2026.5.22 第13回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

第13回「終わらない読書会」にご参加いただき誠にありがとうございました。皆さまから多くの質問やコメントを頂戴できましたこと、大変嬉しく思っております。フェミニズム読解が主流となっている『侍女の物語』ですが、小説という一芸術作品が可能とする様々な技巧に目を向けることで見えてくるものも沢山あります。作品が訴えるメッセージ性を踏まえつつも、些細な描写・記述に読み応えを感じていただけたのであれば、発表者としてこれ以上の喜びはありません。

開催からひと月近く経ってしまいましたが、読書会の補足として、充分に答えることのできなかった質問への回答や、終了後のGoogleフォームに寄せられた質問、また、発表内では言及することのできなかったトピックリストへのコメントを皆さまに共有いたします。トピックリストにつきましては、三月うさぎ(兄)さんによるnoteと絡めてコメントしております。三月うさぎ(兄)さん、ありがとうございます!

(1) 本作のエピグラフには、「砂漠には、「石を食ってはならぬ」と書かれた標識はない」というスーフィー教の格言が付されている。これは何を意味しているのか?

 上記の言葉を言い換えるならば、「禁止する標識はないのだから、必要であれば石を食えばよい」でしょうか。さらにこの言葉を、侍女の置かれた状況に引きつけて言い換えるならば、「子供を宿すことができるのであれば、必要に応じてどんな手でも使えばよい」となるでしょう。すなわち、ギレアデに生きる上での心構えとしてこの格言が付されていると解釈できるのではないでしょうか。

ちなみにどうしてアトウッドがスーフィー教の格言をエピグラフに採用したのかについては、スーフィー教の修行の一つである旋回舞踊(スーフィーダンス)に基づいているのではないかと私は考えています。この旋回舞踊とは音楽に合わせてグルグル回ることで神との一体感を求める祈りの形態として知られているのですが、これはアトウッド作品において繰り返されるモチーフである「サークルゲーム」と重なり合います。「サークルゲーム」とは、日本でいう「かごめかごめ」と同等のものであり、集団で輪になってぐるぐる回る遊びと考えてもらって構いません。『侍女の物語』においては、旋回の動きはありませんが、侍女たちが集団で輪になる<集団制作>の場面がありました (とりわけ504ページより始まる第43節に記載)。もちろんエピグラフの内容は旋回舞踊を表すものではありませんが、先行する「サークルゲーム」のモチーフからスーフィー教が連想された、と考えられそうです。

(2) 3章にある妻の「おまえが馬鹿じゃないことは知ってるわ . . . . おまえの資料を読んだからね」 (36) という発言について。女性が読むことの可能/不可能はどのように決められているのか。

確かに小説の場合、女性の文字利用の線引きについては結構曖昧なようにみえますね。資料といっても写真なども含まれるでしょうから、「文書を読んだ」と記すほど文字情報で溢れている訳ではないかもしれません。とはいえ、「資料を読んだ」と表現されている限り、文字が一切記されていない、とは考えにくいでしょう。したがって、妻の一特権として、文字に触れることは必要に応じて認められている、と解釈するのが妥当かもしれません。

ちなみにドラマ版では、妻が侍女を選ぶ場には小母が同席しています。妻が手にする資料は侍女の顔写真でして、具体的な人物像(例えば、過去の出産経験の有無や子供の人数、侍女としての功績など)については小母によって説明がなされており、妻がそのような説明文を読んでいる演出はなされていません。

(3) 同じく第3章にある妻の「私たちはこの夫の件を他の権利とともに認めさせようと闘っているところなのよ」(37) という発言について。ここで示される「権利」とは?

