2025.08.26-27 第7回全体集会:セッション3

講演:Emanuele Castano(フィレンツェ大学)

Emanuele Castano先生(フィレンツェ大学)のご講演「Beyond Genes and Parents: The Effects of Cultural Products on Human Psychology」では、人間の心が形成される過程において、遺伝や養育環境に加え、文化的産物が果たす役割に焦点が当てられた。文化的産物は「何を考えるか」だけでなく「どのように考えるか」に影響を及ぼす点が強調され、とりわけ文学的フィクション(literary fiction)と大衆的フィクション(popular fiction)の比較を通して、その効果の相違が実証的に論じられた。

 背景としては、人間の社会的認知、すなわち他者の感情や思考を理解し、社会的世界を解釈する能力は、社会生活や文化的共同体の維持に不可欠である。Castano先生は、文化的産物をConfirming(確認的)とChallenging(挑戦的)に区別できるとし、特に文学的フィクションが「挑戦的」な性格を持ち、社会的認知を促進する可能性に注目した。一方、大衆的フィクションは「確認的」な性格を有し、読者に安心感を提供する役割を果たすと仮定した。

 実験的研究では、「著者認知テスト(Author Recognition Test)」や社会的認知は「Reading the Mind in the Eyes Test」をはじめとする複数の課題によって、被験者を無作為に文学的フィクション、大衆的フィクション、ノンフィクションなどの読書群に割り当て、比較評価を行った。研究の結果、文学的フィクションを読む被験者は社会的認知、とりわけ他者の心的状態を推測する能力(Theory of Mind)において有意に高い得点を示した。一方、大衆的フィクションには同様の効果は認められず、その主な役割は娯楽性や安心感の提供にあることが示唆された。さらに、複数文化圏での調査結果は、この傾向が普遍的であることを裏づけた。

 考察では、文学的フィクションが読者に「想像力」を喚起し、物語の空白を補わせることで複雑な他者理解を促す点を強調した。これにより、読者は単なる感情移入を超えて多様な視点を獲得し、複雑な社会的状況を理解する能力を発達させる。一方、大衆的フィクションは既知の表現や定型的な物語構造を通して共感や安心感を生み出すが、社会的認知を高度化する効果は限定的であると論じられた。

 本講演は、文学的フィクションと大衆的フィクションの比較を通して、文化的産物が人間の心に異なる影響を及ぼすことを明らかにした。文学的フィクションは挑戦的な性質をもち、他者理解や複雑な社会的認知を涵養する機能を有する。一方で、大衆的フィクションは確認的な性質をもち、安心感や娯楽を通じて共同体の心理的安定に寄与する。両者は対立するのではなく、それぞれ固有の役割を担いながら人間社会の心理的基盤を形成していると結論づけられた。

(文責:名古屋大学人文学研究科附属人文知共創センター 鄭弯弯)

中村先生 質問

二つの視点から質問したいと思います。

①例えば、グリム童話の初版には、「彼はこうした。彼女はこうした」などの描写が見られ、専ら行動が描かれ、行動の裏にある思考についての描写は見当たりませんでした。これに対して数十年後に出版された第七版では、「彼はこの時こう考えた、だから…をした」といったように、ただ行動が示されるだけではなく、思考や心理的描写もどんどん加筆されています。それは歴史的に見て、人の行為を説明するようになる傾向は、特に18世紀末から19世紀初期にかけてよく見られます。このような“showing”から“telling”への変化について、歴史的な観点からどのようにお考えでしょうか。

Castano:かなり鋭くて深い質問ですね。グリム童話にこのような変化があったことは知りませんでしたので、この作品の変化についてあまり言えることがありません。ただこの質問から、1990年代に行われた、発達心理学の視点から読み物が子供に与える効果を検討するある実験が連想できると思います。

その実験では、2ヶ月以上の時間をかけて、10冊の絵本を小学生に読ませます。その内半分の被験者には思考や感情などの心理状態を表す単語を残したままの本を読ませ、もう半分の被験者にはそういった単語が削除された本を読ませます。例えば狐とニワトリの本の中に、近づいている狐に気づくことができない、うろうろしているニワトリが描かれています。オリジナルの絵本には、ニワトリが「振り返り、…と思った」などの表現があります。しかし調整後のバージョンには、「思う」などの心理状態を表す単語が消されています。

