2024.11.22 第9回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

🌟南谷先生によるご報告

  当日は南谷先生によるテクスト・マイニング分析から入りました。テキスト・マイニングによってどのような語彙が頻出するのか、全体の構成はどうなっているのかがわかります。ベルンハルトの作品では特定の言葉が音楽的なモチーフのように作品全編にわたって反復的に使用しているのですが、テキスト・マイニングの技術をうまく使えばこうした構造を明らかにできるのではないかと興奮しながら聞きました。

🌟飯島による報告

 その後の私の発表はまずベルンハルトについて概観するところから入りました。その際、心掛けたのは作品の真実性(Atuhenticitiy/Authentizität)へのこだわりを維持した作家としてのベルンハルト像を提示することです。戦後のオーストリアで活動したこと、谷川俊太郎や大江健三郎等と同世代であることに触れた上で、どういった作品を書いていたかの例として1970年に発表された長編『石灰工場』について簡単に触れました。オーストリアの田舎の石灰工場で起こった殺人事件を舞台とする本作ですが、そこでは語り手の「私」が犯人のコンラートや、コンラート周辺の人物の言葉を間接話法によって引用することによって話が展開していきます。

 その際、重要なのがこの「私」がほとんどコメントを挟むことなく引用を展開していくことです。ミステリ風の作りの作品ですが、探偵のように推理したりもしません。そこでは事件を要約することなく起こったままに読者に体験させることが目指されていると言えます。ここに「真実性」へのこだわりの一つの例が見出せるのではないかと思います。

  こうした「真実性」へのこだわりは今回の課題図書である『推敲』にも読み取ることができます。発表では『推敲』が、まさに「真実性」を要とするジャンルである自伝と同時期に執筆されたことに触れ、その上で自伝が本当に真実を伝えるジャンルなのか、否か、というテーマをめぐって展開するメタフィクションとして『推敲』を解釈することを試みました。というのも本作の主人公、ロイトハマーは自伝を作中において執筆しており、作品の後半はこの自伝の復元から構成されているからです。また前半部分ではロイトハマーから自伝を遺稿として託された「私」が遺稿の編集に取り組みます。いわば本作は自伝の執筆者と編集者の物語なのです。

 発表ではまずロイトハマーの人物像に触れました。ロイトハマーが円錐を建てた挙句に最愛の姉の死をもたらしたことに触れ、この人物が独創的であると同時に手前勝手でもあるという、両義的な人物であることを述べました。

 次いでロイトハマーの遺稿の中で何が書かれているのかを論じました。そして自伝の中でロイトハマーの展開している家族に対する恨みつらみはほとんど被害妄想に近いこと、そしてロイトハマーの家族に対する誤解が解消される過程として自伝の執筆過程を捉えることができること、ロイトハマーの自殺はわだかまりが解消されることのメタファーとして解釈できることを述べました。それはまた個人的な覚書である自伝が、表現として自立したものとなる過程を暗示してもいます。

 最後に編集者として語り手の「私」がどのような人物であるかを論じました。そして「私」には編集者としてのやる気が見られないこと、「私」の編集したテクストには誤りが散見されることに触れ、作品の後半を構成するロイトハマーの自伝は遺稿通りではない可能性を指摘しました。『推敲』という作品ではロイトハマーの自伝の執筆が問題となっていますが、そこではロイトハマーの誤解、さらには「私」の編集ミスという形で、実際にあった過去とロイトハマーの遺稿の内容が乖離していることが二重に暗示されています。こうしたズレを示すことによってベルンハルトが自伝という形式に対する批評を行なっていることを述べるとともに、そこにベルンハルトの「真実性」へのこだわりを読み取るという形で発表を締め括りました。

 なお以上のような議論は前田佳一編『モルブス・アウストリアクス』(法政大学出版局 2023年)所収の拙論でより詳細に展開しています。ご関心のある方はぜひご覧ください。

🌟質疑

 その後質疑に移りました。この場ではその場での応答に関して簡単に捕捉するとともに、当日触れられなかった質問にお答えしたいと思います。

・「ベルンハルトは深刻な作家だと思っていたが、そうした捉え方は一般的ではないのか」

 おそらく質疑の場で一番盛り上がったのはこのご質問かな、と思います。こうした深刻な作家としてのベルンハルト像はこれまで散々喧伝されてきたものであり、他の方の質問を見ても同様の見方が共有されているように感じました。

 発表の際の質疑応答でもお答えした通り、私としてはベルンハルトをそれほど深刻な作家だとは思っていません。たしかにベルンハルト作品の登場人物は何やら暗いことを言ったりやったりするのですが、それはあくまでも深刻な人を書いているのであって、ベルンハルト自体が深刻な作家だ、というのは違うだろう、と思っています。

 本発表で取り上げた『推敲』にしてもロイトハマーは破滅的な文章を書き、最終的には自殺を遂げますが、その傍らには「私」という人物がいて、ロイトハマーの言葉の間違いや現実とのズレを暴き出すという構造があります。ロイトハマーという人物は悲劇的であったとしても、ロイトハマーの自殺を単なる悲劇には終わらせない構図が作品には備わっているのです。ベルンハルトの好んだ言葉に「悲劇は喜劇、喜劇は悲劇」という言葉がありますが、本作の構成もまさにこうした悲喜劇的なものと言えるでしょう。こうした悲喜劇性はデビュー作の『凍』以来、ベルンハルトの作品には一貫するものであり、そこにこの作家の苦い味わいもあると私は考えています。(なお悲喜劇というテーマは後年の『古典絵画の巨匠たち』で全面的に展開されています。手に入れにくい本ですが、邦訳もあるので興味のある方はぜひお読みください。)

・「オラシオ・カステジャーノス・モヤとの関係について知りたい」

 モヤに関しては質問者の方の方がご存知だと思うので補足することはないのですが、以下のページにベルンハルトに影響を受けた作家の一覧が載っています。ドイツ語ではありますが、ご関心ありましたらご覧ください。

https://globalbernhard.univie.ac.at

・「「精神的」という言葉の原語が気になる。」

 精神的という言葉の原語はおそらくほぼ間違いなくGeistです。ベルンハルトを日本に紹介したパイオニアである池田信雄は通常知識人と訳されるGeistesmenschenという言葉を精神的人間と訳しました。私もそれに倣ってGeistは精神と訳すようにしています。精神という訳語の方が大袈裟でベルンハルトのユーモラスな一面がより伝わるかな、と思っています。

 なお質疑応答中に「ベルンハルトの作家として活動期間はわずか10数年だ」という発言を何度かしてしまったのですが、これは間違いでした。『凍』の出版から数えると約25年のキャリアがあります。誤った情報を伝えてしまい、大変申し訳ないです。お詫びして訂正します。

🌟おわりに

 ご参加いただいた方をはじめ、南谷先生、小林先生、平繁先生にお礼申し上げます。『推敲』はかなり読みにくい作品でもあるので、どうなるかな、と思っていましたが、多くの方にご参加いただき、さらには質問までしていただき嬉しいかぎりでした。こうして話す場をいただいことで、普段ベルンハルトについて考えていることをまとめ直すいい機会になったと感じています。ありがとうございました。

(文責:飯島雄太郎)