、ツァラ自身が「ダダの詩を作るために」の作詩法の中で「君によく似た詩ができあがるだろう」と書いているように、文法や統語法を逸脱し意味と概念の混乱を経てなお、滲み出る「私」が詩に現れるという点を本発表では指摘しました。この点に関しては、プリミティヴなものへの関心、「思考は口の中でつくられる」という宣言中の一文に基づく言葉の身振りや響きの探求、そして「詩=生」という考えの三点を例として取り上げ、混沌としたツァラの詩のなかに現れるツァラらしさを読み取りました。

 以上を踏まえ、ツァラの言う詩とは、何かを否定し破壊することで作り上げられた荒唐無稽なものではなく、自分自身の生き方に接近する方法なのだとまとめました。したがって、発表の冒頭で確認した、あるジャンルや形式のようだから、ある詩人の文体に似ているから、といった別の作品との類似を条件としてある作品を詩とするのではなく、その言葉のどこに「私」があるのかを問うことこそ重要な点であると指摘しました。(ツァラ自身が1919年の「詩に関するノート」で類似を退けています)

 上記のツァラの詩学を踏まえ、発表の後半部では参加型企画として、生成AIを用いながら参加者と共にダダの詩を作ることに挑戦しました。まず、文章の書かれたもの(本、新聞紙、ちらし、公的書類、漫画等)を三つ準備し、その中で真っ先に目にとまった言葉や文章をメモしながら、「ダダの詩を作るために」に基づく詩作を参加者と共に擬似的に体験しました。次に、同じ言葉や文章を用いて生成AIに詩を作ってもらい、先の詩と内容を比較しました。

 前者の詩では、偶然によって選ばれた言葉が無秩序に並べられることで突飛なイメージが展開される一方で、そこにどのように自分らしさが現れうるのかを参加者と共に考えました。それに対して後者の生成AIが作る詩は、選ばれた言葉から類推される言葉を補うという性質上、統語論的に不自然さの少ない長い詩句へと向かう傾向や、詩的であるとみなされがちな言葉(歌、奏でる、希望など)が多用される傾向が確認されました。それと同時に、カタカナで入力された語彙が反復されることで特定のイメージが強調されるなど、新たな発見がありました。

(2)フィードバックについての省察

 参加者の方々からのフィードバックから、たくさんの気づきが得られました。この場を借りて、御礼申し上げます。

 いただいたご感想やご質問は、大きく(A)詩の定義に関わるもの(B)ツァラやダダの歴史に関するものの二つに分類できますので、それぞれお答えいたします。

(A)詩の定義に関わるご感想とご質問

 「ダダの詩を作るために」という一種の規則を破る作詩法を取り上げた今回の発表を通じて、多くの参加者が「詩とは何か」という問いについて考えてくださったようで大変嬉しく思いました。

 まず、「ツァラの詩は韻を踏んでいるのか」、「韻がなかったり、定型詩でないのに「詩」と自認しているのはなぜか」という内容のコメントが寄せられました。ツァラの詩は、脚韻を踏まないことがほとんどです。しかしながらこれは、フランス詩の歴史において珍しいことではありません。なぜなら、19世紀になると脚韻や定型に依存しない散文詩や自由詩の実践が多くなるからです。具体的な実践者として、シャルル・ボードレール、アルチュール・ランボー、ジュール・ラフォルグなどの詩人の名前が挙げられます。ツァラはルーマニア出身で母国語はルーマニア語ですが、幼少期からフランス語も勉強しており、このフランス詩の流れからも強く影響を受けています。したがって、ツァラの詩とは、この散文詩や自由詩の系譜に位置づけることができると発表者は考えています。事実ツァラは、自由詩はもちろん、散文詩も書いています。

 ところで、ある詩が詩であるとそれまで定めてきた規則が効力を持たなくなったとした ら、何をもって詩と言えるのでしょうか。脚韻や形式を根拠にできない以上、それはもはや容易ではないですし、散文詩や自由詩を定義づけることが困難であることをも示しています。散文で「詩的」に書かれていれば詩なのでしょうか――あるものは小説に分類されるでしょう。同様に、改行をしていれば必ず詩であるというわけでもないでしょう――もしそうであるなら、極端な話、箇条書きや料理レシピも詩に分類されるからです。

 それでは、何もかもが詩なのでしょうか。「ツァラが、詩ではないと言うような詩はあるのでしょうか」、「本書85頁に「ダダ/アイディア開発のための株式会社」とありますが、詩の量産方法でしょうか」というコメントを参加者の方からいただきましたが、たしかに、ツァラにとっての詩とは「書かれた詩」に限りませんし、19世紀フランスの詩人イジドール・デュカス(ロートレアモン)の「詩は万人によってつくられねばならない」という言葉を強く意識している点から、彼は詩の拡大を狙っていたと言えます。一方で、一切合切を詩として受け入れることに抵抗を示しています。なぜならツァラは、「詩の状況に関する試論」(1931年)の中で、小説と見かけの形式によってしか区別されない詩や、思想や感情を表現する詩はもはや誰の興味もひかない、と書いており、「表現手段としての詩」と「精神活動としての詩」を区別しているからです。前者は考えや意見を伝えるもので、後者ははっきりとした筋のないイメージの連続、あえてこう言えば、夢のようなものです。ツァラはこうした区分を用いて古典主義からロマン主義(そしてシュルレアリスム)へと至る詩の歴史を辿るのですが、そこで強調しているのは、詩は表現手段としてだけではなく、言葉で表しがたいもののためにも働くという点です。