「権利」に関する具体的な内容は示されていませんが、ここは具体的な権利の内容が重要というよりかはむしろ、ある禁止されている事柄を、妻という身分に応じて認めさせようとしているという発言の意図に重要性があるように思います。

 ちなみに、この発言の直前にあるのは「聖書に前例があるので、彼女たちはわたしたちを叩ける。でも、どんな道具も使ってはいけない。素手でしか叩けない」というオブフレッドの独白です。この流れを踏まえると、妻が認めさせようとしている「権利」にはどこか不穏な含みを感じます。

(4) オブフレッドとニックの関係性はどのようなものであるといえるだろうか?/【トピックリスト3

両者ともそれぞれの役職からして若い年代の人物ですので、互いの距離が縮まるのも無理はないように思います。オブフレッドにとって、ニックとは、ギレアデでは認められていない愛を、また離れ離れになってしまった夫ルークを埋め合わせる存在のようです。だからこそ、三月うさぎさんの「ニック目線ではオブフレッドは情報源以上のものではないのではないか」の指摘はなかなか鋭いように思いました。二人の関係についてはうまく語ることができないオブフレッドの様子を考えてみれば、それは特定されることから守るための脚色なのか、はたまたニックに利用されていたことを悟っていたからこそ、オブフレッドには「それがどんなふうに起こったのかよくわからない」(481) のか…。

(5) 抑圧されているのは誰か?抑圧しているのは誰か?/【トピックリスト7

ギレアデの世界において、女性だけが抑圧されているわけではないこと、そして女性の中でも侍女だけが抑圧されているわけではないことが小説全体のポイントだと思っています。また、三月うさぎさんのnoteにある解釈レベルでの抑圧/被抑圧の関係性を示した「読者 > 登場人物」にちなんでいえば、「語り手オブフレッド > 読者(我々・未来の歴史学者)」でもありますよね。

(6) ギレアデにおける男女の役職を比較した際、女性の方がより細かに分類されている。 女性を細かに分類することに、どのような狙いがあるのだろうか?/【トピックリスト8

  細分化することで連帯を妨げようとしているのは確かですよね。だからこそ、(3)で取り上げたような、妻の特権化という考えが思い浮かぶのでしょう。

(7)ギレアデは宗教が政治権力を握っているのか?それとも政治が宗教を利用しているのだろうか?/【トピックリスト11

 これは後者の「政治が宗教を利用している」ですね。このことについては、小説のエピグラフにも付されている『創世記』第31章1-3節を基に、ギレアデが性行為の儀式を執り行っていることからも明らかでしょう。

(8) 司令官の発言に次のようなものがある──「女性は計算ができませんからね、と彼 は一度冗談めいた口調で言ったものだ。. . . . 彼女たちの場合は一足す一足す一足 す一が四にならないんですよ、と。じゃあ、いくつになるんですか? とわたしは 三か五を予想しながら言った。ただの一足す一足す一足す一なんです、と彼は言った」(341)。この発言は何を示しているのだろうか?/【トピックリスト14

  この箇所については、「女性にとっては」一足す一足す一足す一がただの一足す一足す一足す一である、という点がポイントになっています。すなわち、妻は妻でしかなく、女中は女中でしかなく、侍女は侍女でしかない。与えられた役職は女性たちにとっては交換不能なものなのだ、と解釈できるでしょう。この発言を通して司令官が意図しているのは、三月うさぎさんも指摘してくださっているように「男から見た女は交換可能で足すことが出来る」という裏のメッセージだと考えられます。物語に引きつけて解釈すれば、司令官にとって侍女は侍女だけでなく愛人にもなり得る、ということでしょう。

(9) 本作において、唯一繰り返されているのは「夜」の章である。オブフレッドにとって、夜はどのような時間だろうか?/【トピックリスト20

 夜の章が唯一許された自由な空想の時間である、ということは発表内でも述べたとおりなのですが、この章立てについて三月うさぎさんが、オブフレッドの語りを文字起こしした未来の歴史家たちの存在を含めて考察してくださっています──「テープから文字起こししたピークソート教授とウィエド教授が、推測で時系列に並べると同時に、章の名称をふったのか? だとしたら、なぜ「夜」という章名が何度も繰り返される?」。本当にその通りだと思います。章立てに目を向けた途端、「歴史的注釈」を踏まえたメタ読みにぎこちなさが生じてしまいますよね。加えて、未来の歴史家らが「夜」とタイトルをつけて何度も繰り返していると考えるのもどこか不自然です。「夜」の繰り返しによって、タイトル付きの章立てそのものが、作家であるアトウッドのみが可能とする領域であることが強調されているように思いました。

(文責:京都大学 人間・環境学研究科博士後期課程 杉本はなな)