2026.2.9 国際シンポジウム 「記号 AND 認知」 ー SIGN AND COGNITIONー

2026年2月9日長崎大学総合教育研究棟33番講義室にて国際シンポジウム「記号 AND 認知」が開催された。

 Mario Verdicchio先生は「言語の基礎:意味論、記号、と記号接地」と題し、記号接地問題と、それが言語、人工知能、哲学における意味理解に及ぼす影響を探求した。分析哲学、記号論、認知神経科学、AIの伝統を受け継ぎながら、記号がいかにして単なる形式的構造ではなく意味論的内容を持つようになるのかを検討した。議論の中心となるのは、ジョン・サールの「中国語の部屋」の思考実験であり、これは統語論的な記号操作と真の意味論的理解との区別を示すものであった。批判者たちは、この実験が完全なルールブックという非現実的な仮定に依拠していると主張するが、この反論は最終的にサールの主張を補強することになる。すなわち、自然言語は有限のルールに基づく体系によってシステム化することができず、意味の計算モデルには限界があることを示唆している。続いて生成AIを取り上げ、その柔軟性と見かけ上の創造性にもかかわらず、それは物理的にも機能的にも従来のソフトウェアと連続しており、数値的・論理的操作に基づいているに過ぎないことを指摘した。曖昧性(「山」という概念)や論理的推論(モーダスポネンス)といった例を通じて、意味が完全な形式化に抵抗することを論じた。その結果、AIは意味の基盤を説明するには適しておらず、この問題は哲学的・認知的アプローチの方が有効である可能性が示唆された。

 Abdurrahman Gülbeyaz先生は「言語的記号アーセナルの定量化:言語レパートリーの理論的基礎づけに向けたモデル」と題し、個人の言語レパートリーを測定可能とする記号中心モデルを紹介した。生涯にわたる脳の可塑性を前提とし、日常的な「ランゲージング(言語使用)」を、高密度な環境入力として捉えることで、認知予備力の形成に寄与しうるものと位置づけた。この点は、認知加齢、認知機能低下、さらには認知症との関連においても重要である。
 本アプローチは、特定の「言語」を数える代わりに、運用可能な言語的記号に焦点を当てる。「言語」は主に制度的なラベルと見なされる一方、レパートリーは脳-環境インターフェースにおける内的に構造化された単一の記号インベントリとしてモデル化さる。「ドイツ語」や「トルコ語」といったラベルは、データ収集のための実用的な指標としてのみ用いられる。
 完全なインベントリの作成は不可能であるため、レパートリーはモデリング、特に価数(概念を表現できる形式的変異の数)を通じて定量化され、価数分布プロファイルが生成される。抽出手続きでは20の核となる名詞と5段階の習熟度尺度を用い、単純な計数ではなくレパートリーの構造を捉える連続的な言語レパートリー指数(lr)を算出する。
 全体として、この枠組みは理論と測定を結びつける。また、日常的な言語実践とその基盤となる記号目録を強化することで認知機能低下の緩衝を目的とした、言語ベースの予防・介入を支援することを論する

 中村靖子先生と鄭弯弯先生の発表「書き取りシステムの変容ー言語と機器の〈共進化〉ー」(題目変更)では、書き取りシステムの変容を「言語と機器の共進化」という観点から理論的に再定位した。ブルデューのハビトゥス概念を手がかりに、社会的構造が身体化された実践として安定化される過程を確認し、フリードリヒ・キトラー『書き取りシステム1800・1900』を参照しつつ、教育的書記体制から技術的・機械的記録体制への転換を論じた。1800年システムは読み書き能力を社会的成功の条件としたが、その規範から逸脱する主体を包摂しなかった。過渡期に位置するシュレーバー父子の事例は、「美」に向けた身体矯正と装置が主体形成に介入する具体例である。こうした教育的矯正が思想の内部構造にいかに刻印されるのかを検証するため、BERTopicによるフロイト著作コーパス分析を行い、語彙的クラスタの時期的偏在と思想内部の断層を可視化した。さらにスローターダイクの人間技法論をダマシオのホメオスタシス論に接続することで、書き取りシステムを人間の自己形成的修練の装置として捉え直すと同時に、その修練が機器の開発とともに共進化し、社会的に安定化された身体化の構造として新たなハビトゥスを形成しながらも、つねに何かをこぼれ落とす動態であることを示した。