子供に頻繁に感情を表す単語を話す親がいる場合、その子供がより早くそういった単語を習得できることがすでに証明済みになっています。だから実験を行った研究者は、読む行為が子供(五歳ぐらいだと思います)の心理状態を表す語彙の習得にどのように影響するのかを観察したかったのです。そこで興味深いことに、オリジナルの絵本を読んだグループの子供に関しては、感情を表す単語の意味を識別する能力が上達したことが確認された一方で、心理状態を述べる単語のない本を読むグループの子供の方が、思考力/問題解決力を考察するテストでより良い成績を収めました。

五六歳の子供が読む絵本にとって、純文学と流行文化の区別は無意味だと思います。しかし、感情を表す語彙のような一部の要素に関しては共通しているとも言えます。かなり幼い子供の場合、そういった語彙を明示しないといけません。インプットがないと、子供はそもそもそれらの単語を習得できませんし、自身を表現することももちろんできません。しかしある段階に達すると、意識的にそれらの語彙を伏せて、子供に自分の判断で感情と対応する単語との関連性を認識してもらうことも大事です。なので、先ほどの実験に使われた、オリジナルと感情を表す語彙が伏せられるバージョンの両方が、0歳から8歳までの子供には必要だと考えています。

②純文学の作品は複雑な構造になっているだけでなく、(ご発表の中に紹介された図に示されたように)しばしばネガティブな感情が表されています。そのため読者が感じるストレスが上がる可能性が考えられます。だから7、8歳の子供はいわゆる文学作品を読みたがらないかもしれませんが、文学作品を読みたくなるには、個人の発達がそもそも必要なのではないでしょうか。

Castano:私が構想しているのは、子供に物語を聞かせる時に、一種の並行体系(parallel system)が重要です。最初の質問に答えた時も少し触れましたが、子供にとって、心理状態を直接表す単語が入っているフィクションと入っていないフィクションの両方を読む必要があります。前者は子供に単語自身の意味を習得してもらうためのものであり、後者は子供に単語と感情のつながりを能動的に識別してもらうためのものです。なので、まず精神的に発達してから文学作品を読み始めるか、それとも文学を読んでから発達するかについて、明確な答えは出せません。

大人は、感情を読み取る能力が既に備わっているので、純文学を読むことで訓練しなくてもその能力が失われることがありません(もちろん劣ることになりますが)。しかし子供に関して言うと、心理状態と感情を直接描かない文学作品は感情を読み取る能力を鍛えることは確かですが、それもまずそれらの感情を表す基本語彙を習得した後の話になります。個人的な子育ての経験も含めて言わせていただきますと、幼い子供に全く同じ物語を何度も読み聞かせてもよいが、子供が成長すると同じ物語を読み聞かせるとすぐ飽きてしまいます。三歳の子供を対象とした物語はいつも予測しやすいものです。この場にいる多くの先生方も、ご自身の経験を思い出していただければお分かりかと思います。三歳前後の子供に向かって、同じ話の中のいくつかの単語を変えるだけでも、すぐ不機嫌になりますね。「いや、そんな話じゃないよ」と。しかしある年齢を超えると、物語自身の展開が平坦だったり、予測しやすかったりすると、子供はすぐ興味を示さなくなります。言い換えれば、物語に解釈の余地、あるいは自由度を求めるようになります。もちろん、それまで築かれてきた観念を再確認できるという点から言うと、予測しやすい物語への需要が消えたわけではありませんが、自由度への需要が芽生えたのは、当然のことです。

