2025.11.28 第2回

 第2回「文系のための生成AI研究会」にて、話題提供の機会を得た。当日は「ルソー手稿研究での使用例」および「大規模講義での生成AI利用の試み」という二つのトピックについて発表を行った。ここでは、当日の発表内容を要約しつつ、アンケートや質疑応答で得られたフィードバックを通じて浮き彫りになった、生成AI時代の人文学と教育が直面する課題について報告する。

1.発表内容のまとめ:時間の可視化と身体性の回復

ルソー手稿研究と「時間の記述」

 前半では、専門であるルソー研究におけるAI活用の現状を紹介した。現在、私はルソーの『社会契約論』などの手稿を対象に、その執筆プロセスをデジタル空間上で再現する研究に従事している。書物として出版されたテキストは二次元的でリニアな情報だが、その背後には、ルソーが何度も書き直し、削除し、また書き加えたという「時間」の厚みが存在する。従来の紙媒体での研究(批評型転写など)では表現しきれなかったこの「執筆の時間」を、XMLデータを用いた「生成型転写」という手法で記述し、Z軸(時間軸)として可視化することを目指している。

 この作業において、生成AI(特にGoogleCloudVisionAPIなどのOCR技術)は、手書き文字の解読とデータ化を劇的に効率化させた。しかし、発表の中で私は、ある種の「憂鬱」についても吐露した。それは、かつて研究者が手入力で行っていた「単純作業」がAIに代替されることへの戸惑いである。単純作業の反復は、創造的なアイデアが生まれるための助走期間(エンジン)として機能していた側面がある。そのプロセスをAIが代替したとき、私たち人間は何を為すべきか、という問いを提起した。

大規模授業における「身体性」

 後半では、100〜200名規模の講義(哲学入門・社会思想概論)における生成AI活用事例を紹介した。大人数の講義では、学生が受動的になりがちで、教員側も個別のフィードバックを行うことが困難である。また、生成AIの普及により、レポート課題におけるコピペや安易な生成が容易になっている現状がある。そこで私は、講義レジュメをAIに読み込ませてワークシートを作成させたり、LMSを活用して学生にキャンパス内を探索させたりする実践を行っている。例えば、ミシェル・フーコーの「規律訓練型権力」とドゥルーズの「管理型権力」を学ぶ回では、学生にスマートフォンを持たせ、学内に潜む「見えないルール」や「権力の作動」を写真に撮って投稿させる課題を課した。ここでの狙いは、生成AIが容易に答えを出力できる時代だからこそ、あえて「足を使い、手を動かす」という身体的な経験を学習に組み込むことにある。AI時代のレポート課題においては、単なる知識のまとめではなく、現場での身体的経験や一次情報の収集を必須とすることで、AIへの丸投げを防ぎつつ、実感を伴う学びを提供できるのではないかと提案した。

2.フィードバックと考察:効率化の果てに残るもの

 発表後の質疑応答およびアンケート結果からは、参加者の関心が単なるツールの紹介にとどまらず、「人間が行う作業の意味」という本質的な問いに集中していることが確認できた。

「単純作業」と創造性のパラドックス

 アンケートの中で最も多くの共感を得たトピックの一つが、「単純作業と創造性」の関係であった。参加者からは、「単純作業なしに創造せよと言われても困る」「手書きには思考の憑依のような瞬間がある」といった声が寄せられた。手稿研究における転記作業や、語学学習における反復練習など、一見非効率に見える「単純作業」の中にこそ、対象への没入や身体的なリズム、そして「思考の種」が宿っているという感覚は、多くの人文学徒に共通するもののようだ。生成AIによる効率化は歓迎すべきことだが、それによって「プロセス」そのものがブラックボックス化され、研究や学習の喜び(あるいは苦しみを通じた成長)が失われることへの懸念が共有された点は重要である。私たちは、AIに任せるべき作業と、あえて人間が時間をかけて行うべき作業の境界線を、自覚的に再設定する必要があるだろう。

教育における「身体性」の再評価

 また、教育実践に関しても、「大規模授業でも一人一人との対話を大事にする姿勢」や「学生を動かす工夫」に対して多くの反応があった。生成AIが高度な言語能力を持つようになった今、「言葉だけで完結する課題」は脆弱になっている。アンケートでも「学生のレポートとChatGPTの利用範囲」や「評価設計」に関する悩みが数多く寄せられていた。私の実践した「キャンパス内で写真を撮る」といった身体性を伴う課題は、AIに対する一つの対抗策であると同時に、AIには不可能な「現場性」を教育に取り戻す試みとして評価されたようだ。デジタルなツール(AI)を使いこなすためにも、むしろフィジカルな経験や対話が重要になるという逆説は、今後の教育カリキュラムを考える上で重要な視点となると確信した。

 結びにかえて今回の研究会を通じて、生成AIは単なる「便利な道具」ではなく、私たちの「知の作法」や「身体性」を問い直す鏡のような存在であると改めて感じた。手稿研究における時間の可視化も、授業における身体的活動も、AIという他者が現れたからこそ、その価値が再発見されたと言える。アンケートでは、「今後扱ってほしいトピック」として、大学教育の制度設計や、研究における倫理的な境界線についての議論を求める声が多く挙がっていた。今後は、個人の実践知の共有にとどまらず、それらを制度や倫理規定としてどのように社会実装していくかという、より大きな枠組みでの議論が必要になるだろう。