 大平英樹先生は「予測的処理に基づく主観的経験の創発」をテーマに発表した。近年の認知神経科学において優勢な予測的処理の理論では、脳は受動的な器官ではなく、外界や自己自身からの信号を予測し、実際の信号との予測誤差を最小化することによって能動的に経験を創り上げていると説明した。この主張は、知覚や運動の領域では多くの実証的証拠が提示されており、近年では、身体内部の感覚である内受容感覚も同様な原理により機能していることが示唆されている。この考え方が正しければ脳内には常に多くの予測誤差が生じていることになる。脳は、全ての領域の予測誤差を階層的な構造と精度の重みづけを柔軟に変更することにより、整合的で連続的な経験を創発し維持していると考えられる。さらに、こうした個人内の予測的処理は、集合的予測符号化により言語のような記号を介して複数他者の間で共有され、維持され、かつダイナミックに変容されていく。こうした原理を想定することで人間や社会の姿を統一的に説明できる可能性があり、この原理をより精緻に検討する必要性が指摘された。

 上野大介先生は、「認知予備能を規定する要因の統合的整理」と題した講演において、認知的加齢における認知予備能の規定因子を整理する統合的枠組みを提示するとともに、多言語使用および大規模言語モデル(LLMs)という二つの新たな観点を加えた。近年の予備力概念の整理を踏まえ、本枠組みでは、脳予備能力(構造的容量)、認知予備能(効率性・代償・柔軟性による適応的処理)、および脳メンテナンス(神経生物学的変化の遅延または軽減)を区別するとともに、予備力を病理と臨床症状との関連を弱める調整因子として位置づけている。
 続いて、教育、職業の複雑性、認知的・社会的に刺激的な活動、身体活動といった一般的に用いられる代理指標について概観し、交絡や逆因果の可能性により、これらの代理指標は因果的メカニズムと同一ではないことを強調した。これに対処するため、「要因」からメカニズムへの変換段階(例:教育→語彙/抽象化/学習習慣→より効率的かつ代償的な処理)を提案し、各決定要因を主として脳予備力、脳メンテナンス、認知予備能のいずれに寄与するかに基づいて分類した。
 次に、多言語使用が認知予備能に寄与しうる要因として検討された。多言語経験は言語制御(抑制/切り替え)や意味処理を強化する可能性がある一方で、その効果に関するエビデンスは一貫しておらず、習熟度、使用頻度、言語間距離、コードスイッチングといった境界条件に強く依存しているとともに、移住や社会経済的地位などの交絡要因の影響も受けている可能性が指摘された。
 最後に、LLMが認知的刺激(複雑性の増大)、社会的つながりの支援、日常機能に対する代償の提供という三つの仮定された経路を通じて認知予備力に寄与しうるかが検討された。その効果はいずれも、過度の信頼、依存、誤情報の回避を条件とするものであり、今後は高齢者における較正された信頼(calibrated trust)の設計および測定、特に対面、遠隔、チャットボット媒介の各文脈において検討を進める必要があると論じられた。本発表は、LLMを用いた介入が主として刺激として機能するのか、あるいは代償として機能するのか、較正された信頼をどのように操作的に定義すべきか、さらに多言語経験がLLM利用の影響を調整するかといった論点に関する討議をもって締めくくられた。

 山本哲也先生は「生成AI・拡張表現がもたらす「記号」と「認知」の再編ーデジタル身体表現とウェルビーイング」と題して講演を行い、生成AIやAR/VR、ロボットなどの拡張表現技術が、「記号」と「認知」の関係をいかに再編しうるかについて、デジタル身体表現とウェルビーイングの観点から検討した。ここでいう記号とは、言語に限定されるものではなく、身体動作、声、光、人工物が帯びる他者性など、受け手の注意・情動・解釈を方向づける知覚可能な手がかりを指す。生成AIや拡張現実技術は、記号を固定的な意味伝達の媒体から、相互作用性・身体性・連続性を通じて認知状態を動かす「調整の手がかり」へと変容させる可能性を有していると論議事録
 主な実践例として、プロジェクションマッピングやAR技術を用いた身体拡張的演出が、高い没入感と情動喚起をもたらすことを示した。さらに、生成AIとの継続的対話が抑うつの軽減や自尊心の向上と関連する可能性を示すデータを提示し、情緒的結びつきの形成についても検討した。
 以上の知見を踏まえ、拡張された記号が身体を介して認知状態を動かし、新たな心理的支援や研究方法を創出する可能性を論じるとともに、安全性・倫理的課題についても展望した。