大人についても、純文学しか読まない人と、流行文学しか読まない人がいますね。この違いは、作品に確かさを求めるか、それとも不確かさを求めるかの違いとも言えます。大多数の大人は、心理状態を表す語彙を習得しています。そして大人は文字の力を借りなくても、感情を読み取り、その種類を判断する練習をすることができます。例えば今日の講演会でも、私のこの能力は鍛えられていました。皆さんの表情を見て、自分の説明が明確なのかどうかを把握しておかないといけませんから。なので文学や映画などは、決して感情を識別する能力を鍛える唯一の方法ではありません。しかし子供にとって、不正解によるフィードバックを受けずに、この能力を身につけることができる機会は、確かに文字を読むこと、特に守られた環境の中で展開される童話を読むことです。恐怖や悲しみを感じても、それはフィクションの世界の出来事であり、現実世界への影響がありません。

なので、心理状態を表す語彙の習得と心理状態を識別する/自分自身の心理状態を説明することとは、ある意味矛盾しているとも言えます。ジムに行くことで例えますと、ずっと基礎練習をしていても筋肉がつきませんが、いきなり基礎練習を飛ばして高度なトレーニングを行うことも不可能です。最初に戻りますが、並行体系の構築は、子供に文学を読ませるときに心がけるべきことだと私は主張します。

ボーヴィウ先生 質問

①文学作品の読者の認知能力(cognitive capability)に対する影響に関して、作品が実話なのか実話ではないフィクションなのかという違いは、影響そのものへの関連性はあるのでしょうか。

Castano:私の関心するところでは、その関連性はないと考えています。今回の発表では純文学と流行文学の違いを重要視したのは、作品の言語学的な構成、そして単語の違いとその影響を論じたいためです。作品自体が実話であるかどうかはこれらの要素に影響しません。しかしもし作品の構造や書き方によって、実話であるかどうかという問題に対して読者の内部で異なる判断が下された場合、作品のどの部分がこのような判断の違いを生み出したのかについて検証する必要があります。

②ご講演の中には、「予測不可能性」(unpredictability)が純文学と流行文学を区別する際に重要な指標の一つであるとおっしゃいました。では例えば外国の流行文学を読むときに、その国の人にとってすぐ予測できるかもしれませんが、外国人の読者には文化的な背景の相違がありますので、先が読めないと感じることもあります。そうなりますと、予測不可能性は有効な判断基準と言えますでしょうか。

Castano:いまおっしゃった内容を言い換えますと、それぞれの文化に属する人にとって、いくつかの、その文化特有の物語のモデルが存在します。他の文化に根付いたモデル(と言っても部分的な違いしかないと思いますが)に沿って作られた物語を読むと予測が効かなくなります。ならば私にとってまず、二つのモデルのどこが異なっているかを知る必要があります。例えば私が研究で協力者にフィクションを読ませますが、感情能力を測定する前に、登場人物についての評価をまず聞きます。この問題を検討する実験を行うとすると、例えば日本人作家による純文学作品の登場人物を予測しにくいと、日本人以外(例えばフランス人)の協力者が回答する場合、日本人の読者にとって同じ回答が得られるかどうかについて別途データを集めます。同じ人物が日本人にとって予測しやすいかもしれませんが、それはあくまで私たちに、「純文学」と「流行文学」がただのラベルであることを示すまでです。普遍的な一面もあれば、文化による例外の存在も当然認めなければいけません。

③詩の中の一人称「私」は、特定の社会や環境の中の個人ではなく、より普遍的な「私」になります。なので、詩を読むことも、感情を識別する能力の鍛錬になりますでしょうか。もし鍛錬になれる場合、純文学と流行文学との間のような効果の違いは認められるのでしょうか。

Castano:以前日本人学者が執筆した論文を査読したことがありまして、俳句と、複雑で仮面を使った、感情が誇張された形で表現される能に関する研究でした。詩はより短いし、より表現的な形式であり、不安と不確かさをより醸し出すことができます。なので、純文学に近い効果があるとも言えます。しかし一首の詩を読む時間があまりにも短いので、どれぐらい読んだら感情を識別する、もしくは表現する能力に影響するのかがまだよく把握できません。そして一部の構造上・用語上明らかに流行文学に分類されるべき詩も存在しています。いずれにしても、実験で詩を扱うにはまだ難しい部分が残っていると思います。

(文責:京都大学大学院人間・環境学研究科 共生人間学専攻 肖 軼群)