2024.5.17 第7回「終わらない読書会─22世紀の人文学に向けて」@Zoom

【1】発表内容のまとめ

 村田沙耶香『コンビニ人間』を取り上げ、働くなかで人がモノに近づくというテーマで読解しました。

 作品を簡単に紹介しますと、主人公の古倉さんは36歳の女性で、コンビニのベテランアルバイト店員です。自然に振舞うと周りから「奇妙がられる」ため、「普通」にならなければという義務感から、周りの人を模倣したり指示に従ったりし続けてきました。その延長で、同居相手の白羽さんの強引な提案を受け入れ退職にまで至ります。しかし作品のラストで、古倉さんだけが「コンビニの『声』」を聞いたことをきっかけに、店員復帰を自ら選択します。

 テーマの”人がモノに近づく”という表現は、他者をモノ扱いすることで相手がモノに近づくことと、人が自らモノに近づくことを含んでいます。具体的には、他者の人格を尊重せず都合良く扱ったり、自分の人格よりも組織の中での立場を優先し続けたりする等の振舞いです。これは機能を果たすことと内在的価値を求めることとの葛藤とも表現できます。なお、適切な用語があるかもしれませんが、ここでは人格という言葉を用い、実現したいこと、どんなことにやりがいを感じるか/感じないか、感情等、幅広く”本来のその人らしい在り方”という意味を持たせています。

 私は十数年間の会社員経験の中で、本心では充実感を持てないときに、仕事だから我慢して当たり前と現状を甘受し続けるうち、自分が人ではなくモノになっていく感覚を持ち、残念に感じることが何度もありました。また同僚や友人、家族との会話からも、仕事の上で誰かに都合良く扱われ意欲を削がれた経験等を確認できたので、多くの人が同様の事態に遭遇しているのではないかと考え、テーマに設定しました。

 当日は発表に移る前に、南谷さんより働くことと身体性の関係についてコメントをいただきました。日々の動作の反復によって体形や所作にその職業らしさが定着するように、身体は職業から強く影響を受けるとのご指摘でした。

 続いて匿名チャットアプリAIVISにて、参加者の方から作品の感想を書き込んでいただき、主催者の方々にコメントをいただきながら参照しました。感想は48件あり、「普通」や「正常」に関して考えたこと、古倉さんに対する考察や共感、コンビニという舞台への考察、作品中の印象的な表現等、多様なお考えを伺うことができました。

 さて、発表内容は、1計量テキスト分析、2主人公の変化の考察、3現実世界を通した読解 これら3点から構成しました。

1 計量テキスト分析

 KH Coderを利用して作品全体の計量テキスト分析を行い、語の出現回数、共起ネットワーク(一緒に出現する語同士を線で結んだ図)等を確認しました。このうち発表では頻出語に絞って分析結果を紹介しました。例えば「コンビニ」という語です。この語は、文庫で161ページある作品のなかで111回出現します。私は場面に限らず目にする印象を持ちましたが、分析結果から古倉さんの退職(文庫p.140)以降の「特徴語」(注1)であることがわかりました。(図1)。また、「コンビニ」と一緒に出現する語が、物語の進行とともに変化することもわかりました。途中では「働く」「店員」「思う」ですが、ラストに近づくと「声」「人間」「身体」「音」「自分」になります。(図2)。このように計量テキスト分析を通して、主観的な印象と客観的な分析結果の相違点や、読んでいても気づかなかった文章の特徴を掴むことができました。

(図1)

注1:KH Coderでは、「データ全体に比して、それぞれの部において特に高い確率で出現している語」を「特徴語」と呼ぶ。

注2:数値は「Jaccardの類似性測度で」「0から1までの値をとり、関連が強いほど1に近づく。」(注1、2とも、引用元は樋口耕一『社会調査のための計量テキスト分析』p.39)

注3:部は『コンビニ人間』にはないが、発表者にて付与した。

(図2)