小澤寛樹先生は、「東西精神療法の邂逅:内観療法と意味の再構成」と題し、アルコール依存症の症例経験を背景として、内観療法を「意味の重み付け(salience/attention)の再配分を通じて自己物語を更新する介入」と位置づけ、そのメカニズムを東西心理療法の架橋として論じた。内観療法は、特定他者に対して①してもらったこと②して返したこと③迷惑をかけたこと、という限定された問いを、解釈を加えず反復想起させることで、曖昧な自己理解を“構造化された内省課題”へ変換する。神経認知モデルとしては、過去参照を担うDMN、認知制御のCEN、両者の切替を担うSNの相互作用に注目し、内受容感覚・情動反応を伴う「気づき」が、SNを介したネットワーク再編と、予測処理における精度(precision)・注意配分の更新として生じうることを提案する。さらに、統合失調症などでサリエンス過活動が想定される状況では、意味の“筒抜け化”が増悪因子となりうるため、適応判断と保護的環境下での実施が重要である。以上より、内観療法は東洋的修練の形式を保ちつつ、注意・精度・物語更新という普遍的プロセスとして再記述可能であり、CBTやマインドフルネスと補完的に統合されうる枠組みを示した。

葉柳和則先生は「労働力と人間のあいだ:マックス・フリッシュの講演「よそもの過剰 II」における記号の二重性をめぐって」というタイトルで講演を行った。フリッシュの言葉で最もよく知られているのは、散文「よそもの過剰(Überfremdung)I」の冒頭に含まれる「私たちは労働力を呼び寄せたのだが、やって来たのは人間だ」である。だが、同じ文の前半には、「ある小さな国の支配民族(Herrenvolk)が危機に陥ったことに気づく」と書かれている。この前半部を含む文全体が、移民研究の言説において引用される例は見当たらない。本報告は、フリッシュがスイス市民を指し示すために、Herrenvolkという記号を用いた理由を、記号Überfremdungのコノテーションの変化をたどることで明らかにした。Herrenvolk はナチスの語彙であり、その文脈では、アーリア人以外のfremd(異質)な諸集団がKnecht(奴隷)と位置づけられ、ユダヤ人はその最下層に置かれた。だが戦後のドイツ語圏では、fremdな存在は主として「外国人労働者」を指す語となっていく。つまり、フリッシュが「よそもの過剰」論においてHerrenvolkをあえて用いたのは、スイス市民がナチスと共有していた「よそもの排除」のメンタリティを、Überfremdungのコノテーションが、ユダヤ人の過剰から外国人労働者の過剰へと推移する歴史的重層性のうちに捉え返そうとしたからである、と論じた。

【シンポジウム 参加者リスト(発表順)】
– Mario Verdicchio, University of Bergamo
– Abdurrahman GÜLBEYAZ, Nagasaki University
– Yasuko NAKAMURA, Nagoya University
– Wanwan ZHENG, Nagoya University
– Hideki Ohira, Nagoya University
– Daisuke UENO, Kyoto Women’s University
– Tetsuya YAMAMOTO, Tokushima University
– Hiroki OZAWA, Nagasaki University
– Kazunori HAYANAGI, Nagasaki University


第12回案内

🌟開催日時:2026年2月13日(金)20:00〜22:30
🌟講師:芦部美和子 (大学非常勤講師、ナン・シェパードを含むイギリスの山岳文学研究者)
🌟テキスト:ナン・シェパード 『いきている山』 芦部美和子・ 佐藤泰人訳、みすず書房、2022年
🌟お問い合わせ先:workshop.stephens[at]gmail.com ([at]を@に置き換えください)