 興味深いのは、ツァラは形式(脚韻や定型詩に必要な音節)が整えられ人に受け入れられやすい内容をつ詩の方ではなく、言い表せなかったり説明できなかったりする詩の方の味方をするという点です。こうした詩には、必ずしも明快な言葉でなくとも、口から放たれた理由があります。その理由とは、ある行動やある出来事に結びつくものです。それゆえ、言葉以前に詩があることを強調したからこそ、ツァラは「詩とは生き方である」という考えに至り、詩を再定義しようとしたのだと思います。そして、そのような詩が可能になるために、社会変革が求められるとツァラは言うのです。

 ツァラはこの考えを押し進め、「潜在的な詩と表示的な詩」(1945年)という文章を発表しています。そこで書かれているのは、詩とは、一篇の書かれた詩になるより先に、どこにでもある「感情、物事の質、存在の条件」であるということです。この状態の詩は「潜在的な詩」と呼ばれ、この「潜在的な詩」を「表示的な詩」として客観化する必要があるとツァラは語っています。つまり、自分が何を感じ、どのように生きているのかという事実に迫ることが詩の本質であり、学校教育や社会が課す制約とは異なる個人的な動機に基づく行為が詩となるのです。

 したがって、ツァラの詩学に則って詩とは何かという質問に答えるならば、言葉になっていなくとも詩の主体の生が滲み出るもの、ということになるでしょう。そして、その生にアプローチするために、詩における主観的なものの現れ方や、「私」の現れ方に向き合う必要があると発表者は考えております。

 「詩とは何か」という点に関して、ツァラやフランスを越え、日本の現代詩に目を向けながら質問してくださる方もいらっしゃいました。「日本の現代詩には基本的に脚韻がなく、定型詩でもないが、何をもって詩というのか」とのことですが、おっしゃるとおり日本の近現代詩にもまた、文語か口語か、定型か非定型かといった調子や雰囲気によって定義できない多様性があると思います。西脇順三郎は、詩とは「つまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法」(『超現実主義詩論』)であると述べ、萩原朔太郎は「主観的態度によって認識されたる、宇宙の一切の存在である」(『詩の原理』)と述べています。こうした詩論により、もっとその詩人らしい詩の構成要素(意味、イメージ、韻律など)を作品の中に反映するという地平が開かれたのは間違いないように思われます。「詩とは何か」という問いを立てることが可能になった時代を生きる私たちは、それぞれの詩人が主張した詩論を読み比べながら、少しずつ詩について明らかにしていくのでしょう。

 「生成AIの作品を「詩」と認める要因、つまり「詩らしい体裁」とは何でしょうか」という参加者からのコメントについて、以上を踏まえて考えてみると、「詩らしい体裁」にこだわらずとも、生成AI自身の生を読み取ることができれば、その作品を詩と呼ぶことができるのだと考えます。そして、そこに生を読み取るためには、彼らの生き方や、作品が成立するに至った状況を深く知ることが求められると思います。

(B)ツァラやダダの歴史に関するご感想とご質問

 ツァラやダダの歴史に関するコメントについて、以下、お答えいたします。

・「先に詩作があってそれから宣言を出したのでしょうか。宣言を出してから宣言に則って作詩をはじめたのでしょうか。」

 これは重要なのですが、ツァラはダダの開始(1916年)以前からルーマニア語で詩を書いておりました。そのため、ダダの諸宣言より先に詩作があったのは間違いありません。ただし、ルーマニア時代の詩とダダの詩を読み比べると受ける印象がずいぶん違いますので、ご関心があればぜひ読んでみてください。ツァラのルーマニア語詩篇のいくつかは、浜田明『トリスタン・ツァラの夢の詩学 』(思潮社、1999年)、大平具彦『トリスタン・ツァラ―言葉の四次元への越境者』(現代企画室、1999年)内に日本語訳が掲載されています。

・「スイスでその人と知らずレーニンと出会ったことが、後の政治への接近・参加と何らかの関係があるのでしょうか。」

 ツァラの政治への接近は、1930年代のフランス共産党の活動やナチの台頭との関係が深く、1936年に始まるスペイン内戦や、第二次世界大戦にもコミットしています。また、マルクス主義が彼の思考に影響を与えたと言われています。

・「新聞『萬朝報』のダダ紹介記事はどのようにして読むことができるのでしょうか。」

 ダダは、『萬朝報』の1920年8月15日号掲載の記事で初めて日本に紹介されたと言われています。こちらの記事に関しては、国立国会図書館等の図書館で資料を閲覧する他、中野嘉一『前衛詩運動史の研究』(新生社、1975年)に複製が掲載されているので、ぜひご覧ください。

 読書会は、発表者自身にとってもツァラの詩学についてあらためて考える実り多い時間でした。発表内で行った詩の朗読を好意的に受け取ってくださった方も少なくなく、またみなさまとツァラの詩を一緒に読む機会を今から待ち遠しく思います。

 ご参加いただいた方々をはじめ、ご運営いただいた南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さん、コメンテーターを務めていただいた森田俊吾さん、そして共催の「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」、みなさまに改めて感謝申し上げます。