2 主人公の変化の考察

 最初に、主要登場人物の特徴や、他の登場人物との関係性を整理しました。

 古倉さんについては、周りの人が特性を理解しようとせずにモノ扱いしていると読み取りました。中でも家族は、大切にしているつもりが結果的にモノ扱いしてしまっているように見えました。白羽さんは、女性蔑視と読み取れるセリフが多く嫌悪感を掻き立てます。そこで、男性学の視点を取り入れることで、嫌悪感を乗り越えて言動の背景を推測することを試みました。また白羽さんについてのみ、痩せ過ぎの高身長との身体的特徴が繰り返し描写され、風貌の異様さが強調されます。白羽さんは言動の異様さにより周りから「異物」扱いされますが、もし言動が「普通」だったとしても、風貌のせいで「異物」扱いされるのではないかと考えました。

 次に、古倉さんの変化について、周りに言われるがまま無批判に目指していた「普通」に対して、意味を知った上で距離を取ったからこそ、作中で「普通」ではないとされるコンビニアルバイトへの復帰を自ら決断するに至ったと考察しました。これは古倉さんが実存を取り戻したとも読めると思います。

 最後に、平繁さんより英語版を中心にコメントをいただきました。古倉さんを類型化して捉えることの是非や、白羽さんの人物像について英語版の文体は日本語版と比べて粗暴な印象を喚起したこと等をご指摘いただきました。

3 現実世界を通した読解

 現実世界を通して作品の読解を深めることを目的としました。

 私の認識では、働くなかで公式な場と非公式な場が混在しているように見えることを提示しました。働くなかで人がモノに近づくことの特徴として、公式な場の体裁を整える必要に迫られて、また、非公式な場で実務上の必要に迫られての結果であることが挙げられるのではないかと考えます。作品中には、公式な場である朝礼に、「誓いの言葉」の省略(文庫p.35)や悪口大会(同p.75-76)により、非公式な場が混ざり込む様子が確認できます。現実世界についても同様の視点で捉えてみようと、作品の舞台であるコンビニ各社の統合報告書や組織図、経済産業省「新たなコンビニのあり方検討会」中のオーナーヒアリング資料を参照しました。加えて、私や参加者の体験談を共有しました。(事前アンケートに15件のご回答をいただきました。改めて、ご協力ありがとうございました。)

 併せて、ラース・スヴェンセン『働くことの哲学』を参照し、19世紀の工場労働者の管理手法であったテイラー主義の価値観が、現代の会社にも引き継がれているとの指摘を紹介しました。誰もがそのような価値観を無自覚に内面化し、働くときには人はモノ扱いするものだと、自分や他者に社会的規範として押し付けている可能性があります。これは『コンビニ人間』の、周りの人が古倉さんに社会的規範を押し付ける描写と似ています。

 以上のような現実世界の実情を踏まえ、『コンビニ人間』にエピローグをつけるとしたら、自己決定をするようになった古倉さんは働きがいを感じられるのだろうかと問いかけました。私の考えでは、モノ扱いされたと感じ意欲を削がれてしまう場面に遠からず直面するでしょう。それでも現場と本社などの立場を越えた仲間を得て、顧客が価値を感じられ従業員も働きがいを感じられる店を目指して現状を変えることに取り組み、その中で少しずつ充実感を得ていくのではないかと、願望も込めて想像しました。

【2】フィードバックについての省察

 当日も事後も多くのコメントをいただき、ご参加の皆様のおかげで何倍にも面白い時間になりましたし、私も大変勉強になりました。ありがとうございます。

 それでは、ご質問にお答えしたいと思います。

>計量テキスト分析について、コンビニ人間を読むうえでどのように活用できるでしょうか?小説を深堀りして解析する以外に、小説を楽しむためにも活用できたりするでしょうか?

 こちらは当日お答えしましたが、肝心な内容を漏らしてしまったため補足いたします。

 計量テキスト分析の良さは、主観的な印象と客観的な分析結果との比較から発見を得られることにあると思います。発表や当日の回答は、語の単位での狭く深い方向の分析の話に留まりましたが、より広い視点で、事柄の単位で分析することが可能です。KH Coderでは、コーディングと呼ばれる手順を踏むことで、特定の事柄の出現する場面や、出現回数の増減等を確認できるようになります。樋口耕一『社会調査のための計量テキスト分析』p.31-49では、チュートリアルとして夏目漱石『こころ』を取り上げ、人の死という事柄について分析し、「先生」の死が唐突に見えるという批判を検証しています。

 『コンビニ人間』も、私としてはラストの古倉さんの変化が唐突に訪れた印象を受けたので、同様の分析を試みたのですが、習熟不足と時間的制約のため十分な結果を出すことができませんでした。1計量テキスト分析について事柄単位の分析も加えたうえで、2主人公の変化の考察を融合させられれば、2の客観性をより高められたと思います。

『コンビニ人間』の店員の交換可能性と、『クララとお日さま』のAIの代替可能性は、どう違うのだろうか?すぐに思いつくのは、通貨は交換可能性、代替可能性とは言わない?