2025.12.21 理論班第7回会議

中村靖子先生は、ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu, 1930-2002)のハビトゥス概念を理解する上で、人間の精神活動における言語の役割に着目し、この観点からメディア技術の変容が人間の精神に与えた影響について分析し報告した。フリードリヒ・キトラー(Friedrich Kittler, 1943-2011)によれば、1900年の、タイプライターや蓄音機などのメディアを用いた書き取りシステムは、訓練を通じた文字の身体化というフィードバック回路を断ち切り、書き取られたものと身体との間の統合を不可能にしたという。このようなキトラーのメディア論を軸に、ペーター・スローターダイク(Peter Sloterdijk, 1947-)の「人間技法(Anthropotechniken)」(人間を人間たらしめる修練)の概念、および、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)とルー・ザロメ(Lou  Salomé, 1861-1937)の書簡における、未分化な思考や経験と、分析によるその構造化とのせめぎ合いに関する議論について紹介し、統合的な人間の人格がどのようにして形成されるのかを論じた。

 鈴木麗璽先生は、大規模言語モデル(LLM)を用いた言葉の進化生態モデルに、エージェントによる環境改変の概念を導入する試みについて現在までの研究成果と課題を報告した。従来のLLMを用いた言語の進化生態モデルが、エージェント間での競合のみを扱っていたのに対し、今回紹介されたモデルでは、適応地形(環境に対する生物の適応度の高さの分布)の概念が導入された。このモデルでは、エージェントが自らの生存環境に情報を書き込んでいく。それにより、次世代の適応度にフィードバックされる動的な相互作用が構築される。このような環境改変の導入は、一時的には種の多様性の維持に貢献するが、最終的には正のフィードバックにより強い収束傾向が生じることが明らかになった。この結果を踏まえ今後は、特定の種による独占と停滞を回避し、種が次々と入れ替わりながら多様性を維持し続ける「オープンエンドな進化」のモデル化を目指すという構想が示された。

 大平健太先生は、非自励系遅れ微分方程式の厳密解の導出に関するこれまでの研究成果について報告した。この研究では、時間係数を含む遅れ微分方程式にフーリエ変換および逆変換を施すことで、無限積分の形で一般解を導出した。さらに解の形を予想して代入することで、積分形式よりも性質が把握しやすいガウシアンの無限級数形式による厳密解を得ることに成功した。今後は、本手法をより一般的な遅れ微分方程式へ適用していくことが課題である。また大平徹先生の研究成果として、サウジアラビアKAUSTからの招待講演(10/24-11/3)や、長崎大学グローバルリスク研究センター客員としての国際シンポジウム「リスクと国際社会」(12/9)での報告などを始めとする国内外での研究発表の内容を紹介しつつ、数理生物学、量子力学、リスク研究など、多角的な研究展開の成果と構想について説明した(報告は大平健太先生の代理による)。

 ⾦信⾏先生は、ミシェル・カロン(Michel Callon, 1945-2025)の議論に端を発する、経済社会学におけるアクターネットワーク理論(ANT)の展開について報告した。特に遂行性(経済事象の分析において経済学的知識や計算装置が経済事象を構成する作⽤)と、経済化(社会科学者や市場アクターが、社会的な事象を経済的なものとして枠付け、記述するプロセス)という二つの概念を軸として、市場を人間と非人間のアクターが複雑に絡み合う「社会技術的な配置(アジャンスマン)」として捉える視座を提示した。このような観点から、現代における具体例として、暗号資産やNFTの事例を通じ、開発者の理想的な想定とユーザーによる現実的な投資実践との乖離が具体的に論じられた。今後の展開としては、ブロックチェーンの社会実装において、理想(非中央集権)と現実(権力の偏り)の乖離をANTの枠組みを用いて調査・分析し、その結果を開発現場へフィードバックすることで、現場と協働する介入的実践につなげていくという構想を示した。

 平田周先生は、まず、都市の領域を地理的な境界線によって限定せず、遠隔地の資源開発や物流網、さらにはそれらに付随して起こる環境破壊までもが、都市を存続させるための不可欠なプロセスとして地球全体に広がっている状態を指す「プラネタリー・アーバニゼーション」というニール・ブレナー(Neil Brenner, 1969)の概念を紹介した。これに関連して、生態学者リチャード・レヴィンスの知見を用い、資本主義的な開発が感染症の発生をもたらす生態学的・社会的メカニズムを論じた。加えて、発表者が翻訳に携わったアシル・ンベンベ(Achille Mbembe, 1957-)の著書『地球共同体』(2023)をもとに、従来のポスト植民地論の限界(差異の強調による分断)を乗り越え、人間とノン・ヒューマン(生物・非生物)が共に生きる「共通の世界」をいかに創造するかを説いたンベンベの思想を紹介した。最後にこうしたブレナー、レヴィンス、ンベンベらの議論を交差させつつ、ラトゥールのANTを一つの重要な軸として、地球規模の連帯の可能性について考察を進めていくという構想が示された。

 質疑応答では、アクターネットワーク理論が示すアクター間の相互作用の多層性を、言語進化モデルの環境のパラメーターの多元性によってシミュレートする試みなど、アクターネットワーク理論を軸として各分野を横断する共同研究の構想について議論がなされた。大平英樹先生は、大平健太氏の非自励系遅れ微分方程式を、システム間での信号伝達の遅れを伴う内受容感覚のモデル化に応用する試みについて研究成果を共有した。

(文責: 大阪大学人文学研究科 博士後期課程1年  葉柳朝佳音)

2025.08.26-27 第7回全体集会

2025.8.26-27 2025年度全体研究集会(夏)

2022年11月1日に人文知共創センターが設立され、今年で4年目を迎えます。日本学術振興会に採択された当プロジェクトは多くの活動実績が認められ、2024年度の中間評価では高評価をいただきました。その実績をまとめたパンフレットを公開いたしましたので、ぜひご覧ください。

人文知共創センター2024年度パンフレット

 本研究集会では、特別講演のゲストとして、島根県立大学の村井重樹先生、神奈川工科大学の小田切祐詞先生にお越しいただきました。当センター第1班、北陸大学の金信行先生のお声がけにより実現し、それぞれ、「セッション2:ハビトゥスの社会的基盤とその社会学的応用可能性―ポスト・ブルデュー社会学を見据えて」、「セッション4:プラグマティック社会学と構築主義」のテーマでご講演いただきました。さらに、第1班、大平英樹先生の繋がりにより、フィレンツェ大学からEmanuele Castano先生に駆けつけていただき、「セッション3:Beyond Genes and Parents: The Effects of Cultural Products on Human Psychology」のテーマでご講演いただきました。プロジェクトの成果が、メンバーの繋がりによって支えられていることを象徴するようなプログラム構成となりました。

以下は一部とはなりますが、Castano先生のご講演について報告します。

●Emanuele Castano先生 「Beyond Genes and Parents: The Effects of Cultural Products on Human Psychology」

「相手はいったい、何を考えているんだろう?」

 言葉、表情、仕草、それまでの文脈など、あらゆる情報を頼りに私たちは意思疎通を図り、コミュニケーションを行います。集団生活を営むために必要不可欠な能力ですが、いろんな経験を積みながら私たちは少しずつ身に着けていきます。それでは具体的に、いったい何に影響を受けながら私たちは能力を発達させているのでしょうか。

“Fiction is a gym for social cognition”

 Castano先生が取り組むこの研究アイデアは、この問いに一つのヒントを与えてくれるかもしれません。「Fiction」にも様々なものがありますが、その一つとして小説が挙げられます。さらに、小説を文学小説と大衆小説に分けましょう。実証研究において、文学小説をよく読む人と、大衆小説をよく読む人では、「Reading the Mind in the Eyes Test」をはじめとするいくつかの検証を通して、前者の方が他者の心的状態を推測する能力が高いという結果が出ました。文学小説では、大衆小説に比べて登場人物同士の複雑な関係性や、それぞれの心理描写を細かく描く傾向があります。確かに読みごたえがあり、手に取るハードルは高いかもしれませんが、他者心理の推測能力を鍛える“gym”となっているのかもしれません。

 ここで注意が必要なのは、この研究が文学小説と大衆小説の優劣を決めるものではないということです。大衆小説も、既知の表現や定型的な物語構造を通して共感や安心感を生み出す効果があり、大切な文学の一つであることも強調されました。

(文責・綾塚達郎)

2025.08.26-27 第7回全体集会:セッション4

講演:小田切祐詞(神奈川工科大学)