 発表では、交換と代替という言葉を区別せず使ってしまいましたが、コメントを拝見し、両者の違いに注意を向けることができました。ありがとうございます。直接的なお答えにならないかもしれませんが、私なりに考えたことを書きたいと思います。

 『コンビニ人間』の古倉さん達従業員は、個別性を保持したまま、店員という役割に関して交換可能となります。

 一方『クララとお日さま』では、ジョジーに万が一のことがあったら、AIロボットのクララがジョジーの代替となる(クララが、ジョジーを精巧に模したロボットに移行する)という計画が立てられます。これはクララの個別性が失われることを前提とします。もしクララが人だったら、技術的に可能であってもそのような計画は立てないでしょう。クララが、計画を実行した場合もともとのクララの本体はどうなるのだろうかと問うたのに対し、ジョジーの母親は問題にすらしていない様子が描写されます。(カズオ・イシグロ『クララとお日さま』文庫p.337)ここから、母親が、ロボットは道具なのだから人の都合に合わせた使い方をするもので、個別性を尊重する必要はないと思っていると推測できると思います。

 ところで、日常生活で擦り減ったタイヤを新品に取り替えるとき、「タイヤを交換する」と言います。「タイヤBに、亡くなったタイヤAの代替となってもらう」とは言いません。同じ型番ならタイヤAもBも同じと見なし、個別性はないものと考えるからです。

 交換可能な店員という表現には、タイヤ交換と同じく、店員を務め得るならヒトAヒトBヒトCも同じというように、個別性の排除の前提が置かれているように思います。しかし、人は個別性を保持したまま、店員という役割を果たすので、店員である間も同時にその人自身でもあります。店員の役割を担う人の個別性は、店員と不可分です。それにも関わらず個別性の排除の前提が置かれるところが、交換可能な店員という表現の特徴かと考えました。

古倉さんの至った「コンビニ人間」としての再生という終幕は正視できる順当なエンディングなのか、それともさらに読み手を不安な境地へと追い込む波乱含みのエンディングなのか(以下、勝手ながら編集させていただきました。)作中では、古倉さんの36歳、独身、アルバイトという設定が「普通」ではないことの表象とされますが、2024年現在では状況が変わり「普通」となりました。それでも、女性や外国人を含む非正規労働者は、経済的、体力的に厳しい状況に置かれており、古倉さんやダット君達の今後が気がかりです。

 小林さんからも当日、非正規労働の拡大によって経済的な格差が広がってきたという、2024年現在も含めた社会的背景についてご指摘をいただきました。先行研究でも、古倉さんの今後について、非正規労働による生活困窮の恐れが指摘されています。(サービス業と社会的承認 : 『コンビニ人間』と異世界男子の時代に 久米依子 2021年)

 ご指摘を受け止めながら、私の見方を付け加えるとしたら、非正規労働者の待遇適正化は、事業存続には不可欠となるだろうと予想します。もちろん簡単なことではないからこそ適正化が進まない現実があるのですが、魅力のない職場には無限に労働力は供給されないと思います。加えて古倉さんも、自身の待遇等について気に留めてこなかったように見えますが、作品のラストに変化したことで問題意識が芽生え、エピローグとしてお伝えした展開になり得るように考えます。読み手が(ことによると古倉さんも)不安になるかもしれませんし、波乱含みでもあるものの、希望を持てるエンディングでは、とお答えしたく思います。

 今回は、働くことで生じる他者との関係性の負の側面を取り上げました。言うまでもないことですが、他者との協働を通して得られる喜びもまた、確かにあります。より多くの人が働くことから喜びや充実感を得られるようになることを願います。

 最後になりましたが、参加いただいた皆様、運営いただいた南谷さん、小林さん、平繁さん、共催の「人間・社会・自然の来歴と未来―「人新世」における人間性の根本を問う」、皆様に改めて御礼申し上げます。

(文責:金嶋ゆうひ)