小田切祐詞先生の講演「プラグマティック社会学と構築主義」では、ブルデューの社会学との分岐を手がかりに、ポスト・ブルデューの論客であるリュック・ボルタンスキー(Luc Boltanski, 1940-)のプラグマティック社会学と構築主義の関係が論じられた。ブルデューの理論は、行為者を社会構造の隠れた諸力によって規定される存在として描き出し、その背後の力を暴露することに力点を置く。それに対し、ボルタンスキーのプラグマティック社会学は、行為者を行為そのものから定義し、当事者の実践的関与を重視する点に特徴がある。

 ボルタンスキーの著作『胎児の条件』(2004)では、胎児が、妊娠によって女性の身体の中に生じる物質的な存在、すなわち「肉として」生まれるだけでなく、かけがえのない存在として「言葉によって」承認されることによって、初めて社会の中で固有の地位を持った人間となることが示される。胎児は、出産あるいは中絶へと至るプロセスにおいて、「赤ちゃん」として人称化されたり、「それ」という指示代名詞で示されることで非人称化されたりする場合がある。しかし、胎児が妊婦に与える身体的な感覚は、胎児が「赤ちゃん」として構築される場合にも「それ」と呼ばれる場合にも、「基本的に同じもの」として感受される。このような、恣意的なカテゴリー分けに従わない身体的触発は、胎児を差別する以外の仕方で中絶を正統化することを妊婦に要請する。道徳哲学による中絶の正当化には、胎児と人を区別する実在論的アプローチや、妊婦の胎児に対する道徳的義務を否定する関係論的アプローチ、「出産」や「人」の表象が「社会的に構築されたもの」であることを示そうとする脱構築主義的アプローチなどがある。それに対しボルタンスキーは、ケアの倫理と現象学の視点から、中絶の正当化をめぐる議論においてしばしば忘れられてきた、胎児と両義的な関係を取り結ぶ女性の経験から出発すべきだと主張する。

 ボルタンスキーと並び、プラグマティック社会学の発展に寄与した社会学者シリル・ルミュー(Cyril Lemieux, 1957–)は、構築主義を「反自然主義」とみなす難しさや、自然主義を排した社会学が陥る限界を指摘したうえで、プラグマティック社会学の特徴の一つを、恣意的なカテゴリー分けによって無化することのできない世界の物質性が示す「抵抗」を重視する点に見た。プラグマティック社会学は、単なる構築主義でも、一切のカテゴリー分けを否定する自然主義(素朴実在論)への回帰でもなく、構築主義の論理を限界まで押し進め、その限界にある物質性の問題を「抵抗の原理」として理論的に取り上げようとする「反省的構築主義」である。恣意的なカテゴリー分けに抵抗する契機を女性の身体経験の中に見て取った『胎児の条件』は、「反省的構築主義」の一つの実践として理解することができる。

質疑応答(コメンテーター:平田周先生、田村哲樹先生)

 平田先生は、フランスにおける中絶をめぐる歴史的文脈(1975年の合法化など)をまとめた上で、ボルタンスキーの議論(特に『胎児の条件』)がフランスのフェミニストに理論的・政治的に与えた影響について質問した。さらに、本プロジェクトのメインテーマである、ラトゥールのアクターネットワーク理論とブルデューのハビトゥス概念の接続という観点から、ボルタンスキーのプラグマティック社会学をどう位置付けるべきかという問題を提起した。

 この問題に関して小田切先生は、ボルタンスキーの議論はフェミニスト理論にさまざまな形で受容されたが、特にプロライフ(生命の保護を主張し、人工妊娠中絶や安楽死に反対する立場)の本として誤読されることが少なくなかったと説明した。ボルタンスキー自身は、この本は中絶そのものの賛否を論じるのではなく、社会学の中立性を維持しつつ、沈黙させられてきた妊婦自身の経験を可視化することに重点を置いていると主張している。

 ラトゥール、ブルデューとの関連については、小田切先生によれば、ボルタンスキーは、ブルデュー社会学が「すでにつくられた社会的世界」から出発する傾向がある一方、自身とラトゥールを含むプラグマティック社会学が「今つくられている社会的世界」から出発する傾向がある点に両者の違いがあると考えている。さらに、小田切先生は、両者の対立を調停する一つの道筋として、ボルタンスキーが『批判について』(2009)の中で展開した制度論を紹介された。一方で、ボルタンスキーは、ラトゥールのスポークスマン概念を用いて、制度が人々の実践を通じて可視化される過程を重視した。このとき、制度は「今つくられている」ものとして現れる。他方、ボルタンスキーは制度を「身体なき存在」と捉え、個々の身体が捉える個別の視点を超えた、上位の調整機能を果たすもの――いわば「すでにつくれらたもの」――としても扱う。ただしそのような制度は身体を持たないために、実社会において機能する際にはスポークスマンを必要とする。そのスポークスマンが真に制度を代表しているかどうかは常に不確定である。小田切先生は、この不安定さを起点とし、制度を「今つくられている」ものにも「すでにつくられた」ものにも還元しない点に、ボルタンスキー社会学の特徴があると論じた。

 田村先生は、ボルタンスキーやルミューの議論における「抵抗」という概念の位置づけについて疑問を投げかけた。特に、なぜ身体やモノの示す「ままならなさ」を「抵抗」と呼ぶのか、単なる「制約」や「限界」とは何が違うのか、またそれが社会像や民主主義の理解にどのように関わるのかという問題を提起した。さらに『胎児の条件』が妊婦の経験に焦点を当てている点について、個人の体験を社会学的議論の基盤に据えることの妥当性について疑問を投げかけた。

 第一の問題に対して小田切先生は、ボルタンスキーが『批判について』(2009)における「現実」と「世界」の区別を土台としつつ、「現実」の外部にあり、「現実」を形作るフォーマットでは言語化されにくい「世界」の経験を、「現実の社会的構築」への「抵抗」として捉えている点を補足した。「抵抗」とは単なる外的制約ではなく、社会的に構築された現実を揺さぶる契機であり、その言語化こそが社会学の役割であると説明した。

 第二の質問に対して小田切先生は、『胎児の条件』が妊婦の経験に注目したのは、中絶の合法化以降もなおほとんど語られてこなかった妊婦の経験をとり上げることで、社会的に沈黙させられてきた領域を可視化するためであると述べた。加えて、個人の経験への注目は社会学の矮小化ではなく、不可視化された社会的現実を描き出す試みであると強調した。

 全体討論

 マリー・ボーヴィウ先生は、『胎児の条件』において中絶される胎児に対して用いられる「殺人」という言葉遣いに、すでに倫理的な価値判断が内在していることや、調査対象の女性が、将来母になる可能性のある人に偏っている点を指摘した。このような観点から、この本においてボルタンスキーは女性を「母なる存在」としてのみ捉えているのではないかという疑問を投げかけた。これに対し小田切先生は、ボルタンスキーの議論は胎児を「人」と「モノ」の間を揺れ動く存在として捉えており、殺人という語は、類型化のされ方によって変化する中絶の解釈のひとつとして用いられたにすぎないと説明した。

 同じく妊婦と胎児の関係を規定する言葉遣いという観点から、中村靖子先生は、『胎児の条件』は胎児を「できもの」として語ることによって女性の身体的負担を描き出す一方で、「人間の条件」になぞらえて中絶を語ることによって再び女性が追い詰められることになるのではないか、と指摘した。それに対し小田切先生は、ボルタンスキーの言葉選び自体に緊張や曖昧さが含まれており、読解に際してもその都度の言葉選びから、物質的な存在としての胎児と社会的に承認された人間としての胎児という両義性を汲み取る必要があると説明した。

 セッション3の講演者である村井重樹先生は、ハビトゥス論とも関連づけてボルタンスキーの議論における身体化された過去(過去の経験の蓄積)の位置付けという問題を提起した。これに対して小田切先生は、ボルタンスキーのプラグマティック社会学が、行為者をあくまでも現在の行為において規定するという現在主義的な側面を持つ一方で、それによって、単なる構築主義的な視点からは見えない個別の経験を拾い上げる役割を持つことを強調した。金信行先生はアクターネットワーク理論おいては過去もまた現在的なアクターとして捉えられることなどを補足した。こうした観点から、本プロジェクトの柱となるハビトゥス論、アクターネットワーク理論と、プラグマティック社会学の接続について議論が交わされた。

(文責:大阪大学人文学研究科博士後期課程 葉柳朝佳音)